“見える差別”と“見えない差別”の違い。あなたも無意識に「差別」をしているかもしれない

「外国人である」前提で話される私と、「外国人ではない」前提で話をされる友人。“見えない”ゆえに、彼女は目の前で差別を受けて苦しんでいたーーー。

「自分がされて嫌なことは人にしてはいけません」

幼い頃からそう言われて育ってきました。人と接する時は想像力を膨らませ、自分がそれをされたら、言われたらどういう気持ちになるかを考えて接するようにしてきました。しかし、実はこれでは不十分なのだと気付いたのはつい最近のこと。

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人生のほとんどを「孤独」の中で過ごしてきた

自分がアメリカと日本のミックスルーツであることによって、私は人生のほとんどを独特な孤独感のヴェールに包まれて生活してきました。家族から愛されているし、友達だっている。けれども、本当の意味で自分のバックグラウンドを共有できる人は周りにいませんでした。

小学校から高校までアメリカで育った私ですが、私が育ったのは主に白人が多い地域で、現地の学校で日本のルーツを持っているのは小・中・高を通して私だけでした。毎週土曜日に日本語学校にも通っていましたが、通学する学生は、駐在でアメリカに来ている家庭の子供が圧倒的マジョリティ。もちろん、ミックスの子がいないわけではなかったのですが、彼らの多くはアメリカ生まれアメリカ育ち。日本語がうまくできないため、「国際クラス」というクラスに入っており、私がいる普通科クラスではミックスの学生はとても珍しかったのです。国際クラスと普通科クラスはなかなか接点がなく、年に一度の運動会で顔を合わせる程度。友人にはたくさん恵まれましたが、日本語学校でもまた、自分の経験やアイデンティティをシェアできそうな戦友に巡り合うことはできませんでした。

やっと私と同じミックスルーツの友人ができたのは、高校を卒業して日本の大学に進学した時。この出会いは私の人生においてとても重要なものとなりました。驚かれるかも知れませんが、親とも「ミックス」であることを共有していない私たちにとって、同じ背景を持つ人と出会う機会は非常に稀なのです。

ステレオタイプの「ハーフタレント」

メディアでも、「ハーフ」の作られたイメージばかりが1人歩きし、自分という存在に近いロールモデルと出会うことはそうそうありません。メディアで持てはやされる「ハーフタレント」は、肌が白く、髪も茶色。二重で、スタイル抜群という人が多い印象があります。日本語がちょっと下手だったりして、名前のどこかにカタカナが入っている。しかし、多様な「ミックス」の中で「ハーフタレント」と呼ばれるような人たちと同じタイプに当てはまるのはごく一部。私の肌は日焼けしやすいし、髪だって黒色。身長は153センチしかない。テレビに映る彼らは、私という人間からは遠く離れた存在です。

そんな私にとって、日本の大学で同じ日本とのミックスの友人ができたことは、とても嬉しい出来事でした。

彼女は香港と日本のミックスなのですが、会話をしていても必要最低限の言葉で、二つの文化に挟まれる違いの苦悩を理解し合うことができました。彼女は、日本語、広東語、中国語、英語を操るマルチリンガルであるが故に、今喋っている言語でパッと単語が出てこないことのわずらわしさ、ミックスルーツの人間として日本社会に暮らすことの生き辛さも共有することができました。

見た目で「外国人」として受ける差別

しかし、彼女と私の間にも明確な違いがあったのです。香港と日本という二つのアジアの国にルーツを持つ彼女はアメリカと日本にルーツを持つ私と違い、外見上でミックスであると判断されることはほとんどありません。私が「初対面カード」を作るに至るような経験も、彼女はほとんどしていませんでした。

私は、「外国人である」前提で話される辛さを日々感じているのですが、一方、彼女には「外国人ではない」前提で話をされることの辛さがありました。

彼女の父方はもともと中国出身。彼女は香港育ちですが、中国にも親族がいます。

しかし、流暢に日本語を喋り日本で生活している彼女を前に、「もしかしたら中国系のルーツがあるかも知れない」と感じる人は、日本ではなかなかいないでしょう。

外見上「ミックスに見えない」ゆえの差別

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今でも覚えている出来事があります。後輩たちの新入生歓迎会に二人で行った時のこと。数人のグループで話をしていた時に、日中関係の話題になりました。その時、

「俺、なんだか中国人嫌いなんだよね。なんかマナー悪いじゃん?銀座とか、中国人観光客のせいでゴミだらけらしいよ」

と一人の男子学生が口にしました。私はふと友人の方に目を向けると、彼女の顔は険しく引きつっていました。

「マナーが悪い人は日本にだっているし、それを『中国人が』と一つのグループにまとめるのは良くないよ」

と私は焦って一言付け加えましたが、彼は止まらず。

「いや、そもそも中国人と日本人は根本的に合わないの。文化も違うし。中国人は電車の中でも喋り声が大きいし、本当に迷惑だよね」

変わりそうにない彼の態度に、私はハラハラしながら話題を変えた記憶があります。

そしてその時に、ミックスルーツに「見えない」ことで受ける差別の存在を肌で感じました。

彼女と友人関係になって7年が経とうとしていますが、似たような経験を幾度かしています。最近だと、香港で続いている政府への抗議デモについて、彼女のバックグラウンドを知らずに差別的なコメントをする人もいました。

「ミックス」だと告白するのは勇気のいること

彼女は控えめで聞き上手な性格です。自分の感情よりも、周りの雰囲気を読んで行動するタイプ。このような場面に直面しても、彼女があからさまに怒ったり、それを指摘したりするところはあまり見たことがありません。そして、目の前に自分の文化を差別する人がいるような環境で、自分が実はミックスなのだと告白するのはとても勇気がいることだと思います。

自分のアイデンティティやルーツは極めてデリケートでプライベートな内容なので、私はたとえ、前述の中国人のマナーについて話がなされるような場面であっても、勝手に彼女のバックグラウンドをアウティングすることは決してしないように心掛けています。彼女がミックスであることは伝えないまま、相手の無礼を指摘しますが、十中八九、態度を改める人はいません。

「残念ハーフ」という差別

私と彼女の違いは、これだけに止まりませんでした。

メディアによって作られた「ハーフ」のイメージがあるが故に、彼女が「自分はミックスである」と告白すると、

「ハーフに見えないね」

「せっかくハーフなのに香港だったらもったいないね」

などといった言葉が返ってくることは少なくないそうです。そしてこれらについて回る言葉が「残念ハーフ」です。

「残念ハーフ」とは、いわゆるメディアで見る「ハーフ」が持つ特徴を持たない人たちに使われるひどい言葉です。主にアジア国同士のミックスだったり、「ミックスなのに」英語が喋れない人たちを指すようです。

アメリカとのミックスである私は、この言葉で呼ばれたことは今までありませんでした。

彼女と仲良くなっていくうちに、同じミックスでもこうも体験が違うのか、と知ることができました。私は自分が外国人に見られ、よそ者のように扱われることに苦しみを感じています。しかし、彼女は逆に、日本人であると決めつけられ、彼女が当事者であると知られないまま目の前で差別を受ける苦しみを感じていました。

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人の背景は、外見のみでは決めることはできない

ルーツが見える私。

ルーツが見えない彼女。

英語に、次のようなことわざがあります。“Don’t judge a book by its cover.(本を表紙で決めてはいけない)”

本の内容は、表紙だけではなく、本を手に取り、内容を読んでみて初めて知ることができます。

人間も同じです。人の文化的背景は、外見のみでは決めることはできない。会話をしてみて初めてわかるものなのです。そのことに多くの人が気付いていけたら、彼女も私も、今のように苦しまなくても良い世界になるかもしれません。

そしてその気づきの先にある学びは、「自分がされて嫌なことはしない」のではなく、「相手がされて嫌なことはしない」です。

多様化する社会の中で、相手が何をされたら嫌なのか、どんどんと想像では補えなくなってきます。だからこそ、耳を傾け、学ぶことが今後より重要になってくるでしょう。

多くの人々の意識が、「自分がされて嫌なことはしない」のではなく「相手がされたら嫌なことはしない」にアップデートできるように。

(編集:榊原すずみ

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