全国の被災者に「私たちだけではない」と知って欲しい。阪神・淡路大震災の証言集を出版へ

「阪神の被災者の経験を、全国の被災者の心のケアや今後の支援につなげたい」。証言集を作るため、クラウドファンディングで支援を呼びかけている。
20年来の付き合いがある被災者と話し込む牧秀一さん=朝日新聞社撮影
20年来の付き合いがある被災者と話し込む牧秀一さん=朝日新聞社撮影

阪神・淡路大震災の発生直後から25年間、被災者たちの声に耳を傾け続けてきた神戸市のNPO法人「よろず相談室」の牧秀一さん(70)が、被災者たちの証言集づくりに取り組んでいる。

亡くなる人も多くいる中、被災者の生きてきた証しを残そうと5年前から準備を進めてきた。牧さんは本の出版を最後に、活動から引退することを決めている。より多くの人に本を手にとってもらおうと、クラウドファンディングで支援を呼びかけている

(取材・執筆=能美舎(出版社)堀江昌史)

「被災者は365日ずっと被災者なんだよ」

牧さんは、震災後、災害復興住宅で暮らす高齢者を継続的に訪問する活動を続けてきた。

「どないしてる?」と自宅を訪ね、世間話や健康不安、生活上の悩みなど同じ目線で話を聴いた。訪問は月に1回、多いときは130世帯に及んだ。少ないメンバーで頻繁に通えるわけではなく、会えない間も「ひとりじゃないよ」と伝えるために、高齢者と支援者をつなぐ文通も助けた。

私は、朝日新聞社に2010年に入社し、神戸に赴任。2011年1月は、阪神・淡路大震災16年目の特集を組むため、被災地で支援活動をしている人たちを取材していた。

震災の日である1月17日が迫っていたある日、私は初めて牧さんに出会った。東灘区にある小さな事務所で、よろず相談室のメンバーたちが、全国から集めた手紙を被災者に渡すための整理をしていた。

牧秀一さん
牧秀一さん

いわゆる「記念日報道」に備え、私が「17日は何か特別な活動を予定しているか」と尋ねると、牧さんは「特に何もない」と答えた。

「君たちにとっては一年に一度の1月17日かもしれないが、被災者は365日ずっと被災者なんだよ。記者も長く寄り添ってほしい」

以来、私は1月17日が過ぎても、時折牧さんの元へ通い、一緒に復興住宅を訪ねてよもやま話をしたり、出会った方へ手紙を書いたりしていた。

震災1カ月後。牧さんが運転する車で東北へ向かった

その年の3月11日、東日本大震災が起きた。

私は、直ちに福島県へ向かう車に乗り込み、各地の避難所に取材へ入った。甚大な津波の被害、隆起したマンホール、何も持たずにバスに乗ったと話す原発近くの住民たち、あちらこちらで見かけた会えない家族を探す張り紙…。

神戸に帰ると、牧さんにその話をした。牧さんは、いてもたってもいられないようだった。震災1カ月後、牧さんが運転する車に同乗し、被災地へ向かった。

4月16日、一行は宮城県に着いた。

「阪神を経験した私たちには、何かできることがあるはず」

そう信じていた牧さんたちを圧倒的な海辺の光景が襲った。

高台から流された街を見る牧さんと川口さん=2011年4月16日、宮城県南三陸町
高台から流された街を見る牧さんと川口さん=2011年4月16日、宮城県南三陸町
墓地の中、横たわる電車=2011年4月17日、宮城県女川町
墓地の中、横たわる電車=2011年4月17日、宮城県女川町

「悲しいという言葉さえ、申し訳なくて言えない」

津波と火災に襲われた気仙沼市は、牧さんの記憶にある阪神大震災の情景とはあまりにも異なっていた。人の営みの跡が何もない。つぶれた家さえない。目前に広がるのは、がれきの荒野。焼け焦げた漁船。歩くたびにヘドロの腐敗臭が辺りに漂った。市のボランティアセンターに立ち寄ったが、慌ただしい現場の状況にトイレを借りることさえためらい、その場を離れた。

同行した相談室のメンバーたちも皆、呆然としていた。

小学6年のとき、阪神大震災で父親を亡くした川口和徳さんは「悲しみを経験した自分だからこそ、東日本の被災者にも共感できるはず」と一緒についてきたが、気仙沼市の鹿折中学校に設置された避難所の入口で、「悲しいという言葉さえ、申し訳なくて言えない。無責任に体験を聞いて、僕が何の役に立てるだろう」と、無力感に苛まれ立ちすくんだ。

牧さんとともに12年間、被災者たちの話しを聞いてきた梶田洋美さんも、南三陸町の高台から津波で流された街を見て言葉を失い、「ここに人が戻れるんやろうか。私に何が聞けるの。私にはここの避難所に足を踏み入れる資格はない」と泣き崩れた。

「神戸から来ました」と被災者たちへ話しかけはじめた

「何もできることはない」

そう打ちひしがれて、仙台まで戻り、宿をとった。そこで、牧さんは新聞記者など旧知の人たちと連絡を取り、石巻市や女川町にはまだ人があまり来ていない避難所があると聞いた。翌日、気を奮い立たせて石巻の避難所に入ったメンバーたちは「神戸から来ました」と被災者たちへ話しかけはじめた。

「阪神大震災で父親が亡くなったんです」と川口さんが話すと、ある老夫婦は「娘と小学5年の孫を亡くした。『助けて』って言って波にのみ込まれたんだってよ。夜中に目を覚ますと子どもの顔が浮かんで眠れねえ」と言って泣いた。一緒に話に耳を傾けていた梶田さんは、涙を流すお年寄りの背中をさすり、手を握り続けていた。

「状況を変えてあげることはできないけれど、出会った人のこの先を気にしていくことはできる」

初めて立ち寄った避難所で被災者に声をかける牧さん=宮城県気仙沼市
初めて立ち寄った避難所で被災者に声をかける牧さん=宮城県気仙沼市

継続して話を聞き続けることで、気がつく問題も多い

牧さんたちは、阪神の被災者への訪問活動も続けながら、宮城県気仙沼市、石巻市、福島県いわき市、葛尾村、熊本県西原村、東海大熊本キャンパス、広島市など、全国各地の被災者たちの話にも耳を傾け続けた。県外への訪問回数は約70回に上る。

継続して話を聞き続けることで、気がつく問題も多い。

牧さんはこう見る。

「神戸では自宅が倒壊し、避難所から仮設、仮設から復興住宅へと移り住むことでコミュニティがその度に分断され、つながりを失った人の孤独死などが問題になった。また被災後、時間の経過とともに自力で元の生活に近づけた人と、元の生活には到底近づくことが叶わない人との間に生まれる格差や偏見が深刻な課題となった」

「一方、全てが流された東北の被災地では、住居が流され、地場産業が潰れ、仕事を失った多くの人たちが元の生活には戻れなかった。格差以前に若者たちが街から消え、仮設や復興住宅に残された高齢者たちが抱える孤独は、阪神よりも深刻な状況」

梶田さんは老夫婦の話に涙を浮かべ、時折背中をさすり話を聞いていた=宮城県石巻市の避難所
梶田さんは老夫婦の話に涙を浮かべ、時折背中をさすり話を聞いていた=宮城県石巻市の避難所

「人は人によってのみ救われる」という実感

支援の方法はいろいろあるが、25年間、阪神や全国各地の被災者への訪問をしてきた牧さんが口にするのは「人は人によってのみ救われる」という実感だ。

初めて東北を訪ねたときに出会い、何度も通った石巻市のおばあさんが入院したと知らせを受けて病院へ見舞いに駆けつけると「あんたが来てくれるのを楽しみにしていたよ」と喜んだ。後に亡くなったことを聞いたときには、胸が締め付けられる思いがした。

神戸で始めた支援者から高齢者へ手紙を届ける活動も、東北でも取り組んだ。手紙を受け取るときの笑顔は全国どこでも変わらなかった。

牧さんは、各地への訪問活動を通じて「阪神の被災者たちの経験を、全国の被災者たちの心のケアや今後の支援につなげたい」と考えるようになったという。

神戸で被災者の証言を聞く牧さん(手前)=2016年、朝日新聞社撮影
神戸で被災者の証言を聞く牧さん(手前)=2016年、朝日新聞社撮影

そこで、よろず相談室は5年前から、これまで関わってきた被災者のうち22人に「震災前・震災直後・その後のあゆみ」について聞き取りを開始。被災者たちの体験談をまとめた証言集を制作しようと動き出した。現在、その制作資金をクラウドファンディングで募っている。

牧さんは、「これから災害に直面するであろう人々に阪神の人たちの経験を知ってほしい。東日本や熊本で今なお苦しい生活を余儀なくされている人たちが『阪神の人たちもこうだったのか、私たちだけではない』と知ることで励みとなるのであれば、これ以上のことはない」と話している。

クラウドファンディングによる支援の受け付けは6月3日まで。詳細はこちら

注目記事