ジェンダー平等ランキング北欧最下位のデンマーク。その歴史と変容

声を出すこと、連帯すること自体に意味があるという思いから、遠い国に暮らしているけれど、そこでの様子を通して自分の想いを伝えたいと思う。
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Anna Semenchenko via Getty Images

赤ん坊を1人も産まない女性が、自由を謳歌し、年を取って「(国に)税金で助けて下さい」というのはおかしな話だ。

これは、今「女性がたくさん入っている会議は時間がかかる」発言が問題視されている、東京五輪・パラリンピック組織委員会の森喜朗会長の2003年の発言だ。これを聞いたとき20代だったわたしは、驚きと苛立ちでどうにかなりそうだったけれど、周りの反応はとても冷めたものだった。

「また政治家の不適切発言だよ」
「そんな発言は初めてじゃない」
「気にするだけ無駄」

わたしの中でわきあがった感情はどこにもやり場はなく、ただ自分で折り合いをつけ、これは重要ではないと思って忘れることしかできなかった。

だから今回、森氏の女性に対する発言がこれほどの反響を呼んだことは、正直驚きだった。無視すること、忘れることで折り合いをつけることを学んだわたしは、こういった発言に対して反発心を抱くことを、随分長い間、無意識的に抑えていたようだ。今回多くの人々の反応を知り、改めてそのことに気が付いた。

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最近は、日本の社会問題について発言すると、外国に住んでるくせに口を出すなと意見されることもあり、実は発言を躊躇うことも多い。それでも、Choose Life Project さんの youtube配信や、ハッシュタグ #わきまえない女たち に力を感じ、また声を出すこと、連帯すること自体に意味があるという思いから、遠い国に暮らしているけれど、そこでの様子を通して自分の想いを伝えたいと思う。

実はデンマークもまだ道半ば

女は、男が働いている間、家庭で子どもと過ごしたいと思うのが、生まれついたあり方なんだ。それを無視するのは、理性がないということだ。

この発言も、日本の政治家や大企業の経営者の発言だと思われるだろうか。実はこれは、デンマークのある政治家の発言だ。しかもたった5年ほど前のものだ。

もう少し古い発言を引用してみよう。
以下、すべてデンマークでの事例だ。

(ある女性政治家について)美人なのはわかったが、実際何もできてないですよね。 ー政治家(2004年)

女性に権威を与えてしまうと、正当な学問とは何かということが変わってきてしまう。 ー大学教授(2003年)

女性は大学の学術レベルを下げる。ー大学教授(1998年)

女はすぐれた建築家にはなれない ー建築家へニング・ラーセン(1992年)

ついでにもう少し古い発言も。

我が社では育児休暇は採用しない。通例として女性は解雇されてきたんだから。妊娠する女ではなく、安定して働ける社員が必要なんだ。 ―銀食器会社人事課課長(1973年)

内閣にご婦人方はお断りだな。 ―内務大臣(1945年)

(医学部を志願する)女子学生が規律正しいとは思えない。一部の男子学生は気を惹かれるだろうが、ほとんどの学生は迷惑するだろう。一旦女子に入学を許せば、品のない女子学生であふれかえり、時代の流れに屈したことを後悔することになる。 -医学部教授(1874年)

政治について女は責任能力がないのだから、夫の意見を自分のものとしておけばよい。-国会議員(1858年)

おわかりいただけるだろうか。

下へ行くほど引用は古くなる。そして、もうこんなことをいう人はさすがに今の時代いないよね、と思われる発言もあるだろう。でもこうした発言や考え方、また、それらをもとに作られた法律や社会は実際に存在していた。そして、それをひとつずつ変えてきたのが歴史だ。それは、日本であれデンマークであれ同じだろう。

これらの引用は、デンマークのジェンダー不平等を様々な公的発言から歴史的に解明していく書籍『女への反論』からの抜粋である。この本の著者であり、歴史家のビアギッテ・ポッシングによると、デンマークでは、これまで多くの女性は、ひとりの人間としてではなく、「女性」という枠にはめられ、ステレオタイプや偏見をもとに語られてきたのだという。

ポッシングは、権力を保持する者たちが、自分たちとは異なる言動をする女性たちから、自らを保身するための方法として、このような発言をしていると述べている。そして、母性以外のものを望む女性たちに対し、罪や恥の呪いをかけ、彼女たちをあざ笑い、黙殺し、罰や罪悪感、羞恥心を与えるような発言を繰り返しているのだと指摘している。

デンマークは、世界的に見ると男女平等が進んでいる国だと言われる。しかし、お隣の国々と比較してみると、実はそれほど自慢できる現状でもないことがわかる。2019年WEF男女平等ランキングでは、アイスランド、ノルウェー、フィンランド、スウェーデンが1‐4位を独占している一方で、デンマークは14位。決して堂々と胸を張れるほどの結果ではない。

さらに、デンマークでは自分をフェミニストと呼ぶことを避ける人も多い。デンマークでは、スウェーデン、フランス、アメリカ、イタリア、トルコなどよりも、自分をフェミニストだと考える人の割合は少ない。むしろ、フェミニストというのは極端な立場を取っていると考えられる傾向もあるのだそうだ。

個人を吊るし上げるより、文化を変えること

今回の森氏の発言と、それへの反響を見ていて思い出したのが、デンマークに昨年11月以来再来している#MeTooだ。デンマークでは、初めて#MeTooが話題になった2017年当時は、実は大して盛り上がらず、外国のゴシップネタをさらう程度で終わってしまった。しかし今回は、政治家や有名人が過去のハラスメントや性的暴行を理由に、何人も自ら辞職したり、解雇処分を受けている。

フェイスブックやメディアでは、この一連の出来事に対し、連日激しい批判や対立が繰り広げられた。勇気を出して性的被害を告白した女性たちには、激励こそあったものの、同時に多くの激しい批判が浴びせられた。辞職や解雇に追い込まれた男性たちは、逆に多くの国民から惜しまれ、#MeTooは被害者意識の高い一部の女性による、男性への吊るし上げだと言われた。

こういった声は、男性だけでなく女性からも多く寄せられている。ここでもまた、ポッシングのいうように、罪や恥の呪いをかけて、被害を告白した女性たちをあざ笑い、黙殺し、罰や罪悪感、羞恥心を与えるような手口が使われているといえるのかもしれない。

その一方で、この#MeTooでは、これまで性的暴行やハラスメントを許してきた文化(習慣)自体を変えていくことが、最も重要なのだという意見も多く聞かれた。個人が、結果として辞職や解雇になったとしても、職場や社会に存在しているそれを許す文化を可視化し、変えていかなければ、根本的にこの問題は解決しない。それが今回の#MeTooの目的なのだと。

この「個人の吊るし上げ」について、デンマーク人の政治家であり、現在は欧州委員会(EU)の競争政策担当委員でもあるマルグレーテ・ベステアーはこのように話している。

性差別の問題は、個人の問題として考えるのではなくて、むしろその周りに存在する文化に働きかけないと、根本的には変えていけないのです。個人に帰することで、わたしたちはそこに恥を感じて、その問題自体について話すことを止めてしまう。でも変化を起こしたければ、そのことについてずっと関り続けなければいけないのです。

そう語る彼女は、デンマークの隣国でジェンダー平等が進んでいる背景には、その国の人々がこの問題に関してずっと関わることを止めないからだと指摘している。

デンマークの人々はなぜかこの話題を避けがちです。はっきり性の平等について語ろうものなら、「今はそれよりもっと大切なことがあるでしょ」と、話を他の方向にもっていかれてしまう。でも、何もしなければ、何も変わらない。黙っていていつか何かが実現するというものではない。男女が協力することで、初めて実現できることがある。わたしたちが実現したい社会を得るためには、全ての性の人々が平等でなければならないのです。

女性であることはわたし自身であること

そう語る彼女は、自分が女性であることがとても気に入っているという。
欧州委員会で働く彼女は、トップキャリアにいる女性として、マスコミや同僚の男性たちから女性であるが故に受ける質問があるのだそうだ。それは苦痛ではないですかというインタビューに対し、彼女はこう答えていた。

わたしは自分が女性であるということは、実はとても気に入っているんです。もちろん、バッグや服装、ジョギングや料理など、ありとあらゆる質問をこれまで受けてきました。でも、それもかまわないと思っているんです。むしろそれを、わたしがどういう人間かを伝える機会に変えることができるから。

実はそれはとても重要なことなんです。社会をどうしていきたいかを考え、仕事にしていく上で、自分がどういう人間かを明確に伝えることは、実はとても重要なことだと思っています。

女性であることがしんどいと感じたことのある人は多いのではないか。また女性だから、男性にはされない質問やコメントを向けられ、戸惑ったことのある女性は多いのではないか。わたしの14歳の娘でさえ、生理が始まったとき、女の身体を持つことのしんどさを訴えてきた。女性であることは、面倒であることが多い。

だからこそ、女性であるとは自分自身であることだと語るマルグレーテ・ベステアーの言葉はとても興味深い。そして女性であるわたしたちに、力を与えてくれるものでもある。

最後に、女性ではないのにこの文章を読んでくださった方々へ。ジェンダー不平等の問題は、決して男性対女性の問題ではない、きっとそう感じて読んでくださっているのだと思う。この文章の始めに引用した本の著者、ビアギッテ・ポッシングも、デンマークの法律や社会が変化してきたのは、決して女性だけによるのではなく、見識があり、将来を見通した男性たちとの協力があったからだと述べている。

またベステアーも、性を超えて協力することで初めてたどり着けるものがあると語っている。わたしたちが向き合うべきものは不平等であって、性の規範ではない。理想主義だといわれるだろうけれど、だれもが自分自身として生きやすい社会を、わたしたちは次の世代に手渡していきたいし、そのためには、この問題から関わることを止めてはいけない。対立ではなく、性を超えた連帯を通して。

【参考資料】

Birgitte Possing “Argumenter imod kvinder -fra demokratiets barndom til i dag” Strandberg Publishing
And the least feminist nation in the world is... Denmark?
平等な国デンマークに、フェミニストは少ない?

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