【賀衛方・北京大学教授「独占」インタビュー】「習近平体制」の行き詰まりを物語る「劉暁波」の悲劇(下)--野嶋剛

中国の法治は党にコントロールされており、ルール・バイ・ロウにはなっていません。これは極めて明確に、現代中国の問題を物語っている部分です。

野嶋:鄧小平から江沢民、江沢民から胡錦濤、胡錦濤から習近平と、指導者が交代するごとに民主化や言論の自由が進むのではないかという期待が裏切られ、日本社会でも、中国の政治的な変化には悲観的な見方が強まっています。

賀衛方教授:胡錦濤と温家宝の政権になった2002年から2003年ごろは「胡温新政」と呼ばれ、民は大きく期待し、『南方周末』はシリーズで特集を組んで胡温新政へのエールを送り、私もこの連載に参画しました。言論の自由や司法制度の改革で変化が起きてほしいと期待しました。

しかし、今年「19大」が開かれるにあたり、中国の知識界は沈黙に包まれ、言葉は消えて、誰も何も語りません。当局に向かって物を言うのは恐ろしいことだとわかったからです。中国の古い言葉に「哀莫大于心死」というものがあります。いちばん悲しいのは心を持たずに生きることです。中国人の心はすでに死んだと言えるでしょう。これは最も悲しいことです。

野嶋:賀さんの目から見て、習近平はどんな人物でしょうか?

:彼の5年間の指導者経験を見てきた私の1つの判断として、彼にとって最も重要な基本目標は、共産党の1党支配体制の維持を将来も変更しない、ということであるとはっきりしています。暴力と圧力によって口をふさぎ、人々にしゃべらせないのです。しかし、そんな体制は自己改革によって過ちを正す能力を喪失していきます。このような統治方法は長く続くべきではありません。

野嶋:中国の経済発展が続けば、大部分の中国の民衆は暮らしを豊かにしてくれる共産党指導部をこれからも信用し続けるのでしょうか。

:そうした人もなかにはいるでしょう。実際、私が講演した(6月3日に早稲田大学で行ったシンポジウム)際にも、我々はあまりに欧米の言うところの民主主義を重視しすぎているのではないか、いまの中国共産党は世界第2位の経済大国に中国を導いた。

欧米各国でさまざまな問題が噴出しているなかで、欧米の理念を追い求めるのではなく、自由や民主を犠牲にしてでも民族が強くなり国家が強くなることを求めるべきではないか、という意見を言ってきた中国人の留学生数人がいました。このような意見が提起されることに、私は心を痛めました。

野嶋:賀さんはいまも北京大学で教えていますね。大学との問題は起きていませんか。

:はい、いまのところ北京大学の授業には影響は出ていません。ですが、ほかの大学に出かけて教える道は閉ざされています。

野嶋:北京大学から何か不満を言われることはありますか。

:ありますよ。今回、日本に来る前にも心配して声をかけてきました。北京大学はかなりピリピリしています。外部の圧力が強いからです。公的機関からの圧力もあれば、毛沢東崇拝者からの抗議も常にあります。「北京大学の党委員会はやるべきことをやっていない、さっさと賀とかいう反毛沢東、反共産党的な人物に毅然とした対応を取れ」という抗議です。彼らの圧力は非常に大きい。

ただ、私は北京大学で20年あまりも教えてきて、大学側にも温情はあります。彼らも内心ではじくじたるところはあるのでしょう。それに、私の過去の言論が中国社会での北京大学の信用を高めた面もあるかもしれません。彼らも苦しいのです。

共産党には明日がない

野嶋:天安門事件(1989年6月4日)から28年が経過しました。今日は偶然ですが、6月4日です。あの日はその後のあなたの人生を大きく変えたと思いますか。

:もちろん、もちろん、もちろん! あの事件は、我々の年代の人生にとてもとても大きな影響を与えました。永遠に逃れようのない、忘れようのない記憶です。私個人にとっても、いまの中国のイデオロギー、社会制度は、平和的な方法によっては社会の衝突を解決できないということを意識するようになり、政府は自らの過ちを認めることができず、自らの正当性を疑うことができないイデオロギーであると理解できたのです。

彼ら、つまり共産党は真理を独占し、民衆が立ち上がって抗議しても、彼らが過ちを認めることはありえません。政府に歯向かうすべての者は永遠に間違っており、共産党と中央政府は真理の化身であり、あらゆる正当性を一身にまとっている存在だと考えているからです。彼らは言論の自由や報道の自由を受け入れず、司法の独立も受け入れず、ましてや政党間の自由競争を認める多党制などありえないことなのです。

こんな状況で、この国は良好な法治、民主体制を作れるでしょうか。内心ではこれはもう終わったと思いました。フランシス・フクヤマが言うところの『The end of history』です。私にとっては、歴史が終わったと思いました。

実は、文化大革命のあと、中国共産党は多くの正しいことを行いました。毛沢東を否定し、大規模な名誉回復を行い、対外開放に踏み出し、国内でも改革を実行し、農民の自由は拡大され、大学の入試も復活し、我々は大学で学ぶ機会を持てました。

これらのことは、共産党の統治に大きな正当性を与え、みんなこの国家には希望があり、永遠に文革のような悲劇は起きないと信じることができたのです。しかし、天安門事件はこの正当性をひどく損なってしまいました。正当性が根こそぎ失われたのです。私たちは共産党には明日がない、これまでだと覚悟しました。

しかし、絶望はしながらも、できるだけ前向きに、中国は今後、より公正で独立した司法制度を作れないのか研究しようと考えました。もし難しいのなら、その理由はどこにあるのか。歴史的な要因というのは何なのか。私は純粋に西洋の法律を研究する立場から、より中国の現実の問題に注目することにしました。

ますます脅かされる「司法の独立」

野嶋:その後30年近くが経過し、あなたが唱えた中国の司法改革は何も実現しなかったのでしょうか。あるいは、何らかの進歩があったのでしょうか。

:進展はありました。例えば、法律従事者の専門化です。その比率がいい指標になります。1995年に初めて東京に行った時、司法研修制度を知りました。最高裁判所や司法研修所などを見学し、司法試験についても参考にしました。日本の司法制度に刺激を受け、中国に戻ってこのことを紹介する長い文章を書きました。その後も中国でこの日本式の制度を取り入れるべきだとする意見を発表し続け、とうとう1999年に中国政府は司法試験の導入を決めました。

20年前は、わずか10%ぐらいの裁判官が大学の法学部卒業で、残りの90%は退役軍人や退職公務員などの異なる背景の人々でした。今後時間が経過するほど、司法制度における法律家の割合は高まるでしょう。社会全体でも、解決できない問題に直面したとき、司法制度に頼ろうという意識が高まりました。司法制度の改善に向けて、これは大切なことだと思います。

しかし、もっともっと重要な問題がこの20年間、まったく解決を見ていません。それは「司法の独立」の問題です。中国の司法は今日に至っても本当の独立を実現していません。この状況を生んでいる最大の原因は、中国が社会主義国家であり、共産党が指導する国家であるからです。近年、この問題はどんどん深刻化しています。

習近平は江沢民や胡錦濤よりもさらに、中国は社会主義国家であり、共産党の指導を貫徹しなければならないことを強く意識する指導者のようです。過去の習近平体制のもとでの5年間は、中国の司法は弱体化し、裁判所も検察も、事件の処理にあたって党組織の意見を聞かなくてはならない状況に追い込まれました。

例えば、中国の各レベルの党組織のなかの「政法委員会」は、撤廃されるべき機関だと考えられてきました。しかし現在の政法委員会はますます活発になり、具体的な案件への関与や指揮を行う現象が深刻化しています。司法人員の専門化が進歩したとしても、司法の公正、独立が実現されなければ、一部の党幹部の意志が司法に反映されることになり、ますます司法の独立が脅かされる状況が続いていきます。

野嶋:実際、習近平が展開する反腐敗運動で捕まった一連の人々は、党の体制を通して捕まったのであり、最初は司法手続きで捕まえていないケースが多いですね。いわゆる「双規」という方法ですが、それが当たり前になっている。

:毎日のようにトラを叩いたり、ハエを叩いたりしていますが、ほとんどが最初は法律を用いてのことではなく、法律外の方法で行われています。まず、党の中央規律検査委員会がある人物に調査を行い、処分を決める。

規律検査委員会が処分の結果を公表し、その内容を検察院はすべて丸呑みです。規律検査委員会が、汚職の額は2000万元(約3億円)だと言えば、それがそのまま結論になる。

検察院はそのまま裁判所に起訴し、裁判所もその結論に「汚職は成立しない」とか「2000万元ではなく8000万元ではないのか」なんて言えません。実質的に判決を決めているのは裁判所ではないのです。

レッドラインを超えた「中国の法治」

野嶋:中国にはしっかりとした法体系があり、制度も整っているはずで、おっしゃるように司法界の人材も育ってきているのに残念なことですね。

:すべて司法に任せてしまったら、党の最高指導者はこの問題のすべてをコントロールできなくなります。それは反腐敗闘争に権力闘争が絡んでいるからです。これは、我々が信じさせられている反腐敗闘争とは違っています。指導者による選択的な意図を持って行われている政治闘争なのです。

党中央だけではなく、地方レベルにも同じ問題が起きています。省委員会の書記がある人物を気に食わないとなると、省の党紀律委員会を使って攻撃し、司法機関に裁かせてしまう。

これは政治闘争であり、反腐敗ではありませんが、外部の者には反腐敗というイメージをもたせているのです。習近平は必死に憲法の権威を強調しており、「すべての権力を制度のカゴに入れるべきだ(把权力关进制度的笼子里)」とも言っています。

確かに中華人民共和国の憲法と中国共産党の党規約は極めて明確に、いかなる政党、組織、個人も憲法と法律の枠内で行動しなくてはならないと定めています。しかし現状は、司法制度が動きだす前に、党の規律検査委員会が人身の自由を制限してしまいます。それが有名な「双規」なのです。

規律検査委員会は1人の官僚、1人の公民の高度の自由を短くても数カ月、長ければ数年間も制限します。この状況は明らかに法の範疇を超えており、法治のレッドラインを超えています。中国の法治は党にコントロールされており、ルール・バイ・ロウにはなっていません。これは極めて明確に、現代中国の問題を物語っている部分です。

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野嶋剛

1968年生れ。ジャーナリスト。上智大学新聞学科卒。大学在学中に香港中文大学に留学。92年朝日新聞社入社後、佐賀支局、中国・アモイ大学留学、西部社会部を経て、シンガポール支局長や台北支局長として中国や台湾、アジア関連の報道に携わる。2016年4月からフリーに。著書に「イラク戦争従軍記」(朝日新聞社)、「ふたつの故宮博物院」(新潮選書)、「謎の名画・清明上河図」(勉誠出版)、「銀輪の巨人ジャイアント」(東洋経済新報社)、「ラスト・バタリオン 蒋介石と日本軍人たち」(講談社)、「認識・TAIWAN・電影 映画で知る台湾」(明石書店)、訳書に「チャイニーズ・ライフ」(明石書店)。

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(2017年7月24日フォーサイトより転載)

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