「ザ・トライブ」映画と手話の雄弁さについての映画。

主要出演者は全て聾唖者、声の台詞なし、字幕なし。細かい中身がわからなくても、大事なことは伝わってくる。英語がわからない時に優れた作品は台詞がわからなくても理解できるのと同様だ。

米国に留学したての頃、恥ずかしながらほとんどリスニングができていなかったので、日常会話にも苦労した。そんな状態でも、映画を見るのは止められないので、映画館に行っていた。米国で最初に見た映画はイーストウッドのミリオン・ダラー・ベイビーだったが、台詞の中身は理解できないのに、映画全体は不思議と理解できた。案外台詞が理解できなくても映画は楽しめるものなのだと、その時気づいた。

留学当初は台詞なしで理解可能かどうかを優れた作品の判断基準にさえしていた。実際、台詞なしで理解できなかった作品は、後から字幕つきで見ても面白くないことが多かった。この感覚は、英語が上達するにつれ失われていったが。

映画は、生まれた当初は音のない「サイレント」だった。今でも用いられる映画演出のテクニックの多くはサイレント映画時代に編み出されたものだから、映画は本来声を用いなくても観客に何かを表現し得る。

本作「ザ・トライブ」は、そのことを単なるサイレント映画へのオマージュや懐古主義を超えて実践してみせた。主要出演者は全て聾唖者、声の台詞なし、字幕なし。登場人物は手話によって語り、怒り、挑発する。元々手話の歴史は声の言語の歴史同様に古いが、本作はそんな手話の雄弁さをまざまざと見せつける。ウクライナの手話であるから、日本手話とも当然違うのだろうが、そんな言語の違いを飛び越えて人物の感情を伝えることに成功している。細かい中身がわからなくても、大事なことは伝わってくるのだ。英語がわからない時に優れた作品は台詞がわからなくても理解できるのと同様だ。

その手話の雄弁さを信頼するかのように、監督は1シーン1カットで禁欲的な演出に終始している。ドキュメンタリータッチのカメラワークで、役者の肉体の躍動を丹念に切り取っていくことに終始している。クローズアップもカットバックもモンタージュもない、声の台詞もない。しかし、人物の痛みや感情の爆発を確実に伝えている。

物語は、聾唖の寄宿学校に入学した若者の破滅的な顛末を描く。表では平和な学校として運営されているが、裏では学生による犯罪グループに支配されており、盗みもすれば、集団暴行もすれば、売春もする。若者はその中に否応なく組み込まれ、やがて報われない愛から恐るべき行動に走る。

この作品には、いわゆる「けなげな障害者」は全くでてこない。「障害もの」とか「難病もの」とか言われると、すぐにお涙頂戴を連想するが(そんなカテゴライズ自体が失礼な話ではないかと思う)、全くそういう方向性の作品ではない。見るのはそれなりの覚悟をしないといけないだろうが、観客の目を釘付けにする異様なパワーを秘めた傑作だ。