ブラジルからの声――日本は誇らしい祖国たりえているか--北岡伸一

日本人が内向きになりがちな昨今、日本人が持っている可能性を、過去、現在、未来にわたって考えてみたい。

私は国連大使時代(2004〜2006)、月刊誌の頃の『フォーサイト』に「イーストリヴァーを見渡す書斎にて」というコラムを連載していた。国連という世界の外交のホットスポットで見聞きしたことや考えたことを、毎月1度、書いていた。日本外交は私の研究対象ではあったが、現場の経験は初めてで、これを読者に伝えることは、学者出身の大使の責任のように思えた。

現在私はJICA(国際協力機構)の理事長を務めている。国連大使のあと、東京大学に戻り、政策研究大学院大学に移り、国際大学の学長を兼ねたあと、2015年10月に任命された。9年ぶりにまた実務の世界に戻ったわけであるが、国連大使時代にも途上国の問題が多かったから、その頃の続きのような面も多い。

JICAの仕事は言うまでもなく途上国の発展の支援である。それゆえ、月に1回は海外出張をしている。大学教授時代と頻度はあまり変わらないが、今は、交通不便であまり人の行かない国への出張が多い。

しかし行ってみると、そこで働くJICAの職員がおり、彼らと協力してくれている現地のスタッフがおり、現地の人々がいる。また、かつてそこにいた日本人の足跡にも触れることになる。

これから、そういう世界の辺境ないし遠隔の地で働いている、あるいは働いていた日本人を紹介したいと思う。また相手国の日本に対する認識にも触れてみたい。JICAの理事長になる前の海外での経験も織り込むつもりである。日本人が内向きになりがちな昨今、日本人が持っている可能性を、過去、現在、未来にわたって考えてみたい。それが、この連載を「日本人のフロンティア」と名付けた理由である。

2人のブラジル日系人

今年の2月、アルゼンチンとブラジルに出張した。日本人移住者の支援は、JICAの仕事の1つである。アルゼンチンはもちろん、ブラジルも卒業移行国(中進国を超える所得水準の開発途上国)であり、必ずしも途上国というわけではないが、JICAは事務所を置き、移住者支援を含む様々な活動をしている。今回はとくに日本と関係の深いブラジルのことを書いてみたい。

私はこれまでブラジルには1度しか行ったことがないのだが、ブラジルとの縁は1973年の秋に始まる。

東大の大学院で博士課程に進んだばかりだった私は、ある先生から、今度、ブラジル政府が、日本専門家を養成したいと考えて2人の日系人を送ってくるので、つきあってほしいと頼まれた。1人は国際法研究者の二宮正人さん、もう1人は外交官で、エドムンド・フジタさんだった。私はフジタさんの日本語のチューターをすることとなった。

二宮さんは博士号を取得し、帰国してサンパウロ大学の教授になり、また弁護士としても活動しておられる。当時、東大の大学院の法学政治学研究科で博士号をとるのは、とくに外国人にとってはものすごく難しかった。何しろ日本の法律の基礎になった英米仏独の法律のことを調べ上げてから、日本について論じることを期待されていたからである。漢字文化圏である中国、台湾、韓国以外の外国人で博士号をとったのは、二宮さんが最初だったと思う。その後の二宮さんは大活躍で、日本とブラジルとの重要な問題で、二宮さんの世話にならない人はないくらいだ。

一方のフジタさんは外交官として昇進を続け、アジア局長になり、インドネシア大使、そして韓国の大使になった。ところが、昨年、ガンで亡くなってしまった。ぜひお悔やみに行きたいと思っていた。今回の出張ではサンパウロの二宮さんのご自宅に招かれ、フジタさんの奥さんも来てくれて、お悔やみをいうことができた。二宮さんは日本にいたのに、私の視察を案内すると言って、わざわざブラジルに戻って、1週間も同行してくれた。

今回の出張では、JICAの現場の仕事を視察するだけでなく、日系人支援を今後どう進めるかという問題意識が根底にあった。かつてはJICAの支援は「移住者」支援であった。まもなく、「日系人」支援となったが、日系人の高齢化や世代交代に伴い、「日系」性は弱まっていく。今後の支援をどうすべきか、という問題である。

日本人移民の歴史

日本人ブラジル移民の歴史は1908年(明治41年)、第1回契約移民781名を乗せた笠戸丸がサントス港に到着したことに始まる。以後、約26万人の移民がやってきた。現在では日系人は約191万人と言われており、ブラジルの人口の0.6%に相当するが、日系人の定義がもはや難しく、厳密な数字はわからない。

明治期の日本人移民の主な行き先はアメリカだった。しかし日本人移民排斥が激しくなり、中南米に新たな行き先を求めたわけである。日本人移民は過酷で劣悪な生活環境と労働条件を乗り越えて、ブラジルに定着した。1930年代には、しかし、アメリカの圧力で、日本人に対する圧迫が加わるようになった。戦争が終わったとき、日本は勝ったと信じる「勝ち組」と、敗北を受け入れた「負け組」が対立するという悲劇もあった。

しかし移民はまた始まり、定着し、発展した。そして90年代から、これまでとは反対にブラジルから日本に労働者としてやってくる日系人が増え、ピークで30万人に達した。移民の流れは複雑な様相を呈したのである。

さて、今回最初に行ったのはサンパウロである。サンパウロ州が日系人の中心である。日系人はサンパウロ州の人口の2.5%だが、同州の最高学府であるサンパウロ大学の学生の16%は日系人と言われた。それほど教育熱心で優秀だったのである。サンパウロのあとは、サントスで初期の移民の歴史を偲んだ。

そのあとは、ブラジリアに行き、そこから足を延ばして、セラード開発の一端を見にいった。これは、ブラジルの広大な原野を開発し、世界最大の大豆生産地に変えた大事業で、世界でも20世紀農業の記念碑的成功と言われている。これについては、以上に留めておく。

日系人が活躍するアマゾンの学校、病院、農園

それからアマゾンに行った。アマゾンは、長さでは世界一、あるいはナイル川に次いで僅差の2位らしいが、流域面積は圧倒的な1位で、第2位のコンゴ川の2倍近くある。河口の広さは300キロないし500キロ(東京から名古屋あるいは大阪)、河口にある中州は九州より大きい。アマゾンの流量は、全世界の河川の25%、森林、地下水、湿原などを含めると、アマゾン流域にある水の量は、世界の河川の流域の水の合計の3分の2だという。ともかく想像を絶する巨大な河川である。

その河口に、ベレンという町がある。州都で人口は143万人、日本人と日系人があわせて3000人だという。昔はゴムで栄えたところで、1878年にオペラ・ハウスが建てられて、今もある。こんな遠くにヨーロッパからオペラを呼んできたのだから、とてつもない富があったのだろう(なお、1500キロさかのぼったマナウスには、1896年に完成したオペラ・ハウスがあり、アルゼンチンのブエノスアイレスには、1857年完成の有名なテアトロ・コロンがある。南米は本当に豊かなところだったのである)。

また、ベレンでは、アマゾニア日伯援護協会が運営するアマゾニア病院を訪ねた。医療分野における日系人の貢献は素晴らしい。医学は国境や人種を超える。日系人に医者になる人が多いのはそういうわけでもある。この分野のリーダーであるユージ・イクタ先生は、何度も日本にきて勉強された方で、やはり卓抜なリーダーシップの持ち主である。

ベレンでは越知学園という私立の学校(幼児教育から中学生まで)を訪問した。ここではポルトガル語とスペイン語と英語と日本語を教えている。特色は日本の躾である。学生は7割が非日本人である。授業料は安くないが、あの学校へいけばよい躾が身につけられるというので、信頼は絶大である。学園長の越知恭子先生のリーダーシップはたいしたものだと思う。この学校に、JICAはボランティアを派遣している。とても効果的である。

さらにベレンから260キロ離れたトメアスというところへ、ヘリコプターで行った。トメアスは、日本人が切り開いたところで、最初にやってきたのは189名、1929年のことだった。これほど離れたところに、よくやってきたものだと感嘆してしまう。当時は胡椒、最近はアサイーが人気で、農業、アグリビジネスで繁栄している。コミュニティの自治も、立派なものである。お世話になった日系のお家では、最近お嬢さんが日本に研修に行って、帰ったばかりで、一家はその話で盛り上がっていた。

多くの日系の方とお会いして、多大の苦難を乗り越えて立派に成功しておられることを嬉しく思うとともに、日本に対して語られる期待や賛辞に対し、我々はそれほど誇りうる日本を作り上げているだろうかと自問せざるを得なかった。自分の祖国はこんなに素晴らしいと、彼らがためらいなく言えるような、立派な日本を作っていかなければならないと、つくづく思った次第である。

絆を強化していくために

日系人とこれからどうかかわるべきか、私は次のように考えている。移住者であろうが、日系の2世、3世であろうが、「日系」性が弱まっていてもいなくても、そこに、日本に連なり、日本に好意を持つ多くの人がいるのである。ならば、日本人だろうがブラジル人だろうが、彼らを支援し、彼らと日本との絆を強化するべきだと思う。

ドナルド・キーン、ラモス瑠偉、C・W・ニコルなどといった人々は、いずれも日本国籍を取得しているが、かりに日本国籍を持っていなくても、日本人以上に日本人である。それと同様に、日本に関心と好意を持つブラジル人はみな日本人だと思えばいいのである。

その際には、彼らを日本に招き、また日本から人を派遣すること、つまり人的交流が何よりも重要だと思う。

ただ、現状では足りない部分もある。たとえば、ブラジルの外交官の地位は大変高いのだが、フジタさんまで、日系人で合格者がいなかった。そして彼のあと、15年間いなかったという。また、二宮さんの後継者のような人が出ていない。こうした鍵となるような人材を戦略的に養成することを、真剣に検討すべきだろう。実は私も四十数年前、ブラジルのように日本と縁の深い国が、これから日本専門家を養成するのは変だなと思ったことがある。その欠点は、必ずしも克服されていないのである。

もう1つ、研究交流も必要である。ブラジルにも、日本研究学会のようなものはあるのだが、それほど活発ではない。

アメリカには多くの大学に日本研究講座がある。これを飛躍的に増やしたのは、田中角栄首相時代のことであって、10大学に相当の金額を寄付して、日本研究を支援した。一流大学で立派な先生が日本について正しい知識を教えてくれるほどありがたいことはない。古くはエドウィン・ライシャワー、マリウス・ジャンセン、近くはエズラ・ヴォーゲル、ジェラルド・カーチスなどの教授の貢献は測りしれない。ブラジルにも、本格的な日本研究センターとか日本関係講座がほしいものだ。

私は国連大使時代、国連安全保障理事会改革に取り組んだ。ドイツ、インド、ブラジルとG4を結成して、運動を推進した。成果は出なかったが、この4カ国、そして共同提案国32カ国は、緊密なパートナーシップを組んで、頻繁に集まって協議した。その結束の結果、安保理改革以外の外交でも、いろいろなことがとてもやりやすくなった。ドイツ、インドと比べるとブラジルは忘れられやすいし、現在、経済的には不調である。しかし、あれほどの潜在力を持つ国である。この国との協力関係を深めない手はない。そしてそのための絆を、われわれは十分に持っているのである。

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北岡伸一

東京大学名誉教授。1948年、奈良県生まれ。東京大学法学部、同大学院法学政治学研究科博士課程修了(法学博士)。立教大学教授、東京大学教授、国連代表部次席代表、国際大学学長等を経て、2015年より国際協力機構(JICA)理事長。著書に『清沢洌―日米関係への洞察』(サントリー学芸賞受賞)、『日米関係のリアリズム』(読売論壇賞受賞)、『自民党―政権党の38年』(吉野作造賞受賞)、『独立自尊―福沢諭吉の挑戦』、『国連の政治力学―日本はどこにいるのか』、『外交的思考』など。

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(2017年4月13日フォーサイトより転載)

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