弱小プロ野球チームを支えた悲運のエース 韓国に渡り、燃え尽きた在日コリアン選手を追った映画

福士投手の生涯を追った映画を、韓国人留学生の李泳坤(イ・ヨンゴン)さん(26)が、卒業制作のドキュメンタリー映画「玄界灘の落ち葉」にまとめた。

1980年代、産声を上げたばかりの韓国のプロ野球のチームに、日本で活躍した在日コリアンの選手たちが入団し、韓国野球のレベル向上に貢献した。

その中の一人、故・福士敬章投手(韓国名・張明夫)の生涯を、武蔵野美術大学の韓国人留学生、李泳坤(イ・ヨンゴン)さん(26)が、卒業制作のドキュメンタリー映画「玄界灘の落ち葉」にまとめた。

弱小チームで30勝を挙げたが、4年で燃え尽き、薬物事件で韓国を追われた幻のヒーロー。「福士選手の話だけじゃない、その背景に潜んでいる日韓関係の問題や、その中で苦しむ在日という存在についても、多くの人に見て、考えてもらいたい」と話す。

1984年4月、三美の本拠地・仁川で並んだ元巨人の新浦壽夫投手(左、金日融)と福士投手。『文芸春秋』1984年7月号より
1984年4月、三美の本拠地・仁川で並んだ元巨人の新浦壽夫投手(左、金日融)と福士投手。『文芸春秋』1984年7月号より
YOSHINO Taichiro

巨人から韓国に渡り、3年間で計54勝をあげて日本球界に復帰した新浦壽夫投手(韓国名・金日融)や、日韓両国で監督を務めた白仁天氏らの活躍を覚えているのも、韓国ではもはや40代後半以上。20代の李さんはなぜ、福士投手に光を当てようと思ったのだろうか。

■投げて、投げて、年間30勝

その前に「玄界灘の落ち葉」や当時の資料をたどりながら、福士投手の生涯を振り返ってみたい。

1980年は広島の先発の柱として15勝を挙げ、日本シリーズでも勝ち星を収めた。朝日新聞1980年9月5日付
1980年は広島の先発の柱として15勝を挙げ、日本シリーズでも勝ち星を収めた。朝日新聞1980年9月5日付
朝日新聞社

日本生まれの在日コリアン2世で、鳥取西高から「松原明夫」の名で1968年秋に巨人に入団。のちに「福士」姓となり、1982年までに南海、広島の3球団で通算91勝84敗9セーブを挙げた。82年秋に渡韓、創立2年目の三美(サンミ)スーパースターズに加わった。

当時32歳。1億ウォン(当時のレートで約3300万円)以上の高額な年俸が現地で大々的に報じられた。今でこそ国際試合で日本と接戦を演じる韓国野球だが、三美のライバル、ロッテジャイアンツなどで監督を務めた朴永吉氏は「草創期のレベルの差は、囲碁で例えれば九段と初段ぐらい」と振り返る。そんな時代の「外国人選手」だった。

朴永吉さん。福士投手の現役時代に韓国ロッテ、サムスンなどで監督やコーチを務めた。映画「玄界灘の落ち葉」より
朴永吉さん。福士投手の現役時代に韓国ロッテ、サムスンなどで監督やコーチを務めた。映画「玄界灘の落ち葉」より
Paul Young-Gon Lee

韓国名・張明夫は、83年に30勝16敗6セーブを挙げ、前年に15勝65敗、勝率.188とダントツ最下位だったチームを、優勝を狙うところまで引き上げた。

スリークオーター気味の右腕で、140キロ台のストレートと110キロ前後のカーブを投げ分け、打者のタイミングを狂わせる投球術。絶妙なコントロールで凡打の山を築き、マウンドでにやりと笑う姿を、韓国の野球ファンは「ノグリ」(タヌキ)のあだ名で呼んで恐れた。

1983年のシーズンを終え「来季も20勝以上は自身がある」と語っていた。京郷新聞1983年10月6日付
1983年のシーズンを終え「来季も20勝以上は自身がある」と語っていた。京郷新聞1983年10月6日付
京郷新聞社

張明夫は、投げて、投げて、また投げた。83年は年間100試合のうち60試合に登板した。先発44、完投36。先発完投した2日後にまた先発完投、合間を縫ってリリーフという起用にも耐えた。シーズン30勝は今も破られていない韓国プロ野球記録だが、先発、中継ぎ、抑えの役割分担や、先発ローテーション制が確立した今ではありえない記録でもある。

投手は速球勝負、打者はホームラン狙い。力で押す一辺倒だった当時の韓国野球で、どんな気持ちで投げていたのか。当時の取材に、こう答えている。

福士投手とともに広島から三美に入団し、内野手として活躍した木山英求(韓国名・李英求)さんは、福士投手の心中をこう代弁する。

福士投手のチームメートだった木山英求さん(李英求)。現在は東京で飲食店を経営している。映画「玄界灘の落ち葉」より
福士投手のチームメートだった木山英求さん(李英求)。現在は東京で飲食店を経営している。映画「玄界灘の落ち葉」より
Paul Young-Gon Lee

「お金のため、という人もいましたけどね。勝たせてやりたい、という強い気持ちがあったと思います。優勝すれば選手も成長する。前の年の歴史的な大敗をぬぐわせてやりたい(と思っていた)」

「日本から来た僑胞(キョッポ、在外韓国人をこう呼んだ)が投げて、びしびし抑えられたらいけないでしょう。『よーし、張明夫を打ってやろう』という気持ちになれば、韓国の野球も強くなる。『韓国野球を強くしてやろう』いう気持ちは、すごく持ってましたよ」

しかし過密日程も災いし、83年は前後期とも2位に終わった。酷使は、確実に選手生命を縮めた。翌84年は13勝20敗、85年は11勝25敗。別チームに移籍し、わずか1勝しかできなかった86年を最後に、戦力外通告を受けた。

右打者の胸元に曲がってくるシュートが得意だったが、当時の韓国では「ビーンボール」と呼ばれ非難された。審判の判定にも猛然と抗議した。木山英求さんは「世界をめざして野球をしよるわけなんです。『韓国ルールじゃだめなんじゃないか』と発信してましたね」。写真は東亜日報1983年6月8日付
右打者の胸元に曲がってくるシュートが得意だったが、当時の韓国では「ビーンボール」と呼ばれ非難された。審判の判定にも猛然と抗議した。木山英求さんは「世界をめざして野球をしよるわけなんです。『韓国ルールじゃだめなんじゃないか』と発信してましたね」。写真は東亜日報1983年6月8日付
東亜日報社

私生活は破天荒だった。外国人専用のカジノに出入りし、女性関係も派手だったと、当時を知る人々は証言する。朴永吉氏は「野球人材としては惜しかった。日本であれ韓国であれ、まともな生活さえしていれば、今でもコーチとして待遇を受けて暮らしていただろうに」と語る。

83年の投げすぎは、本人も後悔していたようだ。引退直後の韓国テレビ局のインタビューで「30勝は、僕も、なぜあんなことをしたのか(分からない)」と答えている。

「最初の年に30勝しなければ、もっと長くやれたのでは?」と記者が質問すると、福士投手は突然、涙を浮かべた。「もったいない。18年もプロ野球をやって、他人から辞めろと言われ…バカみたいで」

1986年のテレビ映像から。「最初の年に30勝しなければ、もっと長くやれたのでは?」と質問され、涙を浮かべる福士投手。映画「玄界灘の落ち葉」より
1986年のテレビ映像から。「最初の年に30勝しなければ、もっと長くやれたのでは?」と質問され、涙を浮かべる福士投手。映画「玄界灘の落ち葉」より
Paul Young-Gon Lee

別の理由もあった。86年に日本で投資詐欺に遭い、韓国では借金の連帯保証を背負わされ、韓国で稼いだ金も、広島に建てた家もほぼ失ったと、当時の週刊誌の取材に答えている。

引退後は2球団でコーチを務めたが、いずれも続かず1年程度で辞めた。83年のマウンドでの輝きを取り戻そうと焦って覚醒剤に手を出し、91年に発覚して警察に逮捕された。

執行猶予つき有罪判決を受けて釈放された福士投手は、日本に戻って職を転々としたようだ。2005年4月13日、店長をしていた和歌山県みなべ町の雀荘で、ソファーに横たわったまま冷たくなっているのを、出勤してきた店員に発見される。54歳の孤独な死だった。

雀荘の壁パネルには「落ち葉は秋風を憎まない」と自筆で書かれていたという。

■「人間なんて、そんな完璧ではない」

李泳坤さん
李泳坤さん
YOSHINO Taichiro

映画を撮影した李さんはソウル出身の26歳。どうしてこの題材を選んだのか。

高校生だった2008年、自宅近くのアマチュア専用球場に突然、プロ野球チーム「ヒーローズ」が誕生した。最初の5年間は、8チーム中6~8位を行き来する弱さだった。

その起源は、前年に経営難で解散、分裂した仁川のチーム。さらにさかのぼると、1982年誕生の三美スーパースターズがあった。財政難で下位をさまよい4年で売却されたスーパースターが、目の前のヒーローに重なって見えた。そして張明夫という、伝説の投手がいたことを知った。

「張明夫はヒーローとして記憶に残るには、私生活が悪すぎた。しかし、大好きな野球には情熱を惜しまなかった。私も含め、人間なんて、そんな完璧なものではない。だからこそ、完璧でない生き方を語りたかったんです」

■「もらうだけもらって忘れてしまうのではなく」

福士投手の異母兄、張在絃さん。映画「玄界灘の落ち葉」より
福士投手の異母兄、張在絃さん。映画「玄界灘の落ち葉」より
Paul Young-Gon Lee

日本による植民地支配、そして第2次世界大戦。映画は、在日コリアンが生まれることになった歴史も浮き彫りにしている。

福士投手には、韓国に異母兄がいた。今も韓国で暮らす張在絃さんによれば、父は「1945年に徴用に行った。最近、いろいろ問題になっているじゃないか。厳しい運命というか…」。父は日本で新たな所帯を持ち、福士投手らが生まれた。

福士投手は事業を営む父とともに日本各地を転々とし、やがて生母とも別れた。日本生まれで日本語しか話せず、チームの同僚とも、兄との会話もままならなかった。

在絃さんは、プロ野球選手として訪韓した福士投手と、ソウル市内のホテルで初対面したときのことを覚えている。「韓国語ができないから、ぼーっと笑っているだけ。ただ会って、手とか握って、うなずいているばかり。無愛想な性格なのかと最初は思った」

反日感情が、韓国で今よりずっと激しかった時代。「野球先進国」から来た在日選手へのまなざしにも、羨望と反感が混じっていた。

李泳坤さん
李泳坤さん
YOSHINO Taichiro

李さんには取材で忘れられない言葉があった。

「朴元監督が福士選手について『兔死狗烹』(としくほう)という言葉を使ったんですね。利用するだけ利用して、あとは用なしだから捨てようという意味。私にとってすごく悲しい言葉だったので、映画の本編に入れられなかった」

「今の韓国を見ても、貧しかった時期に在日韓国人が投資で貢献したことなども、ほとんど知られていない。もらうだけもらって忘れてしまうのではなく、もっと覚えていてほしい。一つ一つの出来事を、歴史としてちゃんと受け継ぎたいというのが私の思いです」

李泳坤さん
李泳坤さん
YOSHINO Taichiro

3月に大学を卒業する李さんは、いったん韓国に帰国し、再取材や編集を加えた上で、日韓両国で劇場公開を目指すという。

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