「負け組」のためのドラマと評される「その女、ジルバ」の本当の価値

【加藤藍子のコレを推したい、第6回】「逃げ恥」と比較して「持たざる者」のためのドラマとの評価も。しかし、ジルバの価値はそこからも自由なことにあるのだ。

2021年の正月、約4年前に社会現象になったドラマ『逃げるは恥だが役に立つ』(TBS系)の特別編に、一部の視聴者から批判的な反応が集まっていた。

育児を「サポートします」と言った夫に、「(一緒に産み育てていくものなのに)サポートって何?」と問いただせる妻は恵まれているとか、酷いつわりの影響で家事が回らず限界に近づいたとき、家事代行サービスを使って切り抜けられたのは裕福だからだとか。

私自身は、1組の夫婦がこの社会に生きるすべての人々の声を代弁するのは無理があるし、ドラマが描こうとした主題は別にあったとも感じていた。

ただ、相当数の人に、主役の夫婦が「勝ち組」だと映ったのは確かだ。自分のことを「負け組」とまでは思いたくないけれど、少なくとも、このコロナ禍で頑張る人々を描いたドラマの中に自分はいない。そう訴える声の数々は、印象に残った。

その1週間後から放送が始まったのが、有間しのぶの同名コミックを原作とするドラマ『その女、ジルバ』(東海テレビ・フジテレビ系)だ。『逃げ恥』と比較して、「持たざる者」のためのドラマだと評す記事も目にした。

池脇千鶴さん(左)と『その女、ジルバ』(有間しのぶ、小学館)
池脇千鶴さん(左)と『その女、ジルバ』(有間しのぶ、小学館)
時事通信社・小学館

確かに、凄い。まず第1話から、池脇千鶴演じる40歳の主人公、笛吹新(うすい・あらた)の風貌に驚く。艶のない髪、刻まれた皺、生きていくことの重さに耐えかねているとでも言いたげな、丸まった背中と引きずるような足取り。ほのぼのとした温かみのある絵柄の原作と比較すると、実写ならではのリアリティーがあった。

しかも新は、アパレルの売り場で接客の仕事をしていたが、「姥捨て」と呼ばれる倉庫勤務に異動させられたという設定だ。正社員だが収入は少なく、本社が進めるリストラの対象部署にもなっている。「働きがい」とか「キャリアアップ」とかいった言葉とは無縁の場所だ。

そんな新が街中で偶然、ある貼り紙を見つけるところから物語は展開していく。「ホステス求ム! 40才以上」。年を取ることは諦めることだと悟りつつあったのに、40歳以上から「始まる」世界がある――?

怯む自分に鞭打って飛び込んだ扉の先は、超高齢熟女バー「OLD JACK&ROSE」。アララという源氏名をもらい、副業でホステスとして働き始めた新は、自称50代~80代の先輩ホステスやマスター、常連客たちとの交流の中に居場所を見つけていく。

このように書くと、ドラマをよく知らない人からはこんな反応があるかもしれない。

「仲間の輪の中で肯定してもらえればその時は癒やされる。ただそれって、救いになる?」

私も、この物語に触れた当初はそういぶかしむ気持ちもあった。居心地のいい小さなバーはひとときの逃げ場でしかなくて、外へ一歩を踏み出せば、冷たい風が吹きすさぶ。自分が「持たざる者」だとか「負け組」だとかいうことを痛感させられ続ける状況は厳然とあり、肩をすぼめて生きていくことになるのが「現実」ではないか、と。

だが、この作品が本質的に描こうとしていたのは、仲間からの承認を求め続ける「自分探し」ではなかった。どこまでも底知れない他者との出会いによって、孤独を引き受けた上で、前を向いて生きる方法を見つけていく人々の姿だった。

「OLD JACK&ROSE」は、第二次大戦後の焼け野原の中、初代ママのジルバ(池脇・一人2役)が、現在の店を取り仕切るくじらママ、そしてマスターとともに立ち上げ、守ってきた店。そこには、彼女たちが生きてきた膨大な時間が詰まっている。音楽とダンスと軽やかな笑い声に溢れる空間で、新は、その光の源にある悲しみや怒りの記憶に触れていく。

特に、他界したジルバの記憶をたどる「旅」は、時間だけでなく国境も超える。戦前に日本が国策としてブラジル移民を奨励した時代、幼かった彼女は家族と共に海を渡った。やがて戦争で日本とブラジルの関係が危うくなり帰国するが、その道中、熱病で夫と息子を失う壮絶な経験をしている。

原作漫画ではこの移民や戦争の歴史に多くのページ数が割かれている。ドラマでは構成上、ところどころ端折られてはいる。だが、視聴者への説明が冗長になるリスクを冒してでも、「絶対に描く」という制作陣の意思を感じたエピソードがあった。

それは戦後、ブラジルの日系移民社会で実際に起きた惨事だ。日本が敗戦した事実を認める「認識派」と、信じずに勝利したと主張する「戦勝派」との間の対立。本作の描写や新聞報道などによれば、戦勝派は認識派を襲撃し、20人以上の死者も出た。同時に、戦勝派を狙って、紙切れ同然になった旧円を「勝った国の通貨だから価値が上がる」と高く売りつける詐欺事件などもまた、横行した。

そもそも、ブラジルへの移民政策の実態は、不況下の「口減らし」を目的とした棄民政策だったとされる。当時はインターネットもなく、現地の言語を満足に使えない移民も多かった。信じがたいデマの横行と混乱は、祖国から見捨てられ、情報から隔離された環境下で起こった。

その記憶の語り手を務めたチーママ(中尾ミエ)は、「祖国に錦を飾りたい一心」で異国へ出稼ぎに向かった移民たちに思いを馳せ、新にこう問いかける。

「(戦勝派の中には日本が帰還船を出してくれると待ち続けた人たちもいたが)いつまでたっても迎えの船は来なかった。国は彼らを見捨てたのよ。そんな彼らを滑稽だって、あなた笑える?」

新は首を横に振り、うつむく。

戦勝派も認識派も、国の政策や戦争という大きな流れに翻弄され、見捨てられたという意味では「傷ついた者同士」だった――。このシーンは、そんなことを伝えていると感じた。

「祖国が勝ったのか、負けたのか」をめぐる認識の差異は、その時代、その社会の中では重大で深刻な亀裂に見えていただろう。だが、2021年の私たちが、かなた遠くからその出来事を顧みれば、おそらく彼らは、争うべきではない相手と争わされてしまったのだと気付くことができる。両者ともに、祖国に見捨てられていたのだから。

でも我々は、出来事の渦中にいると、相手との目に付く差異にばかり注目してしまう。自分や他者を「敵と味方」「勝ちと負け」「上と下」といったカテゴリへと振り分け続けてしまう。そんな人間の性質は、今も昔も、あまり変わっていないのかもしれない。

『その女、ジルバ』は「持たざる者」のための物語だといわれていた話を、冒頭で書いた。だが、果たしてそうだろうか。「持てる者」「持たざる者」なんていう言葉に自分や他者を当てはめること自体からの自由を、この物語は私たちに勧めているのではないか。

戦争、震災、病気、不況、大切な人の死。私たちの「生」は、コントロールできない脅威と常に隣り合わせだ。やっとの思いで築いた現在も、その先に見ていた未来も、大きな災厄にさらされれば、理不尽に吹き飛ばされてしまう。気づけば孤立に追いやられる世の中だから、他者の「生」に耳を傾け、違いはあってもゆるくつながり合える人間の可能性を諦めたくない。

新は福島県出身で、この物語には、東日本大震災で大きな傷を負った人々の想いも交錯する。最終回では、ドラマ版オリジナルのエピソードとして、新型コロナウイルスの流行に見舞われた新たちの姿も描かれる。

劇中、くじらママがぽつりと呟いた「人はもっと寄り添ったほうがいい」という言葉が、何度も何度も、頭に響く。誰もが生きづらさを抱えて生きる現代において、それはとても難しいことになりつつあるけれど、だからこそ、その方法を考え続けていきたいと思った。

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