胡錦濤の大番頭・令計画を失脚させた「2つの大スキャンダル」

胡錦濤総書記の大管家(大番頭)として活躍し、11月8日に開幕する第18回中国共産党全国代表大会(第18回党大会=18大)での政治局員昇格も噂されていた令計画・前党中央弁公庁主任(書記局員)が失速した内幕が明らかになった。

胡錦濤総書記の大管家(大番頭)として活躍し、11月8日に開幕する第18回中国共産党全国代表大会(第18回党大会=18大)での政治局員昇格も噂されていた令計画・前党中央弁公庁主任(書記局員)が失速した内幕が明らかになった。

失脚した重慶市の薄熙来・前書記(前政治局員)問題処理の陣頭指揮を取り、その辣腕が注目を集めた令計画だが、極めて深刻な身内の不祥事が暴かれた。夏の北戴河会議では胡を支える政治基盤である共産主義青年団グループ(団派)の伸長を警戒する江沢民前総書記が胡の腹心(=令計画)のスキャンダルを厳しく批判、上海閥や長老、薄熙来を支持する党内左派に加え一部太子党も猛烈に突き上げた。令の後ろ盾だった胡総書記も、一歩退かざるをえなくなったという。

フェラーリ飲酒運転で事故死した息子

「令計画、党中央統一戦線工作部部長に転任」――9月1日、時期外れの人事異動発表に様々な憶測が乱れ飛んだ。同部長職は従来、政治局員ポストではなく、左遷とまではいえないが、栄達には程遠い。一時は統一戦線工作を重視する胡錦濤と次期トップの習近平・政治局常務委員が、18大で同部長職を政治局員ポストに格上げするのではないかとの解釈まで飛び交ったほど、唐突で意外な人事だった。だが党中枢の中堅幹部は「実質的な更迭」と明言、主な理由は2つと続けた。

薄熙来の職務を停止した3日後の3月18日早朝4時過ぎ、令計画の息子が某富豪から借りた高級外車フェラーリが北京市内第四環状路でスリップ事故を起こした。飲酒後、2席しかないフェラーリに3人が乗り込み、猛スピードで疾走した挙句、折からの降雪に車輪を取られ側壁と高架橋脚に激突、「車外に投げ出された3人は、いずれも全裸・半裸状態。シートベルトも外し、急ハンドルでバランスを失った自損事故だった」(同幹部)という。息子は即死、同乗していた2人の女性も1人は身体障害者と成り、もう1人はひどい火傷を負い夏に死亡したそうだ。

幹部が挙げる問題の1つは、既に現場で事故処理にあたっていた市交通管理局の係官や消防・救急隊を押し退け、「ほぼ1時間後」(同)に駆け付けた党中央弁公庁の高官や、同庁に属し要人警護を担当する党中央警衛局の高官、軍幹部らが遺留品や証拠を持ち去ったこと。警衛局スタッフが来る前に撮影された、焼けただれて大破したフェラーリの写真は、翌19日の「北京晩報」、「新京報」が掲載したが、1人死亡2人重傷とするのみで具体名には触れず。しかもこの報道は即日、党中央宣伝部からの指示で国内ネットから削除され、箝口令が敷かれた。写真を収めた記者のパソコンまで没収されたという。

令計画抜擢に反対する江らは、薄の身柄拘束の際にも動員した党中央警衛局を「令が私物化し、事故を揉み消そうとした」と糾弾、あたかも意趣返しかのように、職権乱用を非難された薄熙来と同じ「罪状」を突き付けた。

まさかの「一人っ子政策」違反

しかも駄目押しするかのように、令計画一家が「基本国策=一人っ子政策」に違反していたというもう1つのスキャンダルまで明らかになった。

令計画の本来の姓は「令狐」で、中国には少ない4文字姓名を避け、便宜上「令」と名乗っている。複数の幹部の話をまとめると、事故死したのは令計画の次男で、本名は令狐古。対外的には「古」と同じ発音の「谷」も使っていた。王子雲との仮名を名乗り、2011年に北京大学国際関係学院を卒業、同大学教育学院に研究生として通っていた。

次男というからには必然、長男も存在するという事実が、事故を機に一挙に広まった。長男、令狐剣と交遊する党中央の若手中堅幹部の1人によると「清華大学卒業後、北京市東城区政府に就職したが、今はほとんど出勤せず商売に奔走している」という。ちなみにこのクラスの高官子弟になると、「電話1本あれば全国あらゆる地域のプロジェクトに口利きするだけで巨万の富を手にできる」とか。

党は、基本国策に違反した幹部には、罰金ばかりか、昇進を遅らせたりストップさせたりするなどのペナルティーを科すと規定している。それにもかかわらず、党トップの最側近が、なんのお咎めもないまま基本国策に違反していたのである。

胡のダメージは最小限にとどまる

胡は「5月半ばまで令を守ろうと試みたが、胡が主導権を握ろうとしている令以外の人事にも響きかねない、あまりの波紋の大きさに断念せざるを得なくなった」と先の中堅幹部。1979年に共産主義青年団中央入りして以降、一貫して団や党の中枢を歩み地方経験の乏しい令計画の弱点を補うため、政治局員ポストの天津市書記に送り込むか、今回、政治局常務委員への昇格をほぼ固めた団派の重鎮、李源潮の後任として同じく政治局員ポストである党中央組織部部長に回す方向で根回ししていたが、すべて水泡に帰した。

1985年に、当時共青団トップの第一書記だった胡の秘書役に就き、最も信頼していた右腕=令計画の命運は一挙に暗転した。胡は夏の北戴河会議に備え、もう1つの時期外れの人事を急いだ。胡とも習近平とも良好な関係を築き、習近平政権の大管家に内定していた栗戦書・前貴州省書記が令の後を襲う人事を7月に前倒し、栗を党中央弁公庁常務副主任に就けると発表。暗に「令と栗の交代は胡・習の合意」とアピールしたのだった。

胡錦濤ペースで進んでいた人事構想に不満を募らせていた上海閥や左派が、国内報道よりさらに詳細な事故の状況や死傷者の情報を海外の華字サイトにリークしたのは「間違いない」と冒頭の中堅幹部ら複数の幹部は断言する。「(胡にとっては)苦渋の決断だったでしょう。それでも、早めに令を切った胡の判断は結果的に間違っていなかった」とする国務院の元高官は、「とりあえず胡へのダメージは最小限にとどまっている」と解説した。

藤田洋毅

ジャーナリスト

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(2012年11月7日フォーサイトより転載)

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