勝訴から8年。私が、自分の性犯罪被害を “フィクション小説”に仕立てた理由

「自分の問題が解決したからといって、どうしてすべてが終わったことだと思えたのだろう。あらゆる現代社会の仕組みが、人の心を潰すように機能していると知っているくせに…」。私を突き動かしたのはこんな思いだった。
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Rawpixel via Getty Images

20代のころ、性暴力事件の被害者となり、刑事裁判の当事者になりました。それは当時勤めていたゲームソフト制作会社の社員から受けたもので、相手は準強制わいせつ罪として有罪判決を受けました。

物心ついたときから性犯罪に遭うことが多く、すでにPTSDを患っていた私は、その事件がトリガーとなって病気が悪化し、まともに働くことができなくなりました。

被害を訴える私が疎ましくなってきた上層部が私を冷遇するようになり、次第にパワハラ、モラハラといった攻撃を受けるようになりました。きっと、本人たちは攻撃している自覚はなかったでしょう。それが許せなくて、性犯罪の加害者と勤めていた企業を相手取っての民事裁判を起こしました。

民事裁判の最中、加害者がこぼした一言で企業がこれまでに吐いていた嘘が露呈。私の言い分がすべて認められたわけではありませんでしたが、加害者だけでなく企業も私に慰謝料を払う形で裁判は決着しました。

前例も証拠もないから、勝てない可能性の方が高いと言われ続けた裁判を、こうした形で終えて。

一矢報いた、と、思いました。

7月に刊行した小説『ドミノ倒れ』はそのときの経験を題材にしたフィクション小説です。

可哀想な「被害者」の物語にしたくなかった

物語は、ドラマ番組の制作業界で働く人たちの間で起こってしまった性犯罪事件を軸に進みます。

大ごとにしないために警察に通報せず、事件ではなく“問題”として扱ってしまったがために、事態は肥大化し、関係者の心は潰され、正気を失い、企業が生産性を失っていく。

そういう過程を描写しました。

「現代版『蟹工船』のような物語を、『藪の中』のイメージで書きました」

読んだことのない人にこのお話をざっくりと説明するとき、こう話しています。

アルハラ、パワハラ、モラハラ、セクハラ、性犯罪といった「物損も外傷もない犯罪」の被害者を容易に追い詰めることが現代社会の構造を描こうと思いました。

さて、実際に性犯罪被害の経験がある私が、この物語を書く上で、とても大事にしたことがあります。それが何かというと、「ただの被害体験談のような話にしない」ということです。

私は、被害を受けたことを誰かに同情してもらいたかったわけでも、加害者を責めたいわけでも、社会を糾弾したいわけでも、自身の考えがすべての人にとって正しいと言いたいわけでもなくて。

もちろん性犯罪は重大な犯罪であり、決して許されるものではありません。

それを大前提として、社会の構造の中で、人はどうやって加害者になり、どうやって被害者になり得るのか、1人でも多くの人に考えてみてほしい。そして意見をぶつけ合って理解を深めたい、と思ったのです。

HuffPost Japan

想像力は、現実を超えられる。だから私はフィクションを書く

被害者、加害者、被害者の上司、加害者の上司。物語では、4人の心の動きを徹底的に描写しました。

読む人によって感想が変わるように意図的に構成しました。

登場人物全員に正当性と落ち度があり、読む人のこれまでの経験や考え方で、「誰が一番悪いと思うか」が変わるように仕組んだつもりです。

「被害者は、可哀相だけど、腹も立つ」

「加害者は、なんか憎めないんだよなぁ」

「被害者の上司は、考え方が幼稚」

「加害者の上司は、生理的に無理」

「あの一番性格の悪い人、最後の最後で共感してしまった」

そういう感想をもらったとき、ねらい通りの作品ができあがったのかな、と感じることができます。

「ものすごく取材したんでしょう?」と尋ねられることもあるのですが、実際には舞台となるドラマ制作業界についてしか取材していません。主題となっているハラスメントについては、渦中の人間として“裏側”を見てきたからこそ、リアリティを失わずに書くことができたように思います。

自分の体験を元にものを書くのであれば、ノンフィクションで良かったのではないかと思われるかもしれません。

そうしなかったのは、ただの“被害者の主観”としてしか受け取られないということを避けたかったから。フィクションとして、登場人物それぞれの内面を徹底的に書き込むことで、物語がもっと多くの人に届くのではないかと考えたからです。

自分の問題が解決しても、社会の問題は解決していなかった

なぜ今さら、自身の過去を題材にしてそんな小説を書き始めたか?

それは私の書いたブログ記事がたくさんの人に読まれたことがきっかけでした。

裁判に勝訴したのはもう今から8年も前のこと。終わって、何か新しいことをしたいと思っていた時、たまたまライターの仕事を始めました。

心的外傷後ストレス障害の発作は苦しくて、生活に支障がないわけではないけれど、生きていけないほどではないし、すべてはもう終わったことなのだし、とにかくこれから平穏無事に怪我をしないように生きていければいいと思っていました。

そんな中で、とあるニュースをきっかけに自身の経験を思い出してパニック寸前になりました。それがトリガーとなり犯罪被害について、裁判について、現状について書き殴りました。

記事を読んだ人から、感想メールを何通もいただきました。ほぼ全員、犯罪被害経験者でした。

「『被害者にも被害に遭う落ち度がある』と責められて心を押し潰された」

「後遺症に苦しみながらそれを誰にも打ち明けることができない」

「どうすればあなたのように犯罪者を許すことができますか」

私は自分が情けなくなりました。

自分の問題が解決したからといって、どうしてすべてが終わったことだと思えたのだろうと。

企業、警察、検察。

あらゆる現代社会の仕組みが、人の心を潰すように機能していると知っているくせに。

そして悲しく思いました。

すべてのメールが「書いてくれてありがとう」というような感謝のメッセージで締めくくられていたことが。

深刻なトラウマをともなう被害に遭いながら、被害に遭ったことをたくさんの人に責められて。それでも誰かを攻撃しようと思い至ることはなく、誰にも理解されないから言ってはならないとずっと胸のうちにそれを隠して。

どんな性質だって、活躍できる社会は必ずある

「元から悪い人は誰もいない」。

私はそう考えています。渦中にいたときはそう思えなかったけれど、今となっては。

問題を肥大化させるのは人の性質ではなくて、素朴な感情や欲望、利益を守ることを最優先する現代社会の仕組みではないだろうかと。

私は、ペンを剣にする力を持っている。

それなら、死ぬ気で戦えば、こんなにも強くて優しい人たちが社会で活躍できないようなおかしな社会を、変えることだってできるんじゃないだろうか。

優しいからこそ人よりたくさん傷付いて、社会からドロップアウトしてしまった人たちが、自らの性質のままで快く生きられる社会をつくれるんじゃないだろうか。

どう生きたって苦しいのなら、やりたいことのために苦しんだ方がましじゃないだろうか。

そう考えたとき、もう燃え尽きたと思っていた魂が熱を帯びて、それからはもう止まりませんでした。

そうして書き上げた『ドミノ倒れ』で、私は商業作家デビューを果たしました。

これまで学術書などを出版していた出版社から、初の小説として刊行していただきました。出版が決まったとき、すべてが報われたような達成感と、自分にも何かができるかもしれないという希望を感じました。

一人でも多くの人に立ち上がってほしい。“自分自身の性質”を保ったまま社会で活躍してほしい。どんな性質だって、活躍できる社会は必ずあるのだから。

そんな願いを込めたこの小説が、求められる人の手に渡ることを心から願っています。

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