「タイ王室」にも波及? 進む「タクシン派」切り崩し

タイではプミポン国王の誕生日前日に当たる12月4日、首相以下の文武百官に経済界指導者などが、祝賀のために王宮に参内する。それらの国家枢要を前に、国王が国民に向かって過ぎ去った1年を回顧し、自らの所感を語り、国民団結の尊さを諭し、来たるべき新しい年への抱負を語りかけることが恒例となっている。

タイではプミポン国王の誕生日前日に当たる12月4日、首相以下の文武百官に経済界指導者などが、祝賀のために王宮に参内する。それらの国家枢要を前に、国王が国民に向かって過ぎ去った1年を回顧し、自らの所感を語り、国民団結の尊さを諭し、来たるべき新しい年への抱負を語りかけることが恒例となっている。内外の批判を受けながらも財政再建に取り組んだ財務大臣を讃え、政治への容喙(ようかい)の激しい国軍幹部を婉曲に諌め、経済成長のみに邁進する政権には「足るを知る経済」を提案するなど、その姿は「国民の厳父」そのものであった。であればこそ、タイにとっての12月4日は特別な1日なのだ。

翌5日は誕生日。タイ全土は祝賀ムードに包まれ、国内は華やぎの1日を送る。ところが今年、国王は87歳の誕生日を前にした10月に体調を崩され、王宮での一連の祝賀行事は中止となった。5日にはプラユット首相以下政府関係者が列席し、王宮の外で祝賀式典が行われたが、やはり盛り上がりを欠くのは致し方のないことだった。

皇太子妃一族の逮捕

ところで11月の末、ワチュラロンコン皇太子は内務次官に書簡を送付し、王室がシーラット皇太子妃一族に与えた「アッカラポンプリーチャー」の姓を剥奪し、元の姓に戻すことを命じた。その背景は不明だが、タイ警察幹部の汚職事件容疑者の中にシーラット皇太子妃一族関係者が含まれていることに関連するというのが大方の見方だ。

かねてよりタイでは、王室の「藩屏」として殊に功績ある働きをした者に対し新たな姓を与えることで、その振る舞いを顕彰してきた。旧姓を棄て王室に縁の新しい姓を名乗ることは、「タイ王国の臣民」としてはこの上ない栄誉であると同時に、社会的に高いステータスを得られたことをも意味する。それだけに、その栄誉が時として実利に結びつき、悪用されかねないのだ。容疑者の1人は皇太子妃の叔父に当たる人物とも伝えられる。

今回の逮捕劇は、はたして11月末頃から展開された警察内部の不正摘発の一環なのか。

じつはエリート警察官から実業家、さらにモンスターのような政治家へと変身したタクシン元首相は、出身母体である警察を自らの権力基盤の重要な柱と見做し、政権担当時には幹部人事に影響力を発揮し、枢要なポストを自派勢力で固めることに腐心してきた。赤シャツを纏ったタクシン支持勢力が一向に衰えを見せず、不死鳥のように復活するのは、タクシン支持派封じに消極的な警察幹部の存在があったからだとも指摘されている。

それだけに、プラユット政権が10月に指名したソムヨット警察長官は、ポンパット前中央捜査局長らタクシン派と目される警察幹部を不敬罪と資金洗浄疑惑で逮捕したことは、これを突破口として警察部内のタクシン派を切り崩し、一掃すると同時に、警察の綱紀粛正を断行し、国民的支持を集め、政権基盤の強化を狙ったものと考えられる。皇太子妃一族の逮捕もそうした一連のタクシン派切り崩しの一環と思われるが、やはり一面では、タイの新しい時代への環境整備とも考えられよう。

首相発案の「12項目の価値」

8月末の首相就任以来、プラユット首相の出番は余りなさそうだ。軍服を脱いだばかりの最高権力者にとって現在のタイが抱える喫緊の課題である経済・財政の立て直しは、やはり難事業だということだろう。それだけに経済・財政は、国権の最高機関である国家平和秩序評議会(NCPO)のソムキット(曾漢光)経済担当顧問と、暫定政権において経済政策を統括するプリディヤトーン副首相に委ねるしかないだろう。たとえ2人の手法が違っていようとも、である。因みに、タイでは依然として戒厳令が解かれてはおらず、形のうえではNCPOの下に暫定政権が位置づけられる。

かくてプラユット首相は、10月初旬、自らが音頭を取って「12項目の価値」なるものを発表することで、自らの存在感を国民に示そうとしたのではないか。

(1)国家・宗教・王制の護持(2)国王を元首とする民主主義理念を理解(3)国王のお言葉に沿った行動(4)国王の経済理念の実践と質素な日常生活――など、児童・生徒が学ぶべき12項目はプラユット首相自らの考案であり、児童・生徒に対し12項目の拳々服膺(ふくよう)を強く求めていると伝えられる。「よきタイ人になるため」とはいうものの、教育現場からは余り芳しい反応はなさそうだが、教育省は「暫定政権の命令」と強硬姿勢を崩さない。

次いで5月のクーデターから半年余が過ぎた11月下旬、首相は毎週金曜日に出演するテレビ演説で、国家を守るためには報道の制限は必要だと力説すると同時に、メディアによる政権批判に対し自制を求めた。また2006年以降、激しい反発を繰り返すタクシン派と反タクシン派の「和解」を妨げているとして、ソーシャルメディアをも批判、糾弾した。

当然のように学生らからの反発は見られるが、プラユット首相自身、一向に意に介してはいないようだ。

国王、病、篤かりき

1970年代後半から現在までの35年ほどの間、現役のまま、あるいは軍服を脱いで政権を担った軍人は、クリアンサク(77年~80年)、プレム(80年~88年)、スチンダー(92年4月~5月)、チャワリット(96年~97年)、ソンティ(06年9月~10月)、スラユット(06年10月~08年1月)と、陸軍出身の6人の首相を数えることができる。国軍最高司令官を務めたクリアンサク以外は、陸軍司令官の経験者だ。

ここに挙げた6人の陸軍大将の首相在任時の事績を簡単に振り返ってみると、クリアンサクは対ラオスと中国との外交を前進させる一方、国内的には猖獗(しょうけつ)を極めたタイ共産党系の武装ゲリラを封じ込め、国民的和解と社会の安定をもたらした。続くプレムは、国王の全面的支持を背景に国軍とテクノクラートを車の両輪として長期安定政権を築き、80年代後半から90年代初頭まで続いたタイ経済の高度成長の礎を築いた。

だが、スチンダー以後の4人は、期待外れとしか言いようがない。ことにスチンダーなど政権に就かずと言明しながら、国軍翼賛政党から担がれ、軍服を脱いで首相に就任するや、学生らから「嘘つき首相」と非難された挙句、国軍精鋭を投入して反政府運動潰しに動いたことで「5月事件」と呼ばれる流血の惨事を引き起こしてしまった。国王から叱責される場面がテレビ中継され、かくて僅か1カ月半ほどで首相辞任に追い込まれている。タクシン追放のクーデターを指導したソンティにしても、その後継のスラユットにしても、当初の予想とは違い、これといった成果をあげられないままに、海千山千の政治家が巻き起こす政治の荒波に呑みこまれ、政治の表舞台から消えた。

プラユット現首相には、新憲法制定、さらには来年末に予想される総選挙を経て、民政移管という政治日程が待ち構えている。総選挙が近づくに従って、跳梁跋扈・百鬼夜行を本格化させる政治家を押さえ、はたしてスムースな形での民政移管を達成しうるか否か。彼がクリアンサク以下6人の軍人出身の先輩首相に比して、どのような政治的力量を備えているのかは未知数だ。だが、プラユット首相が、先輩たちの経験とは比較にならないほどに困難な事態を迎えざるを得ないだろうことは、確実に指摘できる。

いまタイは、第2次世界大戦終結以来最大の激動を迎えようとしている。国王、病、篤かりき。

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樋泉克夫

愛知大学教授。1947年生れ。香港中文大学新亜研究所、中央大学大学院博士課程を経て、外務省専門調査員として在タイ日本大使館勤務(83―85年、88―92年)。98年から愛知県立大学教授を務め、2011年より現職。『「死体」が語る中国文化』(新潮選書)のほか、華僑・華人論、京劇史に関する著書・論文多数。

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(2014年12月11日フォーサイトより転載)

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