誹謗中傷と批判はどう違う? 日本語学者に聞いてみた「相手の人格を尊重するかどうか」

国語辞典編纂者の飯間浩明さんは、「誹謗中傷はダサい」という空気を作ることで、SNS上のコミュニケーションを変えられる可能性があると話す。

SNSのあり方が今、改めて問われている。

人気リアリティ番組「テラスハウス」に出演していたプロレスラーの木村花さんが亡くなったことがきっかけだ。木村さんは生前、SNS上で誹謗中傷を受けていた。

亡くなったプロレスラーの木村花さん
亡くなったプロレスラーの木村花さん
Etsuo Hara via Getty Images

この問題を受け、ネット上の誹謗中傷をなくすために制度改正の議論も進みだした。一方で、ネット上では批判と誹謗中傷の境界についての議論も起きている。

日本語学者の飯間浩明さんは、批判と誹謗中傷の違いについて「相手の人格を尊重するかどうか」だと言い切る。そして、ネット上での誹謗中傷の言葉を減らしていくためには、「誹謗中傷はダサい」という社会的な「空気」を作っていくことが大切だとも訴える。

<飯間 浩明(いいま ひろあき)さん>
1967年生まれ。国語辞典編纂(へんさん)者・日本語学者。「三省堂国語辞典」編集委員。著書は『知っておくと役立つ 街の変な日本語』(朝日新書)、『日本語をつかまえろ!』(毎日新聞出版)など多数。Twitter(@IIMA_Hiroaki

誹謗中傷しようとするエネルギーをどうやって極小にしていくか

飯間浩明さん
飯間浩明さん
ご本人提供

木村花さんのニュースに接した時は、無力感しかありませんでした。こんな場合、言葉の専門家たる私に言えることは、ただ「人を誹謗中傷してはいけません」ということだけ。そんなことはみんな知っています。誹謗中傷をする人は、「いけない」と言われたって、簡単には行動を変えないでしょう。「この際、お互いに言葉遣いを反省しましょう」みたいなことを言ってもしょうがない。

今回の問題に関しては、言葉遣いの反省よりも、まず緊急に取り組むべき課題があります。①誹謗中傷をあおるような番組作りの見直し、② SNS運営会社のシステム改善、③プロバイダー責任制限法の制度改正の3つです。これらの課題については、今後どう議論が進んでいくか、一市民として注視していくつもりです。

そして、その次に来るのが、私たち自身の課題。お互いを誹謗中傷しようとするエネルギーをどうやって極小にしていくか、誰もが「自分は誹謗中傷を決してしない」と思うようになるためにはどうしたらいいのか。そんなことを考えてみたいのです。

「珍妙な走る集団」…。ものの言い方が、人の行動を変えた

《誹謗中傷をする人は、簡単には行動を変えないということですが、たしかに、「誹謗中傷はいけません」と繰り返すだけでは、効果は薄いのかもしれません。でも、言葉によって、人々の意識や行動を変えることは、まったく不可能なのでしょうか》

ものの言い方によって、人の行動を変えるということはありますよね。トイレに「汚さないでください」と貼り紙をしても効果は薄いけれど、「いつもきれいに使ってくださってありがとうございます」と書いてあれば「汚さないようにしよう」と思う。

この場合、貼り紙によって「ここでは誰もがトイレをきれいに使っていますよ」という空気を作っているんですね。この「空気を作る」というのが大事なんです。

もう一つ例を挙げましょう。最近、暴走族の構成員は減っています。背景にはいろいろな要因があるでしょうが、集団で車をうるさく走らせるという行動を「ダサい」と思う人が増えていることもあるのでしょう。「暴走族はダサい」という空気が一度できてしまうと、わざわざそのダサいことをやろうとする人は少なくなります。空気が暴走族を減らした面があります。

21世紀に入った頃から、暴走族のことをかっこ悪く「珍走団」と呼ぼう、という動きが広まりました。この呼び名も、空気を作る助けになったはずです。「珍妙な走る集団」。そんなダサい名前の団体には加わりたくなくなります。ものの言い方によって、人の行動を変えたわけです。

「誹謗中傷はダサい」という空気を、広げていくことが大事

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mangpor_2004 via Getty Images

人を誹謗中傷する行動も、「そういうことはダサい」という空気を作ることで、押さえ込める可能性はあります。自分を正当化しながら誹謗中傷を繰り返し、爽快感を得ている人がいます。そういう行為や、行為者に対して、何か非常に恥ずかしい呼び名を与えてはどうでしょう。たとえ匿名での行為であっても、「自分は今、非常にダサいことをやっている」と思うようになる。そんな呼び名は考えられないでしょうか。

呼び名にとどまらず、「誹謗中傷は恥ずかしい、ダサい」という空気を、社会全体に広げていくことが大事です。そんな空気ができれば、誹謗中傷のエネルギーは弱まっていくはずです。

誹謗中傷と批判をどう区別するか?

《「誹謗中傷はダサい」という空気を作ることの必要性は分かりました。一方、ネット上では、政治に批判的な声をあげる人に対して「それだって誹謗中傷だ」という意見も聞こえてきます。誹謗中傷と批判とはどう区別すればいいのでしょうか》

誹謗中傷というのは、ひとことで言うと人格攻撃なんです。相手の人格を否定し、侮辱し、場合によっては危害を加えることをほのめかします。相手本人のみならず、家族や所属先に対する攻撃も含まれます。

一方、批判というのは、相手の発言や行動が適切でないことを述べるものです。相手の人格とは関係がありません。たとえ「あなたの発言(行動)は間違っている」と批判する場合でも、相手の人格は尊重しなければなりません。

相手を尊重しながら批判するなんて矛盾するようですが、研究者たちの集まる学会では、それがスマートに行われています。研究成果の発表の後、質疑応答が行われます。質問者は「この研究発表は水準が低い」と思っても、発表者に「あなたはバカですね」「ゴミみたいな研究ですね」などと言うことはありません。それでは人格攻撃になります。質問者はあくまで、内容の妥当性について論じます。

「私はこの問題については詳しくないので、的外れでしたら申し訳ありません。先ほど『……』とおっしゃった部分は、先行研究との間に矛盾があるのではないかと思いますが、いかがでしょうか」

実は、その質問者は、発表者よりよっぽどその問題に詳しかったりします。発表者は厳しい指摘にショックを受けることもあります。でも、「誹謗中傷された」とは感じません。それは、質問者が礼儀をわきまえて発言し、あくまで相手の論理の適・不適について論じているからです。これが学会の質疑応答における「批判」です。

政治に関する議論は、どう考えるか

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政治に関する議論の中で、「政府の今回の政策は、これこれの部分に問題がある」というのは批判です。「○○大臣の答弁は過去の答弁と矛盾している」というのも批判です。

ところが、その大臣の人格に関わる部分に攻撃が及ぶと、これは誹謗中傷ということになります。権力者に対しては誹謗中傷も許されるという考え方もありますが、政策を強い調子で批判するのと、人格攻撃とは別だというのが私の意見です。

批判は冷静に行うのが理想ですが、感情的になるのもやむをえないことがあります。それは、自分や自分の関係者が足を踏まれている(被害に遭っている)場合です。

足を踏まれた側が「やめろ!」と強い調子で批判したとき、相手が「その言い方はきつい。そんな言い方じゃ聞く気にならないよ」と、発言者の言い方(トーン)を非難することがあります。いわゆる「トーンポリシング」です。そう言われると、足を踏まれた側は発言を封じられてしまいます。現在困っている人が「こんなことをされている」と思い切って声を上げるとき、それが強い言葉になるのは当然のことです。

「一般人対一般人の議論では、誹謗中傷はまったく無用の存在です」

《「首相はやめろ」といった強い言葉を、路上のデモ活動でもSNS上でもよく見聞きすることがあります。「この言い方は強すぎるのではないか」という意見に接したことが何度かあります。「やめろ」は誹謗中傷に当たると思いますか》

「やめろ」というのは、「首相は政権担当能力がないので、辞任せよ」と、強い調子で求めているわけですね。これは、もちろん人格攻撃ではありません。ところが、単に「やめろ」ではなくて、「バカ首相、やめろ」となると、「バカ」の部分は、厳密には誹謗中傷ということになる。もっとも、デモなどの場では、印象を強めるために、多少きついことばになることもあるでしょう。政治的なことばをどこまで過激にしていいかというのは、議論が必要なところです。

相手が政治家でも権力者でもなく、一般人対一般人の議論では、誹謗中傷はまったく無用の存在です。議論している相手から「あなたは無知ですね」と、たったひとこと言われただけでも傷つくものです。「無知ですね」はよけいなフレーズです。相手が知らないことがあるならば、「こういう事実がありますよ」と言えばすむところです。

SNSは、心の声が筒抜けになっている

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SFでは、人の心が読めるエスパーの頭の中に、周囲の人の思考が流れ込んでくる場面が描かれます。「ああ、金が欲しい」「あいつ死ねばいいのに」といった、心の中の声が筒抜けになってしまうのです。

今のSNSの状況は、みんながエスパーになったようなものです。それならば、エスパー同士の新しいコミュニケーションのルールを作っていかなければなりません。お互い、「心の中の声をそのまま相手に届けるのはダサいことだ」と思うようになれば、ネット上の誹謗中傷は減っていくでしょう。

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