次代の香港を担う「陳智思」という男--樋泉克夫

次期行政長官の呼び声も。
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特別行政区とは言え、香港も中華人民共和国の一部である。それゆえ中国の国会に相当する全国人民代表大会(全人代)には36人の代表を送り込んでいる。2017年12月19日、香港では第13期全人代代表を選ぶ「代表選挙会議」が開催された。

名目上は香港の各界各層出身者とは言え、実体は香港の親中派によって構成されている同会議のメンバーは、1989人。このうち1796人が参加し、有効投票は1753票。49人の候補者のなかから選ばれた36人が、今年3月に北京で開催される全人代に参加することになる。

次期行政長官の呼び声も

今回の選挙では、やはり1693票という圧倒的多数票を獲得してトップ当選を果たした陳智思(バーナード・チャン=1965年生まれ)に注目したい。それというのも今回の選挙結果によって、彼が4年後の2022年に実施される特別行政区長官選挙の第1候補、という声が香港の親中派の間で高まる一方、習近平政権におけるASEAN(東南アジア諸国連合)華人関係の今後を考えるうえでのキーパーソンに躍り出たことを暗示しているからだ。

彼が昨年春の長官選挙で当選を果たした林鄭月娥(キャリー・ラム)陣営の選挙弁公室主任(日本風に表現するなら選対本部長)を務め、林鄭政権(特区行政会議)発足後は「行政会議召集人(閣議取りまとめ役)」として同政権を支え、昨年8月に林鄭行政長官がシンガポール、タイを訪問した際には同行もしている。まさに林鄭長官の後見人といった立場にある。

数々の公職を歴任していることから「公職王」とも呼ばれ、現在は香港社会服務聯会、活化已修復堆填区資助計画督導委員会、降低植物中塩和糖委員会などで主席を務めている。

ビジネス面では、父親の陳有慶(ロビン・チャン)の後継者として家業の「亜洲金融集団」と「亜洲保険有限公司」で総裁を務めている。父親は全人代香港地区代表を第7期~10期(1988~2008年)まで務めていた。陳智思は父親と交代するかのように第11期(2008年)から全人代香港地区代表に選ばれており、今13期が連続3期目となる。全人代香港地区代表の世襲化とも言えそうだが、それほどまでに中央政府が陳一族を重視しているとも言えるだろう。

祖父の先行投資が築いた華人人脈

「チャーンワット・ソーポンパニット」というタイの名前をもっていることからも容易に類推できるように、彼はタイ最大の商業銀行である「バンコク銀行」を経営するソーポンパニット(陳)一族の一員でもある。

祖父である陳弼臣(チン・ソーポンパニット)が香港に現れたのは1950年代半ば。タイの政治文化を象徴するクーデターによって権力を掌握したサリット・タナラット政権の追及を逃れるための、政治亡命であった。だがひっそりと亡命生活を送っているわけがない。同郷の潮州系企業家が大きな影響力を持っていた当時の香港で、地縁ネットワークをテコに金融ビジネスの拠点作りに着手したのである。

1934年創業の「香港汕頭銀行」を手中に収めて「香港商業銀行」として改組する一方、バンコク銀行の海外拠点作りにも励んだ。

5年で亡命生活を切り上げてバンコクに戻るが、サリット独裁政権の後継であるタノム・キッティカチョーン=プラパート・チャルサティエン軍事独裁政権と手を組んで、バンコク銀行を当時の東南アジア最大の商業銀行に大変貌させたのである。マレーシアの郭鶴年(ロバート・クオック)、インドネシアの林紹良(スドノ・サリム)など、後に東南アジアを代表することになる少なからざる華人企業家の成長を支えたのは、陳弼臣からの融資だったと言われる。彼の先行投資が郭や林を育てたとも言えるわけだ。

1980年代後半以降、バンコク銀行は次男である陳有漢(チャトリ・ソーポンパニット)が、現在では陳智思と同じ、陳弼臣から数えて3代目の陳智深(チャトシリ・ソーポンパニット)が引き継いでいる。

北京政府との太いパイプ

陳弼臣がバンコクに戻った後の香港を任されたのが、長男の陳有慶である。彼は父親の影響力を十二分に活用し、日本の東海銀行などからの出資を得て亜洲金融集団を築きあげる一方、潮州系企業家ネットワークを基盤にして香港最有力企業家団体の1つである「香港中華總商会」を、会長として長年取り仕切った。

一般には物わかりのいいことから「好好先生(ホウホウ・シンサン)」とも呼ばれる陳有慶だが、ビジネス面では積極的にリスクを取ることでも知られる。1975年というから毛沢東の死の1年前で「四人組」(中国の文化大革命を主導した江青、張春橋、姚文元、王洪文)の絶頂期でもあった時、香港の中小銀行経営者を組織した「香港金融人士旅行団」を引き連れて、北京、上海、南京、無錫、蘇州などの視察に向かっている。

当時は全土で「四人組」が猛威を振るっていたとは言え、おそらくは長い文革に中国全土が疲れ切っていたに違いない。であればこそ単なる物見遊山の旅ではなく、陳弼臣譲りのDNAが中国相手の「風険投資(ハイリスク・ハイリターン)」に向かわせたのだろう。この旅行で、行き詰まった中国には対外開放の選択肢しかないと読んだのかもしれない。

以後、陳有慶は中国中央政府に足場を築く。全人代香港地区代表を務める一方、同大会華僑委員会顧問に納まって中央政府の華人政策の一翼を担うこととなる。1990年代半ば以降、香港返還での中国政府主導の作業に積極的にかかわるだけではなく、新聞辞令ながら返還後の初代行政長官の有力候補に名前を連ねてもいた。

「一帯一路」の「首都」の舵取りを

香港返還前後以降の30年余りの東南アジア華人企業家に対する対応から判断して、中国政府が殊に陳一族を重視してきたフシが窺える。それはバンコク銀行のタイ内外に対する政治・経済的影響力はもちろんだが、陳一族の持つタイ王室、わけても国民的支持の高いシリントーン王女との繋がりも背景にあるのではなかろうか。かつてインタビューした際、陳智思は「同王女の香港滞在時の案内役は自分が務めている」と語っていた。

金融業を家業とする陳一族に生まれながら、米カリフォルニアのポモナ・カレッジで芸術を学ぶという一風変わった経歴を持つ陳智思だが、祖父から父に引き継がれたDNAは健在だった。彼もまた香港の中小金融業者を束ねる一方、香港返還翌年の1998年に保険業界代表として立法会(議会)に参画したことをキッカケに、初代の董建華政権以来、歴代政権の中枢で重要ポストを歴任してきた。

親中派、民主派、一般市民からの支持に加え、父親譲りの中央政府とのパイプは今後さらに太くなることが十分に予想される。加えるにタイ王室との結びつきである。習近平政権としても、東南アジアへの「一帯一路」の展開を見据えるなら、東南アジア華人社会の「首都」の機能を持つ香港を任せるに彼ほど相応しい人材はないだろう。一時取りざたされた健康問題も、現在では払拭されたようだ。(樋泉 克夫)

樋泉克夫 愛知県立大学名誉教授。1947年生れ。香港中文大学新亜研究所、中央大学大学院博士課程を経て、外務省専門調査員として在タイ日本大使館勤務(83―85年、88―92年)。98年から愛知県立大学教授を務め、2011年から2017年4月まで愛知大学教授。『「死体」が語る中国文化』(新潮選書)のほか、華僑・華人論、京劇史に関する著書・論文多数。

(2018年1月22日
より転載)
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