アートとカルチャー
2020年10月07日 06時37分 JST | 更新 2020年10月07日 10時26分 JST

Twitterの論争を「共感できるか」で判断する「危うさ」。分かり合うヒントを考えた

「あいつと自分の考えが違うのは、あいつが劣っているからだ」などと、価値観の違いについて、知性や人間性の「優劣」と直結させてしまう人の心理はなぜ生まれるのか。

ここ数年、さまざまな論争を見かけることが多くなりました。ひとつには、僕が大人になり、いくらかはアンテナが立ち、さまざまな話題に接することが増えたからなのでしょう。

そしてもうひとつ、どうやら「論争」そのものが、たとえばTwitterなどSNSの空気として醸成され、社会を覆う強力なムードとなっていることもあるようです。

こと最近で言えば、コロナ禍における社会や文化の持続に関して、あるいは世界的に話題となっているBLMに関して、あるいは絶えずジェンダーに関して、貧困と階層の問題に関して、他にも様々な話題について、僕たちは論争に接し続けています。

「図書館では石を投げれば法学部生に当たる」とか、「中野では石を投げれば芸人に当たる」と同じように、この社会ではいかなる話題に足を踏み入れても、何らかの論争に突き当たるようです。

 

「まとめサイト的距離」で、情報に接している僕たち

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このとき、論争を“見ている”われわれは、果たしてどこにいるのでしょう。どこから“見ている”のでしょう。

どうやら、われわれと現実の距離感はどんどん変わってきているようです。YouTube的距離、まとめサイト的距離とでも言いうるのでしょうか。外野から画面を眺めているような、情報のフローを流し見しているような距離の取り方を、われわれは、あるいは僕は、してしまいがちです。

しかし、われわれはしばしば論争の内部にいます。人種、出身、性別、職業、年収、社会階層、様々な観点において、われわれは何らかの属性の当事者です。

だからこそ、論争を行う際に、あるいは論争と接する際に、留意したいことが幾つかあります。大きな自省を込めつつ、論争との関係の仕方について考えてみようと思います。

 

他人事かのような距離で判断する「善悪」。でも本当は、あなたも当事者かもしれない

まず注意したいのは、論争から「善悪」を抽出する際の手触りについてです。われわれは、あるいは僕は、論争を目撃した際、あまりにも安易に「どちらが善か、どちらが悪か」を決定してしまいます。

YouTubeやまとめサイトのような“作られた現実”を見て、「こいつバカだな」「こいつが悪いな」「こいつはいい奴だな」と思うようなトーンで、他者を強固にカテゴライズしてしまうのです。

ここには、常に危うさが伴います。なにせわれわれは常に、何らかの属性の当事者です。つまり、われわれもまた画面の中にいるはずなのです。

本当は自分が強く関わっている話題について、いかにも他人事かのような距離で価値判断をしてしまうことは、われわれの、あるいは僕の危うさです。

 

共感できる「われわれ」を善とした時、敵と味方からなる単純な世界観が生まれる

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われわれは、あたかも他人事かのように擬装された距離において、どのように「善悪」を抽出しているのでしょうか。

われわれは、あるいは僕は、論争から「善悪」を抽出する際、「共感」を強い判断基準としてしまいがちです。画面を見て選びとる「善」とは、しばしば単に自分が共感できるだけのものです。

それ自体が間違っているわけではありません。どんな話題も、最初の手触り、第一印象から掴み取っていくことは、とても自然なことです。

しかし、共感できる「われわれ」を善としたとき、共感のできない「他者」を大きく悪として括ってしまいうる危うさがあります。このとき、あまりにも容易に、敵と味方からなる単純な世界観が生まれてしまいます。

 

「あいつと自分の考えが違うのは、あいつが劣っているからだ」という心理

本来、われわれから見て近いか遠いか、共感できるか否かは、善悪となんら無関係です。遠くにある他者が、われわれと異なる価値観を持っていることはごく当たり前のことだからです。

しかしわれわれは、あるいは僕は、自分の価値観と他者の価値観に差があるということを、あまりにも容易く放念してしまいます。画面越しでは、現実に存在する他者の重みを忘れてしまうのです。

そして時たま、価値観・思想の違いについて、とうとう知性や人間性の「優劣」と直結させてしまうのです。「あいつと自分の考えが違うのは、あいつが劣っているからだ、馬鹿だからだ」などと考えてしまうのです。当然ながら、立場や観点の違いは、優劣を何ら意味しません。

 

分かり合うための希望を、お笑いに感じた

では、われわれは、あるいは僕は、論争と接する際、どのような準備をしたらよいのでしょうか。

何よりもまず、自分が画面の中にいることを踏まえることが必要です。常に傍観者であり続けることはできません。画面の中で、僕たちは絶えず他者と関わり続け、差異に晒され続けるのです。

だからこそ、他者との差異を見つけたら、受け入れがたい抵抗を感じたとしても、それ自体を反省の契機としたいものです。その反省こそが、他者との関係を結ぶ始まりとなるはずです。

さて、一つの希望として、お笑いの話をさせて下さい。9月末、コント日本一を決める大会、キングオブコントがありました。

時事通信フォト
「キングオブコント2020」では、 ジャルジャルが王者となった(写真は、2019年1月撮影)

今回の大会を見て、「人を傷つけない笑い」だとか、「令和らしい笑い」などというテーマを直接汲み取る方は少ないようです。2019年のM-1グランプリで、ぺこぱさんが「多様性を尊重する漫才」などと評されたようなムーブは起こっていません。

しかし、決勝に並んだ13本のコントは、どれも共通して、「よくわからない振る舞いをする他者について、理解しようとすること」を契機に、おもしろさを発見していました。

特に顕著に、空気階段さんの定時制高校を舞台にしたコントでは、社会的にはアウトサイダーとみなされるであろう男女が、観客の我々には理解できない言語を通じて心を通わせる様子が描かれており、僕はそれに大変な希望を感じました。暗転に合わせて水川かたまりさん演じる女性が大事そうに手紙をしまうシーンは、今回のキングオブコントのハイライトと言って間違いないと思います。

他者や、他者の見る世界は異なっていて、だからこそ面白いかもしれない。同じ画面の中で分かりあおうとするコントの登場人物たちに、僕はいくらか現実への希望を持ちました。そういえば、コントとは元々そういったものだったような気もします。

いまこの国にお笑いが存在する意味として、そういった他者理解への希望があったらいいな、自分もそういったものを打ち出せたらな、と思っています。

(編集・湊彬子)