お寺は二階建て、宗派は出身地

若くて真面目な僧侶ほど、アイデンティティの置き場所に悩んでいます。仏教の本義に照らせば、自我を糊塗するアイデンティティなど一刻も早く崩壊させてしまったほうが良いとも言えますが、ほとんどの僧侶が世襲や血縁を仏縁としていますし、人並みにアイデンティティを欲し、そこに苦しみが生まれます。

「お寺」「宗派」「僧侶」を巡る論点を、

自分なりに整理してみたいと思います。

日本のお寺は二階建て構造

日本のお寺のほとんどを占める「檀家寺」は

意味的に二階建て構造になっています。

一階が先祖教、二階が仏教。

有料会員制の一階で経済を回し、

二階は誰でも入れる無料サービスとして提供。

平屋一階建のお寺も少なくありませんが、

一階なしで二階だけやっているお寺はほとんどありません。

この辺りの事情が「葬式仏教」と言われる所以でしょうか。

神社は神道、お寺は仏教、というふうに

シンプルに言い切れるものではないのですね。

良いでも悪いでもなく、日本のお寺は長い歴史を経て、

今そのように存在しています。

宗派は出身地やふるさとのようなもの

今の日本で仏教の宗派の持つ意味は、

一般社会の「出身地」や「ふるさと」のようなものではないでしょうか。

現代日本の僧侶の95%以上は世襲または血縁が仏縁です。

生まれてくる子が親を選べないように、

お寺に生まれてくる子は、生まれるお寺の宗派を選べません。

どの宗派のお寺の檀家になるかも、ほぼ先祖代々のご縁で決まります。

生まれて物心ついてみたら、たまたま道元さんの曹洞宗だった、

たまたま親鸞さんの浄土真宗だった、という話です。

私にしても、お寺生まれではありませんが、

祖父が浄土真宗(東)のお寺の住職でしたので、

親鸞さんに親しみを覚え、

結果的に浄土真宗(西)で僧籍をいただくご縁となりました。

出身地は自分では選べませんし、変えられませんが、

その人の生き方に大きな意味を持つのも確かです。

習慣や価値観を形成し、話す言葉にも決定的な影響を与えます。

しかし、どれだけ出身地に拘って生きるかは、その人次第です。

「だって、生まれちゃったんだもん」

いまさら言うまでもなく、

日本の仏教、お寺、僧侶のあり方は矛盾だらけです。

戒の問題、妻帯の問題、寺のあり方の問題・・・

しかし、1000年以上の歴史の積み重ねがあるのですから、

あちこちほつれやつぎはぎだらけで原型すら分からなくなるのも

無理のないことです。矛盾の数だけ歴史のドラマがあったのです。

そこに無理やり後付けで整合性を見いだそうとするから、混乱します。

若くて真面目な僧侶ほど、アイデンティティの置き場所に悩んでいます。

仏教の本義に照らせば、自我を糊塗するアイデンティティなど

一刻も早く崩壊させてしまったほうが良いとも言えますが、

ほとんどの僧侶が世襲や血縁を仏縁としていますし、

人並みにアイデンティティを欲し、そこに苦しみが生まれます。

むしろ、僧侶の社会的評価が下がり、僧侶であることに自信を

持ちにくい世の中ですので、余計にアイデンティティを渇望します。

今、日本に広まりつつあるナショナリズム傾向にも言えることですが、

自信を失った人がアイデンティティを渇望すれば、

「出身地」を最後の拠り所とした排他的な同朋愛につながります。

お寺の世界では自然と「宗派」がそのような拠り所となります。

自分のふるさとを好きと思えるのは、幸せなことです。

ふるさとを大切にする気持ちは、誰も否定しないでしょう。

異郷で出会った同郷の人に心を許すのも、自然の道理です。

しかし、いくら愛郷心が強くても、自分の存在を確かめるために

排他的なナショナリストになるのは、あまり勧められません。

ある意味、勇気の要ることではありますが、

日本の多くの僧侶が前を向いて進んでいくためには、

「あなたはなぜ、僧侶になったのですか?」

「なぜ、その宗派の教えを説いているのですか?」

という問いに対して、

「だって、このお寺に生まれちゃったんだもん。」

と正直に答えることから始めてみてはどうかと思います。

さすがにもうちょっと恰好良く答えたいなら、

「縁に依って。」

でもいいかもしれません。

世襲であろうとなかろうと、いかなる仏縁も仏縁は仏縁です。

長い歴史の行き着いたところに生まれた仏教界の矛盾や、

自分がその宗派の僧侶になった発心の理由について、

なんとか帳尻を合わせようと後ろ向きの努力を重ねるよりも、

苦しいことではありますが、一度ありのままの矛盾を受け入れ、

どん底から恐れずに前に向かって進んでいきましょう。

腹が据わっているならいるなりに、

腹が据わっていないならいないなりに、

背伸びせずに今いるところから始めればよいのではないでしょうか。

世襲や血縁を仏縁として僧侶になる方にとっては、

発心とは意思決定の問題というより、そのような縁にあることを

受け入れられるかどうかの"運命"肯定の問題と言えます。

「お寺」「宗派」「僧侶」全部、娑婆のこと

最近、自分がお寺にどのように関わるとか、

どこの宗派に属しているとか、

出家か在家かなどということは、

すべて娑婆の事柄のように感じます。

娑婆の事柄としての意味や重要性はありますが、

自分の信仰や霊性を規定するものではありません。

縁によってそうなっているのであって、

それ以上でも以下でもないはずです。

ただひとつ言えることは、所属や肩書きなど関係なく、

多くの偉大な師や素晴らしい仲間に育てられ支えられ、

念仏が中心にある仏道を歩ませていただいている、

このご縁に、感謝です。

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