3人目の夫は102歳。これが私たちの結婚生活。

私がどれだけ年をとっても、彼よりはいつも年下だ。
筆者と彼女の夫
COURTESY OF JANET ALBAUGH
筆者と彼女の夫

私は65歳のとき、25歳年上の男性と結婚した。どちらも再々婚で、彼はもうすぐ90歳になるところだった。共通の友人たちが私たちを引き合わせてくれた(彼の親友は私の親友と結婚している)。私たちは2人とも伴侶を失くしていて、私にはもっと社交が必要だったからだ。

最初は友人として、気さくに付き合い始めた。彼はよくロサンゼルスのおしゃれなレストランに連れて行ってくれた。なじみの便利屋を頼んで何でも修理してくれたし、庭師をよこしてうちの裏庭の面倒も見てくれた。

その後のある日、近所の人と朝の散歩をしているとき、私は足を滑らせて手首を骨折してしまった。自分で運転して病院に行くことができなかったので、彼が代わりに運転して連れて行ってくれた。うちには階段があるので、階段のない彼の家に、無条件で滞在するよう強くすすめられた。ケガが治るまで、私専用の寝室とバスルームを提供してくれるという。私は同意した。正直に言えば、理に適う申し出だし、淋しさもまぎれると思った。

私がどれだけ年をとっても、彼よりはいつも年下だ。

3度の結婚などたやすく起こり得ることを、分かっている人は少ないのではないか。私たちはそれぞれ20代のとき、あまりよく考えずにニューヨークでパートナーを選んだ。そして最初の結婚はどちらも6年か7年後に終わった。数十年独身生活を楽しんだ末、それぞれ素晴らしい愛に出会った。お互い、相手をガンで亡くすまで私たちは幸せに暮らした。どちらも子どもは持たなかった。そのあと私は4年間、彼は2年間、1人で過ごした。

隣人には、半分死にかけの人と付き合っている、と言われたが、彼はまだ90歳になったばかりだったがとても健康だった。私は、「彼と付き合っている」わけではない、と隣人(と自分自身)に言い聞かせた。私はただ、彼のひとり暮らしを助けているだけだ、と。90歳近い人と「付き合う」のは恥ずかしかった。そのような事態を想像したこともなかったからからだ。

私はもっと他の人と付き合えるはずなのに、と思い、友人たちがどう見ているかと考えては困惑した。初めは彼に恋愛感情はわかなかったし、ましてや結婚など思いもよらなかった。でも、彼はいつもプレスしたブルックス・ブラザーズの洋服で全身を固め、エレガントなレザーやスエードのボンバージャケットを着ていたので、年齢よりも若く見えた。

彼は私よりもエネルギッシュだった。同年代の人たちと違って、歩行器や杖を必要としていなかった。何かを落とせば、深くしゃがんで拾い上げた。階段を1段飛ばしで上がった。第2次世界大戦に従軍し、ウッドストック・フェスティバル(1969年に行われた野外ロックコンサート)に行った経験もある。(たぶん、フランク・シナトラみたいな恰好で)ボクサーとして全米アマチュア大会にも出場し、ビジネスマンとしても成功していた。私がどれだけ年をとっても、彼よりはいつも年下だ。


彼は、私の大切な人になっていた。

付き合い始めた頃(一緒に過ごすようになってまだ3か月ほどだった)、彼は台所をリフォームしてほしいと言ってきた。私は、誰もそこで料理してないじゃない、と冗談を返した。彼の亡き愛妻は、引き出し、オーブン、食器洗い機にファイルを詰め込んでいた。

でもある日、仮の住まいである彼の家に戻ると、彼がつるはしを台所に持ち込んで床のタイルをはがし、ドアの外に出していた。彼のために、私は台所の改装、新しい器機の設置、悲惨な戸棚の白いペンキ、新品のシックなカウンター選びを監督した。私は壁をアップルグリーン色にし、そこにずっと住むわけでもないのに、新鮮ではっきりした色彩に幸せな気分になった。

少しずつ、彼は私のためにお金を使い、彼の家、彼の生活の一部を差し出すようになった。彼が私に生活の面倒をみてもらいたがっているのは分かっていた。自分でやらなくていいように。私はまだ小さな家を持っていたし、いつでも戻れたが、彼の家には新しい台所があり、週に2度、お手伝いの人が通ってきていた。彼女は誰も指示をしなくてもシーツを交換し、洗濯をし、銀食器を磨いた。

そして、6週間がたって手首が癒えても、私は留まり続けた。彼と一緒の日々は快適で、あっという間に数週間が数か月になった。私には兄弟も子どももおらず、最近1年半の間に私をかわいがってくれた大好きな4人の叔母や叔父たちが亡くなり、誰もいなくなってしまった。彼は叔母たちと同年代で、一緒にいると、今も家族がいるように思えた。これから、誰が私を愛してくれるのだろうか?

彼は私の家族になっていた。最初は友人の友人、それが私の友人になり、私の人生において大切な人になった。引っ越したのは利便上の理由だったが、彼の懐の深さに私はすっかりくつろいでいた。他人がどれだけ年齢差を言い立てようと、私は心からこの男性を愛するようになったのだ。


結婚へ

その次のホリデーシーズンには、彼は小切手帳を渡して、2度と私にプレゼントを買わない、と言った。何か欲しい物があれば、自分で買いなさい、と。決してロマンチックなやり方ではなかったが、それでも彼がいとしかった。彼なりに私を大事にしたいと思ってくれたのだ。

数カ月たって、私たちは親密になっていた。彼は月に1度、結婚したいと言い始めたが、私はプロポーズを断った。彼の年齢や、他人がどう思うかを考えると戸惑った。私はまだ、遺産を狙って墓に片足を突っ込んだ老人と結婚するのだと思われるのを気にしていたのだ。25歳年上の男性と結婚したいだなんて、何と言われるだろう。けれども、私は2人で旅行に行く計画にのり、ガラパゴス諸島で楽しい時間を過ごした。彼は船内で最年長だったが、階段や山道ではいつも先頭にいた。

頑丈な彼(風邪すらひかない)と違い、私は薬でコントロールできない不整脈に悩むようになった。月に2、3回、心臓に異常を感じることもあった。切除手術の後、術後室で緊急事態に陥ったとき、彼は部屋に入れてもらえなかった。私たちが家族ではなかったからだ。

もう1年近く彼と一緒にいた。家族と同じくらい近い存在になった。それなら結婚しない理由はないので、私たちは結婚した。私に失うものなどあっただろうか?彼は既に私の家と社会生活の最も重要な人物だった。私たちは彼の友人たちと一緒に食事に出かけていた。彼はいつも愛をもって接してくれ、私もまた、彼に愛情を感じ始めた。

互いに過去の大きな情熱の代わりになることはないと分かっていたけれど、一緒に幸せにはなれるだろう。私は家を貸し、彼を寝室に永久に招き入れた。そして、90歳という彼の年齢にもかかわらず、私たちはすごくいいセックスをした。


人がなんと言おうと、私は幸せ

私は料理に創造性を発揮するのを諦めた。なぜなら、彼は小学校のカフェテリアに並ぶようなものしか食べないからだ。スパゲッティミートソース、チキンヌードルスープ、ツナサンドイッチなど。私はトレーダー・ジョーズ(スーパー)やレストランで大半の食事を調達するようになったが、晩に2人で過ごす時間を大切にしている。

5、6年後、私たちは同じベッドで眠るのを止めた。私は就寝中に腕を振り回すし、彼はむずむず脚症候群を患っているからだ。その数年後、セックスをするのもやめた。彼は今も昼食にサンドイッチを作ってもらいたいと言う。彼はチーズをパンにのせることさえ思いつかないのだ。別の時代の男である。

不機嫌な老人になることもある。受話器から音が聞こえないと言い、2度と電話をかけないし、自宅にかかってきても出ない。私は医師の予約、薬の補充、請求書の問題の対応を全部やっている。ケーブルテレビ、電話、下水道の修理を頼むのもすべて私の仕事だ。

2番目の夫はフェミニズムを理解していて、この手の問題を抱えたことはなかったが、今の夫には「女の仕事」という考え方があった。私はその考えを変えようとしたが、無駄に終わった。とはいえ、それを煩わしく感じたり、彼をイヤな人だと思ったりしたことは一切なかった。

何歳のときも、どの結婚でもそうでありたいと思っていたように、私はおもてなし好きで、社交秘書だ。女性の多くは中年にさしかかり、子どもたちが巣立ったり、子どもがいなかったりして独り身になると、交友を求め始める。私も例外ではなく、夫がどれだけ家事をさせたがろうと、彼と共にいることで淋しさがまぎれている。

私は健康で子どものいない優しい人を手に入れた。彼の遺言に私の扶養が約束されているのが分かっているので、安心感がある。彼が浮気をする心配もない。

私には家族を失って独り身でいる友人たちがいる。既婚女性の多くは、1人で誰にも頼らず自由でいるほうが、25歳年上の誰かと一緒にいるよりも楽しいと思うようだ。でも実際には、私は今の結びつきの中でとても守られていると感じている。

もちろん、ちょっとした世代間ギャップはあり、彼は「性別役割の規範」を守ることを好んでいるが、何とか対応できている。私は幸せであり、それが何より大事なのだ。だから、残されている時間がどれほどであろうと、人がこの結婚について何を言おうと、私は楽しむつもりである。

ハフポストUS版の記事を翻訳・編集しました。