5年目を迎えた「3.11」(上):被災民が直面する「老々介護」の悲惨な現実

震災と原発事故は、地域経済・地域社会のシステムを根底から変えただけでなく、そこに住む人々の心の中をも別の色に染め変えてしまった。

東日本大震災から4年の節目が2日後に迫った3月9日。霧雨の降る福島県南相馬市の中心街が、最近見たことのないような人出でにぎわった。

地場の中堅建設業、石川建設工業の会長石川和夫氏の葬儀がこの日、市内の葬儀場で行われたのである。3月3日に死去した氏を送るために、県内外の同業者はもとより、南相馬市長、地元選出国会議員ら約600人が参列した。震災後は火の消えたようだった通りは久々に車であふれた。

太平洋戦争末期に創業者の父の後を継いでから、氏の率いる石川建設は南相馬と福島浜通りの歴史とともに歩んできた。戦後の復興、原子力発電所の誘致、バブル経済の栄華とその後の転落――今では、氏はそのすべてを知る唯一の生き証人だった。地域社会の相談役を務める長老を自他共に認め、戦争体験を交えて誇らしげにその人生を語って聞かせていたものだった。

その華やかな生き方は2011年3月11日を境に暗転した。氏の後を襲った石川俊・現社長は言う。

「あれから父はほとんど口をきかなくなり、毎日しかめっ面をして暮らすようになりました」

自分が造り上げた堤防や漁港、道路が津波の一撃で破壊された光景は何よりも和夫氏自身をたたきのめした。「経営者になってから70年、自分は一体何をやってきたのか」。時折、愚痴をこぼすようにもなった。

さらに、生まれてこの方、一度も離れたことのなかった南相馬から、放射能に追われ福島市への避難生活を強いられた体験も氏の気力を萎えさせた。かつては数々の修羅場をくぐり抜け、いわゆる「土建屋の親玉」と恐れられた氏の人格が、この時を境に変わってしまったのだ。

俊社長によると、「父にとっては戦争よりも震災、津波と原発事故の方がはるかに衝撃的なできごとだった」。それまではあらゆる決済に目を通していた会社の経営からもすべて手を引いてしまった。

折からの復興バブルで、年間10億円にすぎなかった会社の売り上げ規模はあっという間に40億円を超えた。しかし、そんな新しい世界を仕切っていく気力は和夫氏にはもうなかったという。

実際は、それまで進んでいた地域経済の凋落が、震災と原発事故で一気に露わになり、強気だった和夫氏もそれを認めざるをえなくなったのだろう。「父は、震災で自分のすべてが否定されたように感じたのでしょう。それからはものごとを判断する基準がなくなってしまったようなのです」。

坂を転がり落ちるように衰えていったそれからの4年間だった。

享年88。晩年の和夫氏の目には、一生をそこで闘った南相馬の前途に茨の道が横たわっているのが見えたのかもしれない。

「浪江に帰りたい」

震災と原発事故は、地域経済・地域社会のシステムを根底から変えただけでなく、そこに住む人々の心の中をも別の色に染め変えてしまった。時代が変わり、人が変わり、日本が変わったのである。

歴史が激動するとき、その流れは、常に弱者に厳しく襲いかかる。ことが起きたときに、まず冷たい風にさらされるのは弱者である。鎖は弱い輪からほころぶ。和夫氏とて例外ではなかった。

地域社会でも家族の中でも、最も弱い立場にいるのは老人だ。老人は、現実に対応できない自分の限界を身をもって知ってしまうから、自ら崩れていく。

地位も金も権力も手にした石川和夫氏も、大震災にあらがうことはできなかった。まして、何も持たない多くの「普通の老人」の場合、運命は残酷だ。

原発事故による放射能汚染のために、住民すべてが避難生活を強いられている浪江町は、隣の二本松市に役場ごと移転して仮住まいを続けている。住民の東京電力に対する損害賠償請求などの窓口になっている同町産業・賠償対策課で、60歳の男性Kさんに出会った。匿名を条件に彼が語ってくれた被災後の生活は、今、日本で進んでいる被災地切り捨てが、現場で老人にしわ寄せされていく事実を物語って壮絶だった。

原発から7キロの場所に住んでいたKさんは、事故後に避難を求められて、老いた両親と共に、娘の婚約者を頼って大阪に移り住んだ。

慣れぬ土地で、まず母親がたちまち体調を崩した。「大阪の人たちはとても親切だったのだけど」とKさんは言うが、「ストレスが原因の血液の病気」と診断された母は入退院を繰り返すようになる。一方、浪江で建築設計会社を経営していたKさんは、事業再開に向けて、大阪と二本松の間を往復する生活を迫られるようになっていた。会社には7人の従業員がいて、彼らの生活もKさんにかかっていた。

面倒をみる十分な時間がないままに、母が亡くなったのはその年の暮れだった。残された父が車いす生活になるのに、さほど時間がかからなかった。大阪に移った頃には元気に自転車を乗り回していた父は、借り上げのアパートで寝込みがちになり、「浪江に帰りたい」と繰り返すようになった。

もはや限界だった。Kさんは2012年、父をつれて二本松市に移った。しかし、既に遅かったのだろう。父はさらに弱っていき、翌春、故郷浪江への思いを訴えながら息を引き取った。

死が"伝染"する。「不幸の連鎖」である。

「東電に何とかする道はないのか、と言ったら、上司に伝えておきます、という答えが返ってきた」とKさん。不幸の連鎖を強者は分かち合ってはくれない。

「疲れました」とつぶやくKさんの話を聞いて、横にいた産業・賠償課の女性職員が大粒の涙をこぼした。

浪江にあるKさんの自宅は被災当時、まだ建ててから6年しかたっていなかった。住宅ローンも残っている。「原発の廃炉には40年かかるというから、どうせ住むことはできない」。

将来、仕事をやめたらどこか暖かい土地で暮らしたい、と言うKさんだが、それでも、この家を手放したり壊したりする気にはなれないのだという。「たまに様子を見にあそこに帰ると、なぜか気持ちが落ち着くんだよね。親のことを思い出すからだろうな」。

両親があれほど帰りたがった家。今はたった1人の悲しい"別荘"になってしまった。

すべてが老妻の肩に......

五十崎栄子さん(66)も不幸の連鎖の中にいた。やはり浪江町、原発から8キロほどの場所にあった自宅から、事故直後に夫の喜一さん(当時68)、義母のシズイさん(当時88)の3人で郡山市に避難したときには事態の深刻さに思いがいたらなかったが、シズイさんに認知症の兆候が出たときに、栄子さんは初めて前途に暗い影を感じた。シズイさんの徘徊が始まった。

弱い立場の人々は、限界までがんばるから、いつも手遅れになる。一家は二本松市に引っ越した。それらのことが喜一さんに、どれほどの負担になったのかは、今となっては分からない。震災から4カ月しか経ていない7月下旬。喜一さんは自らの命を断った。2年後、さらに喜一さんの弟、昭次さんが脳出血で倒れ、寝たきりの生活になった。すべてが栄子さんの肩にかかってきた。

シズイさんは昨年末に亡くなった。91歳だった。昭次さんは今も入院生活を送っている。

4年で人口2500人減

Kさん一家も五十崎さん一家も、究極の「老々介護世帯」である。誰も助けてくれない老人世帯。

町の人口は、高齢化していく一方だ。震災当時の浪江町は人口2万1542人、平均年齢は46.5歳だった。今年2月末現在、それは1万9037人、49歳になった。わずか4年間で人口が2500人減って、2.5歳年をとったのである。

福島県のどの市町村も、状況は浪江町と大同小異である。若者は町を離れて戻ってこない。あてもなくさまよう老人を支えるのは身内の老人だけ。Kさんや五十崎さんのようなケースは年と共に急増していくに違いない。

「地方創生」のかけ声の下で進むこの現実。

某中央官庁の幹部が筆者につぶやいた。

「地方問題の究極の解決策は何もしないことですよ。そうすれば時間が解決してくれる。老人たちはいずれ死んでいくのだから」

その通りにことが進んでいるようにみえる。緩慢な死を早めたにすぎないという意味で、現実政治家にとっては震災と原発事故はすべて想定内のできごとだったのかもしれない。(つづく)

開通したものの車が少ない常磐自動車道、双葉町の第一原発付近。毎時5.4マイクロシーベルトという恐ろしい線量表示が目につく(筆者撮影)

吉野源太郎

ジャーナリスト、日本経済研究センター客員研究員。1943年生れ。東京大学文学部卒。67年日本経済新聞社入社。日経ビジネス副編集長、日経流通新聞編集長、編集局次長などを経て95年より論説委員。2006年3月より現職。デフレ経済の到来や道路公団改革の不充分さなどを的確に予言・指摘してきた。『西武事件』(日本経済新聞社)など著書多数。

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(2015年3月11日フォーサイトより転載)

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