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2019年04月28日 16時02分 JST | 更新 2019年04月28日 16時02分 JST

洋服はカルチャーの一部だと思う──ファッションの平成30年史【菊池武夫さんインタビュー】

「平成で起きたことの検証をしないとだめなんですよね。そして、それがすごくおもしろいと思う」

博報堂

博報堂生活総合研究所(以下、生活総研)『生活者の平成30年史』出版記念企画のVol.3は、1960年代からファッションデザイナーとして活躍し、日本のファッション業界を牽引し続ける菊池武夫(きくちたけお)さんへのインタビューです。菊池武夫さんが過ごした平成という時代、そして、人々とファッションの関係性について、生活総研の鎌田淳上席研究員が聞きました。

やりたいことをやっていたら、自然と時代にフィットした

──僕はちょうど平成元年に大学に入学したのですが、美術大学でファッションを専攻していまして。その時に憧れだった菊池先生にお会いできて本当に光栄です。今日は、ファッションだけでなく、時代そのものを創ってきた先生に、「平成」という時代について伺いたいと思っています。

菊池 ありがとうございます。僕は正直、時代を意識しているというより、自分がやりたいことをやっていたら、たまたま時代にピタッと合ってしまったというのが実際のところなんですね。この時代にこういうことをやろうなんていうことは、一度も思ったことがないくらいです(笑)。

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──BIGI(ビギ)を設立されたのが1970年ですが、そのときも時代を意識して、ということはなかったのでしょうか。

菊池 1968年、僕が29歳のとき、遅まきながら2カ月ぐらい海外へ出たんです。ヨーロッパからアメリカまで回って、世界のいろいろなファッションの動向を見ていたら、日本にはファッションの自由な活動が行われる仕組みがあまりなく、非常に範囲が狭いなと感じたんですね。それで、いま自分たちが思っていることを形にすれば、仕事になるんじゃないかと思って1970年にBIGIを設立したのです。現在のように情報が豊かでない時代ですから、ほとんど口伝えで日本中にBIGIの噂が流れた。店は原宿に1軒しかなかったのですけど、取引先も含めて、あっという間に皆さん興味を持ってくださったんです。

──自由なファッションを求めていた人々が、待っていました!と飛びついたんでしょうね。

菊池 たぶんそうなのでしょう。やっと自分たちが求めている洋服ができた、ということで、時代にピタッと合ったのかもしれません。

男性のファッションがカジュアル化し出したのは15年ぐらい前から

──BIGI設立5年後の1975年には、MEN’S BIGI(メンズビギ)を設立されましたが、当時のことを教えていただけますか。

菊池 今と違って、男物のファッションでカジュアルなんて僕らの時代はほとんどなかったですね。今みたいにカジュアルで会社へ行けるという社会状況でもなかったですし、スーツにネクタイなど必要なものはもう決まっているというのもありました。男物は、女性物の10分の1ぐらいの商品しか活力がなかったし、アイテム数もすごく少なかったですね。そういう幅が狭いところで、売れる数も予想がつかないですから、作る数と売れる数のギャップで在庫を抱えるという問題もありました。

本人提供
1975年 MEN’S BIGI設立当時のポスター

 

──供給と需要のギャップによる在庫処理の問題は、今もずっと続いている課題ですし、あらゆる生産メーカーさんが抱える課題ともいえますね。ところで、今は、男性のファッションも当時からずいぶん変わってきたと思います。先生の実感として、男性のファッションでカジュアルなものが増えていったと思うのは、いつ頃からでしょうか。

菊池 僕はね、MEN’S BIGIの時代から、カジュアルなものをずっと作ってきたわけだけど、いつ頃からだろうな。カジュアル化し出したのは。たぶん15年ぐらい前かな、世界的に見ても。例えば、スーツ。スーツ自体もカジュアルになっていますから。芯が入ってないで、ペラ~ッと軽くつくる洋服になっています。生活がカジュアル化するのと同時に、仕事でもカジュアルなものが許される環境ができてきて、カジュアルな洋服も必要になっていったという感じですね。

──そういうカジュアル化の流れのなかで、先生は2005年、66歳の時に40ct&
525(フォーティーカラッツ アンド ゴーニーゴ)をスタートされました。どうして、このブランドを作ろうと思われたんですか。

菊池 僕の年齢に近い人の洋服をつくりたいと思ったのです。流行を早く取り入れなくてよくて、とんがってなくていい、少し安らぎも必要、そんな年齢の人の服。それと、体型が崩れても、その体型がよく見える、カバーできる洋服。

──確かに年齢的な体型の崩れはありますよね。太ったり、お腹が出たり。

菊池 僕は、体型がそうなってきたのを細く見せるなり何なりするテクニックはわかりますから、そういう洋服をつくりたかったのです。40ct(フォーティーカラッツ)という名前には、40歳以降にダイヤの重さのように、価値が違うのが価値だという思いを込めました。

洋服をカルチャーの一部としてデザインする

──先生は、コレクションを発表される際、非常にテーマ性の高いショーをされていましたよね。

菊池 そうですね。僕はショーをやるとき、いつも映画と同じようにストーリーを感じさせるものでありたいと思っていたんですね。だから、モデルがただ黙って歩いて戻ってきて、また服を着替えて出て行くということに賛成できなかったですし、きれいなモデルばかり出てくるというのも賛成できなくて。現実にはいろいろなキャラクターの人がいるし、そういう人に実際にショーに出てもらうということをやっていました。僕は、洋服はカルチャーの一部だと思っているのです。だから、デザインするのは服だけれど、ショーで表現するものはそれを超えてカルチャーでありたい。今も変わらずそう思っています。

──よくわかります。先生のショーを見る度に、これから世の中はこういうふうになっていくんだという、文化がついてくるような感じがして、ワクワクしながら拝見していました。お洋服を作る以外にもさまざまな取り組みをされていますが、1996年(平成8年)には短編映画を撮られていますよね。

菊池 はい。僕が洋服を作っていていつも感じるのは、洋服は消えてなくなってしまうということなんです。ショーもほんの一瞬ですよね、通り過ぎてなくなってしまう。映像のなかに洋服なり自分の考え方を入れておかないと、残せないと思うのです。例えば、名作『カサブランカ』は映像が残っているから、僕らは今でもハンフリー・ボガードの洋服を見て、いいなぁ~と思えるわけですよね。自分がいま表現している洋服の空気感みたいなものを残したいと思って、映画を撮ったのです。

“情熱”から、“知性”で服を買う時代へ

──映画を観てファッションに感化されたり、好きなバンドのファッションに影響されたり、そういう意味でも、服はカルチャーの一部だと僕も思います。先生は布袋寅泰さんの衣裳も手掛けていらっしゃいますが、ライブを見に行ったお客さんが、布袋さんかっこいいなと思うと同時に菊池先生のスーツかっこいいなと思う。そういうカルチャーの越境が醍醐味ですよね。

菊池 いまはインターネットで情報を得るようになって、自分の好きなところだけ見る癖がついてしまっていますよね。興味のないことには触れないで生きることができるという、すごく怖い状況。だから、思考もたぶん狭くなっているのではないかと思うのです。

──確かにそうですね。昔だったら、テレビのチャンネル争いみたいなものがあって、お父さんがじゃんけんに勝ったら父親の好きな番組を観なきゃいけないとか、そういうことで強制的に興味も越境できていました。そこから情報源がパソコンとなりスマートフォンとなり、便利になった一方で視野狭窄のようになっている部分はあると思います。

菊池 これだけ情報があふれるなかで、いまは洋服を買うときも“情熱”じゃなくて、ある種の“知性”みたいなもので選んでいるんじゃないでしょうか。70年代にBIGIを買ってくれた人たちは、すごく冒険だったと思うんです。我々が感覚に訴えるものを作ることで、自然とお客さんの欲求に結びついていた。でも、今は冒険したくないし、“わかっているもの”のほうがよいんですよね。
あとは、生活のなかで洋服の持つ位置がかなり低くなっているというのもあると思います。食文化も非常に豊かになりましたし、インテリアもどんどん多彩になって、住環境もよくなった。昔と望みが違ってきていると言いますか、あんまり不満足な人はいないのでしょう。

──人を満足させるものがいろいろ出てきたということですか。

菊池 そうですね。それは、もしかしたら、昔、僕らが憧れていた成熟したヨーロッパ文化に、今の日本が追いついたということなのかもしれません。ヨーロッパの人は、昔から、そんなに洋服を持たないと言いますし。
ただ、ちょっと違うのは、日本人は嗜好がすごく多様化しているということなんです。これだけ洋服のカテゴリーがある国って、たぶん日本しかないですし、外国の人が見てもびっくりすると思いますよね。70年代は世界的にも動乱の時代で、80年代はその動乱を土台にして再スタートを切った時代。そして平成は、そういった過去の時代を冷静な目で見ながら、蓄積されたものをプラスしたり、整理したりしながらファッションが少しずつ多様化していった時代だと思います。

博報堂

 

──昔だったら、大衆ひとかたまりでみんな同じようなものを欲していたのが、今は価値観がどんどん多様化していますよね。以前、我々の研究所では価値観や嗜好によって分割された大衆のことを「分衆」と名付けましたが、最近ではもっと細分化が進んで、ひとりの人間のなかにもいくつもの価値観や嗜好が生まれるようになっていると感じます。もはや「十人十色」ではなくて、「一人百色」というところまできていると感じます。

菊池 それは、すごくよくわかります。

平成に出せなかった答えを、科学で分析して解決する

──さきほど70年代は激動の時代だったとおっしゃいましたが、平成は穏やかな時代だったと感じられますか。

菊池 そう、穏やか。「平成」という言葉のとおり。ただ、平和で平板であったかと言うと、実はそうじゃなくて、世界的にはテロもありましたし、日本は震災が立て続けにありましたよね。やはり阪神淡路大震災や東日本大震災のときには、いろいろなことを考えさせられました。

──そういった出来事は服づくりにも影響を与えましたか?

菊池 70年代にはベトナム戦争という世界的な課題があって、消費ばかりではないエコな生活を、という問題意識を当時から持っていました。アメリカの古いデニムをほどいてデザインし直したり、軍物の毛布から洋服を作ったりしていた時期もあって。その頃と同じような空気感を、震災のときも感じましたね。僕は元々古いものの再利用をやっていましたし、そういう精神は強い方なのですが、日本ではどうしても一過性のムーブメントになってしまって、定着していない気がするのです。

──昨今、注目されているエシカル消費(環境や社会に配慮した製品やサービスを選んで消費すること)も、流行り言葉になってしまっては意味がありませんもんね。

菊池 その通りです。以前、伊勢谷友介くんの会社のリバースプロジェクトのB反(織りむら、染めむら、色やけなどのちょっとした難点のある織物のこと)のデニムで洋服を作る企画に一度参加させて頂きましたが、本来ならば自社が恒久的に意識してやらなければならないことですがやはり、利益主導などいろいろな問題に対して答えが出せて無いのが現状。変な話、恵方巻きの大量廃棄の問題と同じで、アパレル業界でも在庫の問題はずっと抱えている課題なのです。今のコンピュータはものすごい処理能力があるのだから、AIが全部処理すれば、そういった無駄も必ず解消されるはずですよね。ビジネス的な経済学じゃなくて、科学的に分析してビジネスをやらないと。僕は全部が科学なのだと思うんです。すべての事象にきちんとした理由があるはずで、それに対して具体的な答えを見つけていく。抽象的に語ってわかったつもりになるのじゃなくて、その都度きちんと答えを出して積み重ねていく必要があると感じています。平成にあったいろいろなものをもっときちっと科学的に分析して、次の時代に引き継いで行かなきゃいけない。

──平成に答えが出なかったことを、ひとつひとつ解決していくということですよね。

菊池 そうです。平成で起きたことの検証をしないとだめなんですよね。そして、それがすごくおもしろいと思う。
僕は23歳からずっと洋服のデザインをやっていて、もう五十数年になりますが、いまだに答えなくやっているような感覚がすごくストレスなんです。だから、せめて死ぬまでに今までやってきたことの答えがいくつかほしい。きちんと自分自身で分析をして、その答えをこれから作る洋服のなかにはっきりと入れていきたいと思っています。

 

菊池武夫(きくちたけお)プロフィール

1939年東京都千代田区生まれ。1970年に(株)BIGI設立。1975年に(株)MEN’S BIGI設立。1984年TAKEO KIKUCHIを発表。一時ブランドを離れるが、2012年にクリエイティブディレクターに復帰。2015年に13年ぶりに東京コレクションにて自身のコレクションを発表。
www.takeokikuchi.com

 

本記事は、博報堂サイトに4月24日に掲載された「Vol.3【菊池武夫さんインタビュー】 洋服はカルチャーの一部だと思う──ファッションの平成30年史」を転載したものです。