「幸せの国」ブータン留学生の「不幸せ」な実態(1)首相懇談会で飛んだ怒号--出井康博

次々と日本へ渡る学生たちが引っかかった罠
Getty Images/iStockphoto

東京の気温が20度近くまで上がり、春らしさが増していた今年4月10日午後――。東京・日比谷の帝国ホテルで、ブータンから来日中のツェリン・トブゲイ首相と在日ブータン人留学生との懇談会が開かれていた。

会場となった「桜の間」では、この日の夕方、日本政府関係者も出席しての首相歓迎会がある。トブゲイ首相は翌11日、安倍晋三首相との会談も控えていた。そんな多忙な日程を縫い、首相が留学生たちと会ったのには理由がある。ブータン政府にとって日本への留学生送り出しは、2017年から進める国策なのである。

ブータン労働人材省が主導するプログラムのもと、昨年春から735人のブータン人留学生が来日し、日本語学校に入学した。ブータンは人口80万人足らずの小国だ。ブータン人留学生の数は、人口比で見れば日本への「留学ブーム」に沸くベトナムにも匹敵する。

「桜の間」には、100人近い留学生たちが集っていた。彼らに向かい、ブータンの民族衣装に身を包んだトブゲイ首相から激励のスピーチがなされた。本来であれば、形式に沿って静かに終わる会である。しかし、会場から首相に飛んだ発言で空気が一変した。

「留学生たちは皆、日本で大変な苦労をしています。ブータンで背負った多額の借金を返済するためアルバイトに追われ、勉強どころではありません。進学はおろか、来年の日本語学校の学費さえ払えない状況なのです」

英語で発言したのは、民族衣装の中年女性だった。会場の留学生から、少し遠慮がちに拍手が巻き起こる。

「留学を斡旋しているブローカーは、日本語学校から斡旋料を得ていて......」

女性がそこまで話したところで、壇上脇にいたブータン人男性が女性に対し、声を荒げ怒鳴った。

「あなたは何者なんだ!どんな資格で会に参加しているのか!」

首相まで出席した会だというのに、会場は異様な空気に包まれた。留学生たちも男性の剣幕に呆気にとられている。

「幸せの国」として知られるブータンから、国の期待を担い留学生として送り出された若者たち――。日本で彼らに、いったい何が起きているのか。

日本語勉強の時間もなく

日本が受け入れた外国人留学生の数は2017年末時点で31万1505人に上り、前年から12%以上増えた。政府が2008年から進めてきた「留学生30万人計画」も、策定から10年で、目標の2020年を前に達成されたわけだ。

ただし同計画の達成は、多額の借金を背負い、出稼ぎ目的で入国する"偽装留学生"が急増した結果である。彼らは本来、留学ビザの発給が認められていない。しかし、留学生を増やし、彼らを労働力として利用する思惑から、政府は経済力のない外国人にまでビザを発給し続けている。つまり同計画は、政府ぐるみのインチキによって達成されたと言える。

留学生の増加は止まる気配がない。"偽装留学生"の送り出し大国となったベトナムやネパールに加え、最近では他のアジア新興国でも日本への「留学ブーム」が起き始めている。その1つが「ブータン」なのである。

ブータンの首都ティンプー出身のドルジ君(仮名・20代)は昨年、東京近郊の日本語学校の留学生として来日した。初年度の学費など留学費用の70万ニュルタム(約115万円)を借金してのことだ。20代の大卒給与が月3万円程度というブータンでは、かなりの大金である。

留学ビザの取得には、アルバイトなしで留学生活を送れる経費支弁能力が求められる。しかしドルジ君の家族には、そんな経済力はない。支弁能力があるよう見せかけるため、預金残高や収入をでっち上げた書類は、ブータンの留学斡旋ブローカーが準備した。

来日後は、2つのアルバイトをかけ持ちし、留学生のアルバイトとして認められる「週28時間以内」に違反して働いている。留学のために背負う多額の借金、でっち上げの数字が記された書類でビザを得るやり方、また法定上限を超える就労など、ドルジ君は典型的な"偽装留学生"のように映る。

だが、ベトナムなどの多くの"偽装留学生"とドルジ君には違いがある。彼はブータンの一流大学を卒業したエリートなのだ。

「日本に留学したのは、大学院に進学したかったからです。ブローカーからは、日本語学校を修了すれば、大学院に入学できると説明を受けました。進学しない場合も、簡単に仕事は見つかる、と。でも、すべて嘘だった」

ブータンの公用語はゾンカ語だが、小学校から英語が教えられている。ドルジ君も英語での会話に不自由はない。

彼は日本語学校に通う傍ら、ホテルで掃除のアルバイトをしている。午前中は週6日のペースで働いた後、午後から授業に出席する。加えて週3~4日、コンビニ弁当の製造工場で夜勤に就く。夜勤のある日は、ほとんど睡眠時間もない。

「体力的にきついです。日本語を勉強したくても、時間がありません」

ドルジ君の表情は、憔悴しきっていた。ブータンにいた頃の写真を見ると精悍で、別人のように生き生きとしている。日本に来て数カ月で、体重も5キロ以上減ったという。

ブータン人留学生の多くが、ドルジ君と似た生活を強いられている。母国の首相に対し、苦境を訴えたくなるのも当然だ。

ブローカーの甘い言葉に騙されて日本へ留学するというパターンは、ベトナムなどでも「留学ブーム」の初期に見られた。彼が日本へ留学した経緯を詳しく振り返ってみよう。

甘い罠だらけの「契約書」

ドルジ君が日本留学のチャンスがあると知ったのは、来日1年近く前、友人からの情報だった。その頃、大学卒業を間近に控え、彼は進路について悩んでいた。

「ブータンで公務員になる道もありました。だけど、僕はもっと勉強したかった。金銭面で余裕のあるブータン人には、大学院からオーストラリアに行くケースもある。しかし僕には無理でした。そんなとき、日本へ行けば大学院に進学できると聞き、説明会に参加したのです」

説明会を開いたのは、「ブータン・エンプロイメント・オーバーシーズ」(BEO)という留学斡旋会社である。BEOについては後に詳しく述べるが、日本に住んだ経験を活かし、日本人旅行者の現地ガイドなどをしていたブータン人男性が設立した会社だ。

ドルジ君ら数名のブータン人留学生によれば、BEOの担当者からこんな説明があったという。

「日本に行けば、留学中でもブータンでは考えられないほどの大金を稼げる。留学生は週28時間までしか働けないという法律はあるが、違反して働くことは難しくない。ブータンではプラスチック製品の輸入や使用が制限されているが、国内には溢れているだろう(それと同じで、日本の法律にも建前と本音がある)。留学費用の借金だって短期間で返済できる」

「ブータンで大学を卒業した人は、日本語学校を修了すれば大学院にも進学できる。進学せずに就職したければ、日本側のエージェントが仕事を斡旋してくれる」

多くのブータン人にとって日本は憧れの国だ。その日本で専門的な仕事に就けると考え、ドルジ君は夢を膨らませた。そして彼は、BEOが用意した契約書にサインする。そこには次のような文言が載っている。

〈(日本での)学費と生活費は、BEOの日本代理人であるライト・パス社(Light Path Co.)が斡旋するアルバイトで賄われる。(アルバイトを通じ)候補者(留学生)は最低でも年収111万ニュルタム(約180万円)が得られる。希望者は(大学院への)進学も可能。〉

〈日本語学校を修了後、ライト・パス社は大卒者に対し、正社員としての仕事を斡旋する。その際の年収は、各人の技能、経験、実績、勤務態度によって最低150万ニュルタム(約243万円)から最高300万ニュルタム(約486万円)となる。〉

留学中に得られるという年収「約180万円」は、月収に直せば約15万円である。「週28時間以内」で働いたとして、最低でも時給1200円程度のアルバイトに就く必要がある。日本語に不自由な外国人の場合、賃金が割り増しになる夜勤の肉体労働をしても稼ぐのが困難な金額だが、アルバイトの内容についての説明は一切ない

一方、大卒者は日本語学校を修了すれば就職先が斡旋されるとし、やはり具体的な年収額まで書いてある。ただし、就職や進学に必要な日本語能力などは示されていない。

普通に考えれば、いかにも怪しい話である。しかし、現地の若者には日本に関する知識がない。そしてBEOは、労働人材省から免許を得ていている歴とした業者である。契約書にも、同省のお墨付きを証明する言葉があった。

〈ブータン労働人材省が、渡航前の語学研修費用は負担する。〉

同省はBEOと組み、2017年4月から「The Learn and Earn Program」(学び・稼ぐプログラム)という制度を始めていた。日本側の日本語学校の入学時期である4月、7月、10月にブータンから留学生を送り出す。その名のとおり、日本で「稼ぐ」ことを前提にしたプログラムである。(つづく)

出井康博 1965年岡山県生れ。早稲田大学政治経済学部卒。英字紙『THE NIKKEI WEEKLY』記者を経てフリージャーナリストに。月刊誌、週刊誌などで旺盛な執筆活動を行なう。主著に、政界の一大勢力となったグループの本質に迫った『松下政経塾とは何か』(新潮新書)、『年金夫婦の海外移住』(小学館)、『黒人に最も愛され、FBIに最も恐れられた日本人』(講談社+α文庫)、本誌連載に大幅加筆した『長寿大国の虚構 外国人介護士の現場を追う』(新潮社)、『民主党代議士の作られ方』(新潮新書)、『襤褸(らんる)の旗 松下政経塾の研究』(飛鳥新社)。最新刊は『ルポ ニッポン絶望工場』(講談社+α新書)。

関連記事
(2018年8月27日
より転載)

注目記事