為末大さんが、現役時代にコーチをつけなかった理由

世界陸上のハードルで銅メダルを獲得した為末さんはいま、東京・渋谷で「シェアオフィス」を運営している。コーチ不在、練習は1日2時間……異色の競技人生は、ビジネスの世界でどう生きているのか。
為末大さん
為末大さん
HIROKO YUASA

為末大さんは、世界を舞台に男子400メートルハードルの選手として活躍した。2001年と2005年の世界陸上では、いずれも銅メダルを獲得。3度のオリンピックに出場し、「侍ハードラー」と呼ばれた。

現役時代、コーチをつけず、メダルを獲得した20代中盤では1日の練習時間はわずか2時間だった。コーチとの濃密な師弟関係を好む選手がいる日本のスポーツ界では異色の存在だ。

引退後の現在は、東京・渋谷でアスリートや起業家らが集うシェアオフィスを運営。「アスリートが社会に貢献する」ことを目指す一般社団法人の代表も務める。

「自分は体が小さかったから、他の人と違うスタイルの陸上人生を歩んだ。それがビジネスにも生きてきているのかも」。そう話す為末さんに、ゴールドマン・サックス証券のエコノミストから転身して、途上国で生産したバッグやジュエリーを販売する「マザーハウス」の代表取締役副社長を務める山崎大祐さんが、インタビューを行った。

インタビューは、マザーハウス代表取締役兼チーフデザイナーの山口絵理子さんの『ThirdWay 第3の道のつくり方』(ディスカヴァー・トゥエンティワン刊)を記念して行われました。

為末大さん(左)と山崎大祐さん(右)
為末大さん(左)と山崎大祐さん(右)
Hiroko Yuasa

「読書するハードラー」は、劣等感から生まれた

――為末さんを見ていて僕が一番驚いたのが、170センチの身長で(世界陸上で)メダルを取ったことでした。体格の差を、「思考する力」でカバーしてきたように見えます。

中学高校で身長が伸びず、「そんなに大きくはないけど、小さくもない選手」から、「小さい選手」になりました。ハードルは世界に出ると、大きい選手が多い。明らかに自分は小さい。努力では埋められない。だから、何とかしないといけなかった。「頭で考えて戦うこと」を意識したきっかけです。

でも、具体的に「考える」ってどうやったら良いか、難しいじゃないですか。わかりやすく数字としてカウントできるのが、本を読むことでした。読んだ本の数が増えていくと、レベルアップした気になった。人一倍理解したり、考えたりしないと他の選手に置いていかれるから、がんばった感じなんですね。「サバイブ」した感覚に近い。

Dai Tamesue of Japan clears a hurdle in the fifth heat of the 400 metres men's hurdle event at the world athletics championships in Helsinki August 6, 2005.
Dai Tamesue of Japan clears a hurdle in the fifth heat of the 400 metres men's hurdle event at the world athletics championships in Helsinki August 6, 2005.
Charles Platiau / Reuters

ーー為末さんは現役時代、コーチをつけていなかったことにも驚きました。1人で考えることに限界もあったのでは?マザーハウスは、山口絵理子と僕の代表取締役2人体制で、よくお互いに「思考の壁打ち」をやっています。

当時の陸上界は、コーチがトレーニングメニューを決め、選手が実行する、という構図になっていました。選手からすると、ひとつひとつのトレーニングにどんな狙いがあるのかわからない。僕は「全体像」や「トレーニングの意味」を知りたかった。

ただ、「コーチをつけないこと」は、最初の数年間、失敗していました。ひとつひとつのトレーニングの組み合わせやバランスによって選手はつくられていきます。そこがよくわからない。

そこで、コーチというより、ゆるやかな「メンター」のような方から、月に数回、一緒に練習し、質問を受けながら考えるようになりました。まったくコーチをつけないというのではなく、その都度、担当のメンターを変えながらやってきた、というのが正確なところかなと思います。

インタビューにはマザーハウスの山口絵理子さんも参加した
インタビューにはマザーハウスの山口絵理子さんも参加した
HIROKO YUASA

ーーメダリストになるような人は、四六時中練習をしていると思っていたのですが、為末さんの練習時間は短かったですよね。体格の差を埋めるために「練習をしまくる」とはならなかったんですね…。

「どういう法則に陸上競技は支配されているのか」という点にすごく興味がありました。良い練習かどうかは「時間×質」であらわすことができます。例えば、練習の質があまり向上しない場合、長い時間やれば体積が大きくなるので、良い練習となる。

でも、陸上は質の幅がすごく大きいんです。

10秒2を10回走るよりも、10秒0を1回走る方が筋肉への負荷がずっと大きく、筋肉痛の出方が全然違います。負荷が大きい方が当然選手を成長させてくれます。オリンピックの予選で、上位の選手が最後、力を抜いて流すことがあるじゃないですか。あれってタイムにしたら0.2秒ぐらいしか違わないんですが、体はすごく楽なんです。だけど、調子によって0.2秒ぐらいすぐ変わってしまう。だから、レベルが上がるといい練習のためにいい休養といい調整をする必要が出てきます。いろんな選手を観察していくと、いかに強い負荷をかけられるかの方が、どれだけ長くやるかということよりも大事だと考えるようになって、それで練習時間が2時間になっていったんですね。スマートにたどり着いたというよりも試行錯誤の結果でした。

山崎大祐さん
山崎大祐さん
Hiroko Yuasa

■「陸上を支配する法則を知りたかった」

ーーさっき、「陸上を支配する法則を知りたい」という言い方をしていたのが、すごく面白いと思いました。自分の体と向き合っていると、狭い視野におちいっていきそうな気もしますが、ふっと身体から離れて俯瞰して見る力をお持ちだったんですね。マクロとミクロを行き来できる力というか…。

子どもの頃から、お祭りや運動会の様子を、隅っこから見ることが好きでした(笑)。

選手とコーチの関係で言えば、選手はひたすら目の前のことに集中する役割で、コーチが全体を見ながら指導する役割がありますよね。僕はコーチがいない中で、両方をやれたのは大きい気がするんですね。

もう一つは、言葉が好きだった、というのもあります。考えていることを言語化して俯瞰するということをよくやっていました。おしゃべりだったというのは大きいと思いますね。

為末大さん
為末大さん
Hiroko Yuasa

400メートルハードルはそもそも、全力を出しきれない競技

ーーおしゃべりだったというのは意外です。お話が得意だと書くことが得意じゃなかったり、身体にこだわると思考が得意じゃなかったり、一方のことが得意だと一方のことが苦手という方も多いと思います。為末さんは書くことも話すことも、体を使うことも得意ですよね。どうして複数の視点をお持ちなんですか。

陸上の世界では、ハードルってちょっとばかにされる側面もあるんです。他の競技は「特化型」なんですね。例えば「高跳び」は背が高く飛ぶことにたけた人間、「100メートル走」は爆発的な瞬発力のある人間と、何かの力に特化している。

だから、「全部そこそこだった」人間が行くことが多いのが400メートルハードル。よく言えばバランスが良い、悪く言うと「器用貧乏」の世界なんですよ。だから、陸上の世界ではコンプレックスを感じやすい。

ただ、瞬発力も必要だし、跳躍力や中距離走のタフさも必要で、いろんな世界を行き来しているから、「複数の感覚」がわかる。だからなのか、引退後は研究者になる人が多い印象があります。異なる分野の違いを言語化したり通訳したりすることがやりやすい競技なんじゃないかなと思います。

現役時代の為末大さん
現役時代の為末大さん
Issei Kato / Reuters

ハードルとハードルの間って、大体35メートルくらいあるんですが、僕の歩幅は何も考えずに走ると2m40cmぐらいなので13.5歩で飛ぶと一番良いんですね。でも、そんなことはできないので13歩か14歩で飛ぶしかない。そもそも、歩幅を合わせるために、どこかで調整しなければいけないので、本当に全力を出し切れる人にはあまり向いていない競技なんです。二者択一的に考えると、あんまりうまくいかない。歩幅を大きめにするか短めにするか、常に二項対立っぽい世界なのですが、そのバランスを取りに行く競技なのかなと思います。

為末大さん
為末大さん
HIROKO YUASA

■「俺、やばいかも」。ある日、妻に打ち明けた

ーーメダリストになったときに描いていた未来ってどういうものだったんでしょうか。選手としてピークのときにどんなことを考えていましたか。

スポーツをしている人間って、大体ロールモデルを持つんですけど、35歳くらいまでの人生しか見えていないんですね。ピークのときは、とにかく頂点までのぼれば、きっと幸せな人生が続くだろうと思っていました。あそこまで行けば人生安泰なんだって。

結果が出なくなるにつれて、強烈に不安を感じ始めました。「ハードルしか跳んだことのない自分が、(引退後に)何かの役に立てるのだろうか」。

現役生活の最後の方には、妻に「俺やばいかもしれない」と話したこともありました。日本でビジネスをしている人に話を聞いてみたけど、当時は言っていることがよくわからなかったんですよね。ビジネスパーソンたちの使っている言葉がわからなかった。

今ビジネスの道に進んでいるのも、本音のところで言えば、「(陸上選手として)普通でいるのは嫌だな」と思ったのが大きい気がします。自分の能力が、陸上のハードルだからうまくいったのか、ビジネスなど他の分野でもうまくいくのか、試してみたいという気持ちもありました。

あとは、何となく、世の中を見渡して「すごい人」って、組織や仕組みを作って、社会を変えていることが多かった。言葉を通して社会を変えることもできると思うんですけど、組織とか仕組み作りのことがわからないままだと、世の中のことがあまりわからないってことでマズイな、と思いました。

為末大さん
為末大さん
HIROKO YUASA

――もともとコーチをつけずに個人競技で戦ってきた為末さんが、組織で動くビジネスの世界(シェアオフィス運営など)に向き合うというのは、真逆にも見えますが、葛藤はなかったでしょうか。

ありますね。「何でこんなこと始めてしまったんだろう」と何度も思いました(笑)。ビジネスのチームを大きくしたり、縮小したり、うまくいかなかったこともあり、実際は凸凹です。

最初は「俺はスポーツだけじゃないんだぜ」ということを証明したい、というようなところから始まって、やっていくうちにできないことや得意なことが見えてきた感じです。

例えば、言語化する領域は得意なんですね。起業家と面談をすると、最初はこちらから事業のアドバイスをしようと思っていても、結局僕がアドバイスされる構図になることも多いんです。彼らの方が経験豊かですからね。唯一こちらから提供できることは、我々とは何者かという「内省」に関することです。競技をしていて「何でそう思ったのか」とずっと内省してきたのと、言葉が好きだったので。

アスリートは日記を書くことがあるのですが、「あのとき自分はひとりだった」と書くのと、「あのとき自分は孤独だった」と書くのと、同じ意味のように見えて、違います。「ひとり」と違って、「孤独」には主観が入っていますよね。単語って、気分が入るものと、事実をあらわすものとクリアに分かれているんですよね。そういう単語の使い方ひとつからも内省を深めることが、自分のバリューなんだと思います。

為末さんと山崎さん
為末さんと山崎さん
HIROKO YUASA

■人間を理解したい

――今後、どんなことをやっていきたいでしょうか。

いま一般社団法人(アスリートソサエティ)をやっていて、ブータン、ネパール、ラオス、スリランカ、カンボジアの選手たちを現地で指導したり、年に1回日本に招いて合同合宿をしたりしています。事業のことなどはまだわからないことも多いのですが、人間のことは考えていけば自分にはわかるんじゃないかと思っていて、早い段階で選手の持っている特徴を見つけられたら、と思います。

例えば、スポーツの世界では本番にすごく強い人がすごく評価をされます。ただし、本番に強い人の特徴として、「共感の低さ」や「リスクに対する感度の低さ」というものがあります。緊張って、他者の気持ちを考えて生じることが多いので、共感が低いと緊張しにくいんですよ。そういう人は、引退後に社会生活を営む上で、困難さを感じることもあります。

人間の特徴が良いとされるか悪いとされるかは、その人のいる環境や、身の置き方次第なので、そういった特徴をうまく見つけていければいいなと思っています。

起業家との関わりについても、1人か2人で会社を始めたばかりの頃の「アーリーステージ」の起業家のサポートをしたいですね。自分としては、やっぱり人間を理解したい、というのがあります。人はどんな状況で成長するのか、どういう癖が出てくるのかを知りたいです。陸上選手として試行錯誤した「内省する力」が、どこまで社会でお役に立てるか、挑戦を続けたいと思います。

為末大さんは、「体」と「頭」のサードウェイとして「言葉」を大事にしている、と書いてくれた
為末大さんは、「体」と「頭」のサードウェイとして「言葉」を大事にしている、と書いてくれた

■編集を終えて

「Aでもない、Bでもない、“私のサードウェイ“」。

時にぶつかり合うような事柄の両方を理解し、それぞれのいいところを掛け合わせて新たな可能性を見つける。この思考法をマザーハウスの山口絵理子さんは「サードウェイ」と名付け、このたびハフポストブックスから出版しました。

今回、為末大さんは「体」と「頭」のサードウェイとして「言葉」を大事にしている、と話してくれました。

世界の選手との体格差など、自分に「できないこと」にとらわれすぎず、いかに「できること」を編み出していくか。その過程で、言語化する作業が生きていたのだと感じます。身体と徹底的に向き合いつつ、思考を深めてきたアスリートが、ビジネスの世界だけでなく、社会に新たな考え方を提示してくれる可能性を感じました。(澤木香織)

山口絵理子さんの著書名「Thirdway(第3の道)」というメッセージは、ハフポスト日本版が大切にしてきた理念と大変よく似ています。

これまで私たちは様々な人、企業、団体、世の中の出来事を取材してきました。多くの場合、そこには「対立」や「迷い」がありました。両方の立場や、いくつかの可能性を取材しつつ、どちらかに偏るわけでもなく、中途半端に妥協するわけでもなく、本気になって「新しい答え(道)」を探す。時には取材先の方と一緒に考えてきました。

ハフポストは「#私のThirdWay」という企画で、第3の道を歩もうとしている人や企業を取材します。ときどき本の抜粋を紹介したり、読者から寄せられた感想を掲載したりします。

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