神宮外苑の再開発「イチョウが枯れない」と立証する責任は事業者にある

「ウィングスプレッド宣言」の考えからすると、「イチョウは枯れない」「騒音は起こらない」ということを立証する責任は、事業を行う側にある

神宮外苑再開発問題には、大きく二つの論点がある。一つは都市の緑地の評価にかかわるものであり、もう一つは都市計画における意思決定のあり方にかかわるものである。

一方では事業の中身が、他方は事業のプロセスが適正かどうかが問われている。

前回の記事では、世代間倫理の観点から事業の中身について再考を求めるとともに、事業のプロセスにアンフェアな部分があることを指摘した。

今回はそれに加えて、立証責任を誰が負うべきなのか、という点について述べてみたい。

神宮外苑のいちょう並木
神宮外苑のいちょう並木
Toshi Sasaki via Getty Images

私の専門である環境倫理学では、この分野がスタートしたころ、「人間中心主義」から「人間非中心主義」への転換というスローガンが叫ばれていた。

近年では、人間が中心か人間以外の自然が中心かという区別は、あまり意味がないと言われている。

人間と自然をむやみに対立させるのではなく、「生態系サービス」という考え方に代表されるように、「自然を守ることによって人間の福利が向上する」という考え方が世界的に主流になっている。

この「人間中心主義」と「人間非中心主義」の区別を、ワーウィック・フォックスという環境倫理学者は、立証責任という観点から次のように解釈した。

人間中心主義の社会においては、自然を保護しようとする側が立証責任を求められるが、人間非中心主義の社会においては、開発する側に立証責任が生じる。

この区別は今でも有効だと思われる。2023年の日本は、依然として、開発する側が「開発する理由」を説明するのではなく、自然を保護する側が、懸命に「自然を守る理由」を述べなければならない社会である。

これはフォックスのいう「人間中心主義」の社会にあたる。

しかし、SDGsを標榜し、生態系や生物多様性の価値を重視する社会を構築することを目指すのであれば、自然保護は理由がいらない常識にならなければならないだろう。

ひるがえって、神宮外苑再開発問題を考えると、この間、再開発に疑問をもっている人々が事業の問題点をいくつも挙げているが、事業を行う側はほとんど聞き入れていない。

神宮外苑のいちょう並木
神宮外苑のいちょう並木
HuffPost Japan

そればかりか、問題点を指摘している市民に、その問題点の重大性を立証することを求めている。

現在、周辺住民を含む原告が、東京都を相手取り、再開発事業の施行認可取り消しの行政訴訟を起こしているが、ここにおいても、脅かされる景観や環境の問題、具体的な住民への被害など、その重大性を立証するよう求められているのは、被告である東京都ではなく、訴えを起こした住民の側である。

日本がフォックスのいう「人間非中心主義」の社会であるならば、市民は「イチョウが枯れるおそれがある」「騒音がひどくなるおそれがある」「樹木の移植は失敗するおそれがある」と指摘するだけでよく、「イチョウは枯れない」「ひどい騒音は起こらない」「樹木の移植は成功する」ということを立証する責任は事業を行う者にあることになる。

このように言うと、それは環境倫理学というマイナーな分野の机上の理屈にすぎない、と言われるかもしれない。

そこで以下では、「予防原則に関するウィングスプレッド宣言」という、環境政策に関する国際的に有名な宣言を紹介したいと思う。この宣言は1998年、各国の研究者や国際NGOなどが参加した会議で採択されたものだ。

まずは「予防原則」という言葉について確認する。

「予防」という言葉から、“環境に対する被害が大きくならないように予防的に対策をとろう”という原則のように思われるかもしれない。それは間違いではないが、予防原則の特徴はそれ以外の要素にある。予防原則を端的に表現した文言は以下の通りである。

「ある行為が人間の健康や環境に対する脅威であるときには、その因果関係が科学的に完全に解明されていなくとも、予防的方策をとらなければならない」(「予防原則に関するウィングスプレッド宣言」より抜粋。太字は引用者。以下同じ)

この「因果関係が科学的に完全に解明されていなくとも」という条件は、非常に重要な意味をもっている。

公害問題の場合、科学的な因果関係の解明を待っていると、非常に長い時間がかかり、その間に対応がとられない場合には被害が拡大してしまうということが、歴史的に示されている。

水俣病がその例である。水俣病が公式に確認されたのは1956年のことで、当初から工場廃水の影響が指摘されていたが、当時の政府、チッソおよび複数の科学者は、工場廃水と病気の発症との間の科学的な因果関係が解明されない限り企業に責任はない、というスタンスを崩さなかった。

水俣病の原因物質が工場廃水に含まれていたメチル水銀であることが確定し、政府が水俣病発症と工場廃水との科学的な因果関係を認めたのは1968年、これは水俣病の公式発見から12年後のことである。

その間、工場側は有効な対策をとらなかったため、患者は増え続けてしまった(丸山徳次編『岩波 応用倫理学講義2環境』岩波書店を参照)。

このように「因果関係が科学的に完全に解明されていなくとも」という条件は、非常に重要な意味をもっていて、これが予防原則の一番のポイントなのだ。

さて、この予防原則に関連して、1998年に「ウィングスプレッド宣言」という有名な宣言が出された。そこには、先に紹介した部分に続いて、次のような文言が記されている。

「予防原則では、立証責任は、市民ではなく、その行為を推進しようとする者が負うべきである」

これも公害の例から考えてみよう。患者側に科学的な因果関係を立証する責任が投げかけられると、患者側は害を被っただけでなく、さらなる負担を課されることになる。

本来は、患者側が、工場から出る廃水によって発病したことを必死に立証するのはおかしなことであり、工場側が、工場の廃水が病気を引き起こしていないことを立証しなければならないはずだ。患者側は工場にそれを要求することができ、工場側はその立証責任を果たさなければならない、といことになる。

神宮外苑の再開発の見直しを求めるデモで掲げられた「SAVE JINGU GAIEN(神宮外苑を守って)」のメッセージ(2023年2月12日)
神宮外苑の再開発の見直しを求めるデモで掲げられた「SAVE JINGU GAIEN(神宮外苑を守って)」のメッセージ(2023年2月12日)
YUICHI YAMAZAKI via Getty Images

予防原則の考え方は、公害問題に限らず、環境問題一般に適用されるものなので、神宮外苑再開発問題においてもそのまま適用することができる。

つまり、先ほどの「ウィングスプレッド宣言」の考え方からしても、市民は「イチョウが枯れるおそれがある」「騒音がひどくなるおそれがある」「樹木の移植は失敗するおそれがある」と指摘するだけでよく、「イチョウは枯れない」「ひどい騒音は起こらない」「樹木の移植は成功する」ということを立証する責任は事業を行う側にあることになる。

「ウィングスプレッド宣言」は次のような言葉で締めくくられる。

「予防原則の実現プロセスは公開された民主的なものでなければならず、また、影響を受ける可能性のある関係者のすべてが参加していなければならない。活動自体の取りやめを含む、あらゆる代替策の検討も必要である」

少なくとも、イコモス日本委員会が、事業者の説明には虚偽があると述べている以上、それに対して納得できる反論を行う責任が、事業者側にあるはずだ。

それができない場合には、事業自体の取りやめを含む、あらゆる代替案の検討が必要となる。「ウィングスプレッド宣言」は、そういうことを言っているのである。

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