【ブックハンティング】「経済学者は開戦に反対した」神話の「嘘」--片山杜秀

私たちは本書によって、またひとつ軍人に罪をなすりつける根拠を失った。

アメリカは大金持ちだ。そんな国となぜ戦争を始めてしまったのか。近代戦は、家伝来の刀や槍を持ち出して「ちょっと戦をしてきます」というわけには行かない。国力を傾注して軍艦や飛行機を作り続けなければならない。物資で敵国を凌駕できずにどうして勝てようか。真面目に考えればアメリカには負けるんじゃないか。首都が焼け野原になり、広島や長崎に原爆が落ちてから、初めて分かることではない。当時の日本人にはアメリカの文化もかなり染みていた。アメリカの映画を観、アメリカの音楽を聴き、貧しさに耐えかねてアメリカに移民もする。大正、昭和と、そうやってきた。かの国のとてつもなさは常識があれば誰でも知っていた。

でも、どんな大国にも弱点はある。戦争には不可測な要素もある。もしかして勝てるかもしれないと思った。だが、やっぱり負けた。ずいぶん頑張ったが常識は打ち破れなかった。だから、鈴木貫太郎戦争終結内閣を受けた東久邇宮稔彦敗戦処理内閣は、あたりまえのように「1億総懺悔」と言った。国民全員が馬鹿だったので真面目に合理的に考えられなかった。一抹の希望的観測に懸けて「もしかしてもしかするかもシンドローム」に包まれていた。ならば責任は国民すべてにある。「総懺悔」しかない。

軍人を恨んで「総懺悔」の免罪符

だが、そこは日本人も人間だ。自分は悪くなく馬鹿でもなかったと少しでも思いたい。「1億総懺悔」は戦後日本人のコンセンサスに育たなかった。ただちに修正された。たとえば「大本営発表」である。陸海軍がデタラメな発表をし続けたせいで、国民は正しい情報に触れられず、本来有している合理的判断力を発揮できなかった。騙されていたのだ。懺悔は悔恨に化けた。自分が悪かったと悔いるのではなく、他人のせいで悔いが残ったと、とにかく恨む。そうして成立したのが戦後日本人の悔恨というものだ。

恨みの対象はむろん軍人。アメリカと戦争をしてしまう非合理な選択の責任を、ひとえに軍に帰そうとする。その証拠に、戦争の時代に表舞台に立っていた政党政治家や官僚が戦後に総理大臣になっても、おかしいという声は輿論にならなかった。鳩山一郎や岸信介である。彼らは軍人ではなかったのだから。非合理な軍人をはじくと、残る多数の日本人は合理的で、合理的な日本人はもしも正しい情報を得て軍人以上の発言力を確保できていれば、アメリカと戦争するはずはなかったのだ。この理屈が戦後日本の顕教だろう。要するに、戦後日本では、戦争協力者の謗りを免れぬはずの人々も、何らかの方法で合理的な範疇に自らを救い出し、そのことをアピールすれば、戦後の表舞台に生き残る免罪符を得られたということである。

そこに数々の「作り話」が生まれたと思う。「作り話」の筋をうまく通せるのはやはり頭のいい学者・知識人だ。彼らは「戦後的神話」を創造し、流布させた。たとえば「秋丸機関神話」。日中戦争開始以降、日本でも総力戦体制作りが推進された。経済学者たちも様々な戦時研究に動員された。陸軍省では「秋丸機関」と呼ばれる「極秘組織」が結成され、そこには経済学者も多数参加した。

捏造された「秋丸機関神話」

「秋丸機関」の目的は日本や同盟国ドイツ、そして敵国と想定されるアメリカやイギリスやソ連の戦争継続能力を測定し、もしものときの日本の勝ち目を算定すること。そうして出来上がった「極秘レポート」は、「日本に勝ち目まったくなし」と明確かつ合理的に主張する内容であったので、「非合理な陸軍首脳部」の逆鱗に触れ、すべて焼却されて一部も遺されず、「学者知識人の合理的判断」が「軍人の非合理的判断」に押し潰された端的事例となり、そこに生まれた悔恨は実に巨大であった。もしも「秋丸機関」の報告が合理的に受け取られていたら、日本は対米戦争を回避できたのに!

だが、牧野邦昭氏は著書『経済学者たちの日米開戦―:秋丸機関「幻の報告書」の謎を解く―』(新潮選書)で、この神話をほとんど完膚なきまでに粉砕しきる。そもそも、すべて焼却されて何も残っていないはずの「極秘レポート」が著者の「新発見」を含めてかなり残っている。つまり逆鱗に触れて抹殺されたわけでは本当はないのだろう。

その内容も、仮想敵国との圧倒的な国力の差を認識しながら、敵の弱点を希望的に観測し算定することで「もしかしてもしかするかもシンドローム」の形成に寄与する部分がかなりある。戦争回避以外の選択肢が無いというレポートには読めない。

しかも、このレポートが同時代的に特別な尖鋭さや深さを有するわけではない。大筋においては当時の論壇誌で誰でも読めるような国際情勢や国力比較についての分析と違わない。結局「秋丸機関神話」とは、「機関」に関係した学者たちが戦後に生き長らえるために積極的ないし消極的に捏造した「嘘」なのだろう。その「嘘」が、軍に「非合理」を押しつけ、自らを「合理」に囲い込みたい戦後日本人の心性にもマッチしたのだろう。

私たちは本書によって、またひとつ軍人に罪をなすりつける根拠を失った。軍人も学者も知識人も似たようなものだった。彼我の国富の差をそれなりに合理的に認識しながら、敵の弱点を過大に評価し、イチかバチかの博打に手を出した。「軍人の非合理vs.軍人以外の合理」という物差しはもう古い。問題は、それなりにみなが危ないと分かっていた選択をどうしてみなでしたのか、ということにこそあろう。本書のタイトルは『経済学者たちの日米開戦』だが、同様のことは政治学者にも哲学者にも理工学者にも言える。「○○学者たちの日米開戦シリーズ」があっていい。一億総懺悔に立ち返る視点を育て、日本人全体の理性を疑ってかかるのが正しいだろう。他人を恨む前に我が身を悔いよ。

片山杜秀 慶応義塾大学法学部教授。1963年生まれ。思想史研究者、音楽評論家。慶応義塾大学法学部政治学科卒業、同大大学院法学研究科博士課程単位取得退学。著書に『音盤考現学』『音楽博物誌』(いずれもアルテスパブリッシング、吉田秀和賞・サントリー学芸賞受賞)、『ゴジラと日の丸』(文藝春秋)、『近代日本の右翼思想』(講談社選書メチエ)、『未完のファシズム』(新潮選書、司馬遼太郎賞受賞)、『国の死に方』(新潮新書)など多数。

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(2018年7月11日
より転載)

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