コラム・オピニオン
2021年05月28日 09時12分 JST | 更新 2021年05月28日 09時13分 JST

このバレエには想定外の衝撃がある。Netflix配信ドラマ『ナビレラ』は「おじいさんが踊る」だけの話ではない。

【加藤藍子のコレを推したい、第9回】『ナビレラ ―それでも蝶は舞う―』が想定外だったのは、本作が「自分なりに楽しく」踊る意義という以上のメッセージを携えていたことだ。

焼香の煙。手向けられた白い花。「ご冥福をお祈りします」。物語の冒頭、主人公が一番初めに口にする台詞である。シム・ドクチュル、70歳男性。同世代の友人の葬儀に参列する場面からドラマ『ナビレラ ―それでも蝶は舞う―』(Netflixで配信中)は始まる。

死後の世界で幸福を――。そう祈った後に食卓を囲む老齢男性たち。

「この年になると孫のオムツを替えてやるか、自分が下の世話を受けるかのどちらかだ」

「お前の言うとおりだ。そうなんだが、悲しいな」

あまりおいしくなさそうな酒で一杯やるのが「人生の楽しみ」と笑い合う彼らから、生きている者としての幸福感は伝わってこない。

無理もない。現代の韓国の高齢者は、1960年代の高度経済成長を支えたが、暮らしのセーフティネットの整備は不十分なまま高齢化が進んだ。老後も生活のために低賃金労働に就いたり、孤独死や自殺に追いやられたり。ドクチュルの暮らし向きはそれほど苦しくないようだが、作中では周辺人物のエピソードとして、そんな状況が直接的に描かれるシーンもある。

家族のために一生懸命働いてきたのに、残ったのは孤独だけ。今を楽しむためではなく、忘れたいから酒を飲む――。そんな時代を生きる「おじいさん」の一人であるドクチュルは、クラシックバレエを始めたことがきっかけで、生きがいを見いだしていく。

ある日、心惹かれる音楽に誘われ、足を伸ばした先に見つけたのがバレエスタジオだった。ドクチュルはそこで、もう一人の主人公である23歳の青年、イ・チェロクに出会う。

Netflix
『ナビレラ ―それでも蝶は舞う―』より

ダンサーとして有望視されるチェロクの、空気を切り裂くような回転、時が一瞬止まるような跳躍。それを見て、ドクチュルは焦がれる。「私も、あんなふうに踊りたい」と。無理やり頼み込み、初めは面倒で仕方ないといった様子のチェロクから、個人レッスンを受けることになる。

「おじいさんがバレエをする」と聞いて、どう思うか。少しのためらいもなく「いいじゃない、やりたいなら!」と言える人は、おそらくほとんどバレエを知らないか、そのおじいさんが何をしようと興味がないかのどちらかだろう。

バレエは、スポーツではない。隅々まで研ぎ澄ませた肉体と精神によって、しばしば「人ならざる存在」をも体現する芸術だ。

例えば、空想上の物語に登場する王子や王女、妖精。現代劇でも台詞はないので、登場人物から立ち上る「愛」や「怒り」といった感情を、全身を駆使して伝えきらなければならない。音楽そのものが、表現する対象ともいえる。

つまり、いずれにしても「非日常を見せる」ことが至上とされる。だからこそ、プロを目指すダンサーたちは長い年月をかけて訓練を積み重ね、「踊る身体」をつくり上げていく。チェロクはそういう世界に生きている。

趣味や健康維持のために踊るとしても、こうしたプロの世界のイメージは打ち消せない。一切の経験がなく、体のことなんて二の次にして働いてきた70歳男性が、バレエを始める――。そう聞けば、バレエを知っている人であるほど、内心ザワザワしてしまうだろう。

筆者自身、かつてプロダンサー志望で、小学校から高校までの膨大な時間をレッスンに注ぎ込んでいた。それでも憧れとはほど遠い自分の踊りを目の当たりにした失望感も経験しているからこそ、鑑賞前はドラマの行く末をいささか心配したのは事実だ。「おじいさんの踊るバレエ」を、ごまかしの利かない実写映像で、果たして「文句なく美しいもの」として描けるのか、と。

序盤は、予想通りザワザワする周囲の家族たちと、それでも「踊りたい」という思いを貫こうとするドクチュルとの駆け引きが、ユーモアも交えて描かれる。ただ、この「ザワザワ」には、前述した背景よりも、単に「男がバレエをするなんてみっともない」という偏見が多分に溶けてもいる。

特に、気立てのいい善人であるドクチュルの妻が激しい抵抗感を示し、発見した練習着(レオタード)をハサミで切り刻むシーンは衝撃的だった。「一家の長である男性は強く、立派であれ」という観念はこれほど根深いのか。そしてその「強さ」や「立派さ」のイメージは、「女のものと思われているバレエ」をすることくらいで揺らぐほど、薄っぺらいのか。

韓国のドラマだが、下敷きにされている社会状況は日本にも通じる。ただ心のままに踊りたいというドクチュルの願いを、応援せずにはいられなかった。

時間が経つにつれ、頑なに反対していた家族たちも、ドクチュルの思いを受け入れるようになっていく。

心温まる展開。ただ、よい意味で想定外だったのは、本作がそれ以上のメッセージを携えていたことだ。老齢男性が「おじいさんなのにバレエ」という視線を吹き飛ばし、「自分なりに楽しく」踊る、という描写にとどまらない。とりわけ終盤にドクチュルが見せる踊りは、チェロクとは違う意味で、いやチェロク以上に、美しく見えた。

老いた身体は思い描く通りには動かない。けれど、自分のできる精一杯の丁寧さで。手先を、足先を、少しでも遠くへ。相棒のような関係を築いた、チェロクへの想いを込めて。「こうありたい」と思う姿へ向かって踊れている今この瞬間が幸せだ――。そんな彼の思いがにじんで広がっていくダンスシーンが、一番の見せ場として成立している。

本作における「バレエ」は、私たちの暮らしとかけ離れた非日常ではなく、生きることそのものの象徴として扱われていることが伝わってくるのだ。

どういうことか。前提として、バレエは作中でも描かれる通り、否応なく「序列」を意識させられる世界だ。「型」の完成度が厳格に求められ、精緻な身のこなしや正確なラインを形づくることを可能にする身体的条件、生まれ持った才能が重視される。プロのバレエ団では、群舞を踊る者、ソロを踊る者、主役を踊る者が階級で区分される。

ダンスは本来的には、一人ひとり違う体つきや内面性が「その人らしい魅力」として表れる。音楽を感じながら、心のままに動くだけで、幸せな気持ちが沸き起こってくるはずのものだ。ただ、「階段」を上り詰めたダンサーこそを美しいとする思想は、一歩間違えば、それ以外の踊り手は、プロでない人も含めて価値の低いものだという見方に行き着く危険をはらむ。苦しいのは「下」とされた側だけでなく、「上」とされた側も同じだ。踊りたかった原点を見失ってしまう。

「踊る」を「生きる」に置き換えると、この作品の本当のメッセージが見えてくる。つまり、チェロクたちが直面する「何のために、どう踊るか」という問いはそのまま、超競争社会といわれる韓国で、人々が日々「何のために、どう生きるか」という問いとつながる。

実際、作中では、熾烈な受験戦争を耐え抜いて得た職場で理不尽な扱いを受けるドクチュルの孫娘や、指導者を務める部活動の戦績にこだわるあまり、教え子に体罰を与える過ちを犯したチェロクの父、そのせいで夢を潰された青年らのエピソードも丁寧に描かれる。序列偏重の考え方に適応することは、他者も、自分も傷つける結果しか生まないのだ。

「本当に怖いのはやりたいことを思い出せなくなること。だから今この瞬間が大切なんだ」――。そう語るドクチュルの踊りは、この世界をよりよく生き抜くヒントを与えてくれる。