若い=バカの風潮に「結果で見とけよ」。“最年少上場女性社長“が目標だった私がめざす、新たな“1番”

女性で20代というだけで、ビジネスシーンでバカにされることも多かった。それでも私は、何かで1番になりたかったんです。
高畠侑加さん
高畠侑加さん
撮影:榊原すずみ

ジェンダーギャップが大きく、女性管理職が少ない日本。

就職活動で、学歴重視の傾向がまだまだ根強い日本。

そんな日本のビジネス界のなかで、元モデル、日本での最終学歴は中卒で社長を務めている女性がいる。

サッカー選手のマネジメント事業と、「サッカーのあるライフスタイルを創造する」をコンセプトに東京の千駄ヶ谷と表参道ヒルズ、大阪、名古屋、福岡のほかオンラインでアパレルショップを展開する株式会社バランススタイル代表取締役の高畠侑加(たかはたけ・ゆか)さんだ。

2010年のオンラインショップ立ち上げから2020年1月22日に6店目となるリアル店舗を福岡にオープンするなど着実に事業を拡大している、彼女の仕事に対する思いやその原点、女性ならではの苦労を聞いた。

オンラインストアだからこそ、リアル店舗で買ったような体験を

――2010年に高畠さんがバランススタイルのオンラインショップを立ち上げることになった経緯を教えてください。

もともとバランススタイルは今の夫であり、2019年まで共同代表取締役をしていた高畠太志が、サッカー選手のマネジメント事業をしていた会社です。その所属選手が本田圭佑選手でした(当時。現在はセレッソ大阪在籍の柿谷曜一朗選手ほか計3人が所属)。

2010年、本格的にオンラインショップを始める前から、本田選手が在籍しているチームのユニフォームをオンラインで販売していたのですが、購入方法はいわゆるメールオーダー制。メールで注文を受け、振り込み口座をメールで返信、入金が確認できたら発送するというシステムでした。

あとで詳しく話しますが、私は2007年にアメリカに行って、「Victoria’s secret(ヴィクトリアズシークレット)」のミスト系の化粧品を買い付けて日本で売るオンラインショップを独学で作った経験がありました。だから共通の知人を通して知り合った太志に「手伝おうか?」と申し出て。

ユニフォーム以外にも、本田選手が愛用している「GaGa MILANO(ガガミラノ)」の時計もオンラインで売ってみようとなり、たしか月額780円くらいだったと思うのですが、オンラインショップを作ったのが始まりです。

――とても高価な時計をオンラインでというのは大変だったのではないですか?

2010年くらいというと、「オンラインショップはディスカウントがメイン」というイメージが強い時代。そして「オンラインだから無人」「問い合わせの連絡先がわかりにくい」など利用者にとって親切ではないサイトが大半で、「これって本物なのかな?」と不信感を抱いている人も多かったと思います。それに、ガガミラノの話で言えば、ガガミラノのショップでも時計店でも売っている。じゃあ、どうやったらバランススタイルを選んでもらえるか考えたら、「真心」しかないと思ったんですよね。

だからこそ、「リアル店舗で買ったような体験ができるようにオンラインストアを作る」をコンセプトでこれまでずっと運営してきました。

その一環として、商品の発送が完了したら購入してくれたお客様にお礼の電話をかけることにしました。注文受付のお礼や発送のお知らせをメールで済ませるオンラインショップも多いでしょうが、うちではオンラインショップオープンから現在まで、ずっと購入してくれたお客さま一人ひとりに電話をかけ続けているんですよ。

電話をすると「あのさ、聞きたかったことがあるんだけど」と会話が生まれたりもする。最近は、電話をかけるのが苦手な人も多いと聞きますが、うちのスタッフはみんな電話が大好きです。毎日、お客さんにお電話をしているから。

ほかにも正規の商品を取り扱っているからこそ「いつでも電話してくれて大丈夫ですし、安心してください」と伝えるためにオンラインショップのトップページにわかりやすく電話番号を掲載したり。

2013年くらいまでスタッフもそんなにいなかったので、注文を受けて梱包し、発送、お礼の電話をかける一連の作業は全部、長らく私一人でやっていたんですよ(笑)。海外出張している時は、海外転送で電話をかけたことも。

その後、時計以外にも「オフ・ザ・ピッチ」でサッカー選手が愛用していて、日本ではバランススタイルしか取り扱っていないブランドの商品というのを条件に、バッグなども扱うようになり、2014年に千駄ヶ谷でたった8坪の1号店を出したのをきっかけに靴やTシャツなどの洋服もと、取り扱い商品が広がって、今にいたります。

高畠侑加さん
高畠侑加さん
撮影:榊原すずみ

アメリカで「ナイス・トライ」という言葉に衝撃を受けて

――サッカーやファッションは昔から好きだったんですか?

サッカーに関しては、2歳上に兄がいるのですが、その兄がサッカーをしていて、小学校、中学校時代はセレッソ大阪いました。柿谷曜一朗選手も同じセレッソ大阪にいたので、幼なじみとして育ったんです。週末になると妹たちと一緒に兄の試合を観に行くなど、小さい頃からサッカーは身近にありました。私自身、フットサルをしていた時期もあるんですよ。

ファッションは、14歳から雑誌のモデルをしていたんです。最初はティーン雑誌『Hana*chu→』で、そのあとはギャル雑誌の『Cawaii !』。テレビのお仕事もしていました。だから、ファッションも好きです。

――先ほど2007年にアメリカに行ったとおっしゃっていましたが……

高校2年生の夏休みにアメリカに行きました。

所属していた事務所と契約満了になって、半年くらい芸能活動をお休みすることになったんです。それまでは夏休みになると仕事が忙しかったから、本当の意味での“夏休み”を経験していなくって。だったら、アメリカに行って夏休みらしい夏休みをしたいなと思ったんです。1週間のアクティングスクール・プログラムを見つけて、参加しました。英語は好きだったけど、ほとんど喋れないのに(笑)。

そうしたら、日本で受けた演技レッスンなんかより断然楽しかった。ろくに英語の喋れない私の演技を「ここが良かったと」と言ってくれる。アメリカにいる人たちは「自分は自分、人は人」という考え方がベースにあって、自分に自信があるから人を褒められるんだ!と衝撃を受けました。そして「ナイス・トライ」という言葉。チャレンジをすることにすごくポジティブなんですよね。

日本で自分が気にしてきたことや、大切にしなくちゃいけないと言われてきたことと、この人たちが大切にしていることって全然違うんだなと思いました。だから「私はここにいたい!もうちょっとここで勉強したい」と思っちゃって、ニューヨークにある学校に入学申請して、合格。日本の高校はやめて、そのまま9月からニューヨークで高校に通うことにしたんです。

日本の先生は「え! 来年の話じゃないの? 今すぐ? このまま?」と驚いていたけど(笑)。だから私、日本の学歴では中卒なんですよ。

でも多分、あのまま日本にいたら、私はすごく窮屈だったと思う。モデルをしていたから髪の毛を染めていたけれど、学校の校則ではダメで、勉強の成績もちゃんと残しているのに、仕事をしていて学校に行けていないからダメとか。アメリカで、自分に合わない場所に無理にいる必要はなくて、合う場所を見つけてそこに行けばいいんだと思えました。

――英語はほとんど喋れなかったとおっしゃっていましたが、苦労も多かったんではないですか?

それは、大変でしたよ!しかも私、日本人学校じゃなくて、現地の学校に入学しちゃって(笑)。先生は全員、もちろん英語だし、1学年上に日本語喋れる先輩がいた以外、誰も日本語は知らない環境でした。

だから、初めての試験を受けた時、時間内に全然終わらなくて。みんなと違って、問題を解くまえに英語を理解するという1ステップが必要だから、どうしても時間がかかってしまいます。テスト終わって、答えがわからないのではなくて、時間が足りないのが悔しくて、私、先生に訴えたんです。「悔しい、わからないわけじゃなくて時間が足りないのが悔しい、テストをもう1回やりたい」って。そうしたら先生が『じゃあ、思う存分やっていいよ』ともう一度テストを受けさせてくれました。日本だったら、絶対そんなことないでしょう?

確かに大変なことも多かったけれど、その分、学ぶことも多かったと感じています。

例えば、アメリカの高校で「自分についてエッセイに書く」課題が出たときに、私、全然書けなかった。そして「自分はこういう人間」ということを全然考えてこなかったとハッとさせられました。日本で勉強というとテストのために暗記をすることが多いけれど、アメリカではこうやって、自分のことを書くことで自分を探し、理解して、何が得意で不得意でというのを一人一人が知っている。それはすごく大きな武器だなと感じました。

――アメリカの高校を卒業した後は、どうしたんですか?

高校は、1年早く飛び級して卒業して、大学に行きました。でも半年でやめたんです。

アメリカに滞在して勉強するのはとてもお金がかかります。それに20歳を前に、日本に戻って芸能活動をもう一度やりたいという思いもありました。

ところが、帰国して間もない頃に、先ほどお話ししたようにバランススタイルのお手伝いをすることになってしまって。

――では、芸能活動は再開しなかったんですか?

一応、事務所には所属したんですが、アメリカに行っている間に日本語がカタコトになってしまっていて、日本語レッスンに通わなくてはいけなくなって。

その上、オンラインショップの仕事を手伝い始めたら、アメリカで自分が作っていたVictoria’s secretの下着を売るサイトと比べものにならない売り上げが上がることも、取り扱う商品を海外の企業相手に交渉したりするのも楽しかった。だから芸能活動は再開しませんでした。

もちろん、昔一緒に仕事をしていた子がテレビや雑誌でバンバン仕事しているのを見ると、羨ましいと思わないわけではありません。

彼女たちは華やかな場所にいるのに、一方私は、サイトを作って、商品登録、梱包・発送して、電話。すごく地味なことしていると悔しい気持ちを抱いたことがあったのは事実です。でも仕事を通じて、自分にできることを少しずつ増やしていく大切さが身に染みました。まだ10代や20代前半のうちのスタッフたちには「遊びたいのもわかるし、楽な道はいろいろあるけれど、それは永遠に続かない」とよく言っています。だから「今、一生懸命やらないと」とも。

高畠侑加さん
高畠侑加さん
撮影:榊原すずみ

女性、若い=バカにされる日本だからこそ、1番になりたい

――日本はまだまだジェンダーギャップが大きい国です。女性、そして20代で代表取締役しているからこそ直面する大変さなどもあるのではないでしょうか?

女性、若い=バカにされると感じることが多いですね。私は見た目や喋り方が知的に見えないタイプ。そのうえ女性で20代。だからよくビジネスシーンの集まりなどに参加しても、その場所に「いない」ことにされます。人間として扱われていないなと感じることすらある。

アメリカにいた頃は、何歳だろうが、どこ出身だろうが関係なく一人の人間として、付き合ってくれる人が多かったように思います。その人が魅力的だったら付き合うし、話す。

オンラインショップ事業も、海外との取引では私の年齢が若いから、女性だから取引はしないというチョイスが彼らにないので、やってこられた側面も大きいと思っています。日本企業と取引するオンラインショップだったら、こうはなっていなかったかもしれません。

――バカにされていると感じたり、その場に「いない」ことにされたりしたとき、どんなふうに対応するのですか? 怒るとか?

怒ったり、何かを言ったりはあまりしないですね。心の中で「ビジネスでの結果は絶対に自分の方が出す」「結果で見とけよ」と思っています。ある意味、あまりにバカにされることが多すぎて、それに慣れてしまったのかもしれない。だからこそ、何か一つ、成し遂げたいんですよね。

――例えば、どんなことを思い描いていますか?

実は、私には“最年少上場女性社長”になるという野望を持っていました。2017年にWantedly社が上場して、仲暁子さんが最年少記録を32歳に更新しました。今の私は29歳、記録を更新できるように頑張っていたんです。

でも、最年少記録を更新するよりも会社の成長や事業拡大のほうを重要視した結果、目標達成の優先順位が少し低くなったため、先送りにしました。

仕事をするうえで、絶対に成し遂げたい大きな目標ではあったのですが、私個人として、また新たな目標を見つけたいと気持ちを切り替えました。私、昔から、なんでも1番にならないと気が済まない性分だったんですよ(笑)。勉強も1番じゃなきゃイヤだったし、モデルをしている時も、雑誌で1番人気があるモデルになろうと一生懸命でした。

だから、私、仕事でも何かで1番になりたかったんです。それが今までは「年齢で1番」だったわけだけれど、1番はほかにもいろいろあると思うんです。今までも、大きなこと、小さなこと含めたら、失敗も挫折もありました。だからこそ、私は私の「1番」をこれからも探し続けたいと思います。

高畠侑加さん
高畠侑加さん
撮影:榊原すずみ

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