アートとカルチャー
2020年09月24日 14時48分 JST

「推し」が炎上したら。新しい人間関係の可能性示した小説『推し、燃ゆ』

近年、必ずしも「オタク」という自意識を持たない人たちの間にも浸透しつつある、「推しを推す」という感情。

あなたには、「推し」と呼ぶ存在がいるだろうか。その存在は、二次元かもしれないし、三次元かもしれない。動物だったり、物や場所だったりと、人格を持たないものを推す人もいる。近年、必ずしも「オタク」という自意識を持たない人たちの間にも浸透しつつある、「推しを推す」という感情。2020年9月に単行本化された小説『推し、燃ゆ』(河出書房新社)は、その感情のこれまで語られてこなかった部分に光を当てている。人はなぜ、推しを推すのか。著者の宇佐見りんさんに聞いた。

Yuriko Izutani / HuffPost Japan
宇佐見りんさん

主人公の高校生・あかりは、学校にも家庭にも馴染めない日々を送っている。

何か特別に不遇な環境に置かれているというよりは、彼女自身に内在する「生きづらさ」ゆえだ。

周囲の人たちが事も無げにこなしているようなことで、いちいちつまずいてしまう。「なぜ、ちゃんとできないのか」と問われても、これが精一杯なのだ、としか答えられない。明記されていない以上、ここで特定の障害や疾患の名前に触れることは適切ではない。だが、病院から診断書を受け取る描写もある。

そんな彼女が唯一心血を注ぐのは、推しである男性アイドル・上野真幸だ。懸命に推すことで、生きる力を得るあかり。だがある日、推しが突然ファンに対して暴力をふるう事件が起き、ネットで炎上するところから物語は始まる。

推す行為は、一般的には「オタ活」などとも呼ばれる。時間やお金を、凄い熱量でその活動に注ぎ込む人々の生態を描いたエッセーや漫画は、近年目立つようになった。だが、推す感情そのものの深みに切り込んだ文芸作品というと、それほど多くはない。

母と娘の間の愛憎を清新な視点で描いたデビュー作『かか』で、弱冠21歳で三島由紀夫賞を受賞した宇佐見りんさん。自身にも「推し俳優」がおり、推すという感情を小説にするという構想は、デビュー前後から温めていたものだという。

「推しという言葉は知られてきていると思いますが、『理解』は全くされていないと感じます。例えば、推している俳優がいると言うと『面識もなければ恋愛関係になれるわけでもないのに、何やってるの?』というような視線を浴びせられることがある。自分とは遠く離れた場所にいる誰かを強く思うことは、確かに一方的な感情です。思った分と同じ質量の感情が、相手から返ってくるわけではありません。でも、なぜ『思い、思われる双方向的な関係』ではないからといって、『歪(いびつ)だ』と後ろ指をさされなければいけないのか。笑われたり、ヤジを飛ばされたりしないといけないのか。根底には怒りがありました」

推すという感情を共有している人たちと、そうではない人たちとの間のズレ。宇佐見さん自身、成人式の前撮り写真を撮影するとき、カメラマンの悪気ない言葉に戸惑ったことがある。

 

Yuriko Izutani / HuffPost Japan
宇佐見りんさん

 「被写体の緊張をほぐしたいと思ったんでしょうね。まず『好きな人いないの』って聞かれたから『いません』と答えて、『好きな俳優さんいないの』ってさらに聞かれたから推してる俳優の名前を答えて。そうしたら『じゃあその人が、今ここにいると思って!』って言われたんですけど……。私、どんな顔をしたらいいか分かりませんでした」

 

この記事の読者で、このズレに共感する人はどれほどいるものなのだろうか。

記者にも推している俳優がいる。取材やファンイベントで「その人が、今ここにいる」という状況を経験したこともある。そのときの、自分の顔。全神経が推しに絡め取られ、巨大な感情で体中が満たされ、戦慄している顔。思い出せないし、思い出したくもないし、少なくとも成人式の写真には向かない表情をしていることだけは確かだろう。

小説の話に戻ろう。

そもそも「推す」とは、十人十色の形があるため説明が難しい。「応援する」といった言葉では代替しきれない感情を含んでいるのだろうが、その「代替しきれない部分」に多様性がある。

例えば、同じ俳優を応援していても、「アウトプットとしての作品を批評することにしか興味がない」という人もいれば、「私的な部分を想像したり解釈したりすることが楽しい」という人もいる。

前述の成人式撮影の例は、世間の認識とのズレを示すものとして挙げたが、推しに恋愛感情を抱くタイプの人にとっては、違和感はないのかもしれない。

小説の中にも、さまざまな推しを、さまざまなスタンスで愛でる人たちが登場する。だが、宇佐見さんがあえて物語の中心に据えたのは、「推しは命にかかわるものだ」という、この世界では存在しないことにされがちな真実だ。

あかりは学校の授業に集中できず、課題も期限までに仕上げられない。結果的には中退にまで追い込まれる。推しに注ぎ込むお金を稼ぐために居酒屋でアルバイトもしているが、一向に仕事をこなせず、人のいい女将さんから解雇を言い渡されてしまう。

Yuriko Izutani / HuffPost Japan
『推し、燃ゆ』(河出書房新社)

その生きづらさは作中、次のように描かれる。

寝起きするだけでシーツに皺が寄るように、生きているだけで皺寄せがくる。誰かとしゃべるために顔の肉を持ち上げ、垢が出るから風呂に入り、伸びるから爪を切る。最低限を成し遂げるために力を振り絞っても足りたことはなかった。いつも、最低限に達する前に意思と肉体が途切れる。

『推し、燃ゆ』(河出書房新社)より

「あかりは、デフォルトがゼロではなく、常にマイナスの領域を這いずっている状態」と宇佐見さんは説明する。「彼女にとっての推すことの意味は、『そこそこ普通に生きられているゼロ状態』を10や100に増やして楽しむことではありません。『生きているだけで皺寄せがくるマイナス状態』から、ゼロへ1へと何とか必死に漕いでいくための原動力。あかりにとっての推しはそういう存在です」

社会に適応できず、「適応できないこと」が理由で家族からも腫れもの扱いされるあかりは、自分の存在が、重たくて、煩わしくて仕方がない。誰にも心から「素敵だね」なんて言われたことがないのに、そこら中に溢れている「ありのままでいい」「自分らしく生きよう」なんて言葉は、あかりにとって気休めの呪文にもならないだろう。

そんな彼女が生きる上で、「推しを推す」ことがなぜ、救いとして機能するのか。宇佐見さんは、託した思いをこう語る。

「思い思われる、双方向的な関係を結ばなくていいことの効用が大きいんです。あかりは私自身とも全く異なるキャラクターですが、自信が持てなくて、すごく卑屈になってしまう瞬間は多くの人が経験したことがあると思います。『弱さも含めて受け入れてもらえる幸せってあるよ』と世間は言うし、実際そうでしょう。だけど、『今は見られたくない、受け入れようとさえされたくない』という現実がある。そんなとき、推しは『私』を見ないから、透明になれるんです。好かれるような自分じゃないかも、という恐怖から自由になれる」

推しを推すときだけ、他者の視線からも、自分自身を見つめ続ける自分からも解放される――。本作の終盤、推しのライブを観るあかりの描写には、「マイナスをゼロや1にする」という以上の、沸き立つようなエネルギーがみなぎっている。

推しを取り込むことは自分を呼び覚ますことだ。諦めて手放した何か、普段は生活のためにやりすごしている何か、押しつぶした何かを、推しが引きずり出す。(中略)叫べ、叫べ、と推しが全身で語り掛ける。あたしは叫ぶ。渦を巻いていたものが急に解放されてあたりのものをなぎ倒していくように、あたし自身の厄介な命の重さをまるごとぶつけるようにして、叫ぶ。

『推し、燃ゆ』(河出書房新社)より

「生きていきたいなら、受け入れてもらえるような人間になりなさい」と言われがちなこの社会。そこではあまりワガママを言えないし、見られる夢にだって限界がある。推しは、そんな私たちのやりきれなさを、まるごとぶつけられる存在なのかもしれない。

「推しは背骨だ」とあかりは言い切る。学校や職場で自己紹介を求められて、自分としてはさして思い入れのない出身地や血液型、たしなむ程度の趣味その他の項目と同列に語るのは難しい、「支え」となっているもの。一心に推すことは、一般的に「逃避」や「依存」と呼ばれるようなものとも異なると、宇佐見さんは訴える。

「すごく明確に線引きができるものではないけれど、本質的には違うものとして描いています。『逃避』って、本来戻ってくるべき現実があるのに、それを直視していないというネガティブな意味合いがある。『依存』については、程度の問題もありますが、やはり散財や没入の結果として自分を破滅に向かって落としていくような行為ですよね。でも、あかりはそうじゃない。現実の中で、生き続けている。動き続けている。推すことで、それが可能になっているんだと思います」

推しを推した先にあるのは、希望なのだろうか、絶望なのだろうか。あかりのかけがえのない推しである上野真幸の「炎上」によって立ち上がってくるのは、そんな問いだ。その問いにどう答えるかは、一人ひとりの読者に委ねられている。

(取材・文:加藤藍子@aikowork521 編集:泉谷由梨子@IzutaniYuriko