アートとカルチャー
2021年03月19日 09時33分 JST

「花束みたいな恋」をイタいと感じる人は、「労働者」に適応しすぎているのでは。

【加藤藍子のコレを推したい、第7回】脚本家・坂元裕二の最新作「花束みたいな恋をした」は、人間と人間が「不透明」なまま一緒にいるための「文化」の可能性を、詰め込んでいる。

言葉として形を与えられる前に、グッと飲み込まれてしまった不透明なもの。慌ただしい日常の中で、湧き上がらなかったことにしてしまった、いつかの心の動き。そういう数々に、物語の力で輪郭を与える仕事をさせたなら、日本で脚本家・坂元裕二の右に出る者はいない、と言い切ってしまいたい。

2015~2020年初めの東京を舞台にした坂元の最新作が、2021年1月に公開された映画『花束みたいな恋をした』だ。20代の男女の5年間の恋愛を、2人の日記をこっそりと覗くような距離感で、「綴る」ように描いている。

主人公の山音麦(やまね・むぎ、菅田将暉)と八谷絹(はちや・きぬ、有村架純)は、ともに東京に住む大学生だ。終電を逃したのをきっかけに、偶然に知り合う。好きな音楽や映画が奇跡のように一致した2人はあっという間に恋に落ち、同棲を始める――。こんなあらすじを聞いて、「脚本が坂元である」ということを意識しなければ、さぞや甘々な恋愛物語が展開されると思うだろう。

私はこの映画は、「花束」という言葉通りの光を放っていると思う。だが、決して甘くはなかった。

出世作となったドラマ『東京ラブストーリー』(1991)以降、坂元はそのキャリアを通じて、恋愛というモチーフへのこだわりを絶やすことはなかったように映る。

テレビ放送された年の賞を総なめにした『Mother』(2010)以降、虐待や女性差別、若者の貧困といった社会問題を織り込んだ作風は注目を集めたが、その中で、血縁に限らない「人と人との親密なつながり」は、この暗くままならない世界を生きて行くための「救い」として描かれた。その中にしばしば、「恋愛関係」もあった。

例えば、今回の映画と同じ、有村架純が演じた『いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう』(2016)のヒロインは、「恋」をこんなふうに表現した。

「二度と戻らない時間の中にいるって。それぐらい、眩しかった。こんなこともうないから、後から思い出して、眩しくて、眩しくて、泣いてしまうんだろうなって」

基本的には今回の『花束』も、そういう眩さを持った恋愛の一つを、描いているようにみえる。しかし、果たして今の社会を生きる私たちに、「花束のような恋」をすることは許されているのだろうか? その賞味期限はもともと短いし、さらにいえば、より難しくなっているのではないか? そんな問いについて考えてしまうのは、読み込み過ぎだろうか。

 

※この先の文章には、作品の内容に関わる記述があります。

 

物凄く単純にいえば、この映画は、どこにでもいそうな2人の男女が、出会って、付き合って、別れるまでの話だ。「それだけの話」として楽しむこともできる。だが、初日の舞台挨拶で坂元はこうも話した。

「この映画はラブストーリーであると同時に、文化、カルチャーというものが生活の中から消えていく、そんな瞬間を描いているものでもある」

するとやはり、「それだけの話」とは思えないのだ。事実、観客全員に強い印象を残すであろうこの映画の特徴は、作中にこれでもかというくらいに詰め込まれた、文化にまつわる膨大な固有名詞の数々だった。

例えば、全くの他人同士だった2人が、終電を逃した流れで居酒屋に行き、会話するシーン。互いに持っていた文庫本を交換し、お互いに好きなものが同じであることで盛り上がる。

麦:「あと好きな作家って」

絹:「全然普通ですよ。いしいしんじ、堀江敏幸、柴崎友香、小山田浩子、今村夏子、円城塔、もちろん小川洋子、多和田葉子、舞城王太郎、佐藤亜紀」

麦:「(同意しながら聞きつつ、絹から渡された文庫本に映画の半券が挟まっているのに気づき)あ、八谷さんも」

絹「山音さんも、映画の半券、栞にするタイプですか」

麦「映画の半券、栞にするタイプです」

※台詞は『花束みたいな恋をした』(リトルモア)より引用

大学時代は、日々の暮らしぶりや振る舞いを大きく左右するような「所属」も「肩書」も、ほぼ無いに等しい。自分自身が何者なのかという輪郭を、まだ誰もが探っているような時期だ。

小説に明るくなくてピンと来ないなら、お気に入りの漫画でも、映画や音楽、ドラマでも、好きなものに置き換えてみればいい。同じ「好きなもの」によって形づくられてきたゆえに心地よく分かり合える存在を見つけられたときの高揚は、絹や麦と同じくらいの年頃に、多くの人が経験したことのある感覚だろう。固有名詞は、そういう関係性を描くための一種の小道具としての役割を担っている。

イラストで生計を立てたい夢を持つ麦と、就活で内定先が決まらなかった絹は、大学を卒業し、フリーターをしながら同棲を始める。近所にお気に入りのパン屋を見つけて、腹ばいになって1冊の漫画を2人で頬寄せ合って読んで、拾った猫に名前をつけて……。そんな毎日は、まるで「花束」のように穏やかで尊い。

しかし、そんな現状を維持させることを目標に、2人が就職活動を始めるところから、その関係は少しずつ「終わり」へと向かい始める。2人の生活に、するりと滑り込んでくるのは、労働と階層とジェンダー、つまり「社会」である。

イラストレーターの夢を実質的には捨て、長い就活を耐えて、ネット通販専門の物流関係会社へ入社を決めた麦。そこで待ち受けていたのは長時間労働だが、労働というのは基本的に脳の報酬系を刺激する活動でもあり、打ち込めばそれなりのやりがいを見いだせてしまう。

次第に彼の口からは「人脈広がってきて」「生きるってことは責任」などといった、これまでの自分の辞書になかったであろう言葉ばかりが飛び出すようになる。特に後者は、彼が男性であるがゆえにより強く、自身を規定する言葉にもなる。絹と一緒に楽しんでいたような本や映画への興味は失せ、自己啓発本を読んでパズドラで遊ぶことしかできなくなる。

一方の絹は、「女性」であるがゆえの景色にさらされることになる。資格を取って事務の仕事に就いても待遇はよくないし、「だから」とばかりにコンパで名刺集めに勤しむ職場の女性コミュニティーに馴染めない。

それは、もっとましに思える職場に転職するれっきとした理由になると私は感じるが、麦の目にその「景色」は映らないのだ。チャラいが趣味は活かせるイベント会社への転職を決めた絹と、それを「人生舐めてる」となじる麦との間には、その会話の表面的なすれ違い以上に深い溝が横たわっている。

強調はされないが、麦は田舎から独り立ちして上京した身であり、絹の両親はどうやらオリンピックに関わるほど大手の広告代理店で働いているという「階層」の差も、この分かり合えなさに大きく影響しただろう。

とりわけ決定的だったのは、共通の知人である男性の「先輩」が急死し、2人で通夜に参列した日のエピソードだ。

麦が男同士の付き合いで知っていたその先輩は、「(お酒を)飲むと必ず、みんなで海に行こうとする人」だった。

しかし絹は、先輩が恋人の女性に暴力を振るっていたことを、その女性本人に打ち明けられて知っていた。「お酒を飲むとすぐに女の子を口説こうとする人だった」とも回想し、麦と同じ気持ちで悼むことはできなかった。

同じものを見て同じように感じることのできたはずの2人の連帯は、ここにはもうない。男の社会に生きる者と、女の社会に生きる者との隔たりが、その亀裂をさらに深める。

こうした変容は、ことさら批判的な視点では描かれない。労働者としての自分。男である自分。女である自分。そういうものを背負わざるをえない「社会的存在」になってしまったら、こうなってしまうこともある意味では仕方ない、「花束」のような眩い恋はだからこそ、20代前半限定のものなのだ――そんなある種の諦観を読み取ることもできる。

だが、坂元が前述の舞台挨拶で、こうも言っていたことは胸に留めなければならないだろう。

「(コロナ禍で本作と同日に公開された他の映画作品の名前を挙げながら)タッグを組んでいるつもりでいる。私たちにとって文化、カルチャーとは何なのかということを、もう一度考えてもらうきっかけになればいいと思っています」

つまり、暮らしの中から文化が消えていくことを、坂元は決して「大人になること」と同義では捉えていない。この作品は、麦と絹のどちらに対しても、過剰に味方することなく絶妙なニュートラルさを堅持して描かれているが、一ついうなら、麦があそこまで典型的過ぎる「労働者」像に自分を押し込めてしまうことから免れれば、2人の関係は生き長らえることがあったようにも思うのだ。

私たちは、変化しないでいることはできない。だが、個というものは、経済的なニーズや社会的な属性によってすべて規定されるほど透明性が高いものではないのだと、坂元は一貫して描いてきたのだった。ドラマは常に、個と個の会話の中で起こった。そこに危うさが立ち上がる瞬間も、クスッと吹き出してしまう瞬間も、「人って捨てたもんじゃないな」と感じられる瞬間もあった。

本作で描かれた「文化」とは、それを楽しむことで、人と人とが、人間的な、不透明な状態で一緒にいることを可能にする場だったのだと思う。文化を捨ててしまうことはきっと、その可能性に蓋をしてしまうことだ。

この映画を観て、麦と絹を「これはイタい」「自分にもこんな時期があったことを思い出すと恥ずかしい」と笑う人を何度か見かけた。そう感じてしまう人たちは、いささか「労働者」に適応し過ぎているのではないだろうか。