中国の「歴史戦」を見る(上)「無知」を超えた「意図的な曲解」

アメリカ製アクション映画の『ダイ・ハード』や『アルマゲドン』などの主演で知られるブルース・ウィリスが、旧日本軍による重慶爆撃(1938年12月~43年8月)をテーマにした中国映画の「大爆撃」(仮題)に出演するとのこと。

6月6日の産経新聞が伝えるところでは、アメリカ製アクション映画の『ダイ・ハード』や『アルマゲドン』などの主演で知られるブルース・ウィリスが、旧日本軍による重慶爆撃(1938年12月~43年8月)をテーマにした中国映画の「大爆撃」(仮題)に出演するとのこと。彼の役どころは、蔣介石の要請で中国戦線に赴いたシェンノート(漢字で「陳納徳」と表記)将軍率いる義勇飛行隊「フライング・タイガース」(中国では「飛虎隊」と呼ぶ)の飛行教官とか。義勇飛行隊を名乗ってはいるが、実態はアメリカ空軍の別働隊に近い。

110億円超とも約70億円ともいわれる破格の製作費を使い、国有大手の中国電影集団公司などが共同製作するというから、常識的に考えるなら、9月初旬を中心に計画されている「抗日戦争勝利70周年」事業の一環ということだろう。

中国製作の反日映画にハリウッド・スターが出演する。なにやら反日宣伝における統一戦線工作の臭いがしないわけでもないが、おそらくアメリカを巻き込んでの反日宣伝はAIIB(アジアインフラ投資銀行)や尖閣問題に対する安倍政権の動きを横目に、慰安婦問題などを巻き込みながら、いよいよ激化すると考えられる。

これを世にいう「歴史戦」と呼ぶべきかは不明だが、中国が「抗日戦争」という交渉カードを手放さない以上、やはり中国国内で抗日戦争がどのように表象・記憶されているかを知っておく必要があるはずだ。そこで試みに、3年前の2012年春に訪れた雲南省西端に位置する山峡の騰冲で目にした2つの日中戦争関連施設を紹介しつつ、そこで語られている「抗日戦争」を検証してみたい。

21世紀初頭の「国共合作」

先ずは騰冲が背負った歴史的背景を簡単に紹介しておく。

かつて騰越と呼ばれたこの街にイギリスが領事館を設けたのは、北京で極端な排外主義宗教団体の義和団が猛威を振るっていた19世紀末のこと。植民地として押さえたビルマ北部の要衝であるミートキーナ(=ミッチナー。漢字で密支那と表記)を経て騰冲に至り、この街を拠点に雲南省に食指を伸ばそうとした。これがイギリスの狙いであった。

それから40数年後、重慶に逃げ込んだ蔣介石政権を支援すべく、ビルマ領内を経て設けられた連合国側の援蔣ルートの重要拠点となっていたこの街を、日本軍は攻撃・占領した。だが援蔣ルート奪還を目指す連合国軍は1944(昭和19)年の5月から9月にかけ、雲南省西部からビルマ北部・東北部にかけて猛攻を展開する。これを滇緬戦争(「滇」は雲南省、「緬」はビルマ)と呼ぶが、この戦争の最後の激戦地が騰冲だった。イギリス領事館を巡っての攻防は熾烈を極めたといわれ、現存する石造りの旧イギリス領事館の外壁には夥しい数の弾痕が残っている。

最初に紹介したいのが騰冲郊外の和順村に付設された「滇緬抗戦博物館」だが、先ず軽い驚きを感じたのは、滇緬抗戦博物館の7文字を揮毫したのが、台湾の総統選挙に"連戦連敗"した元国民党トップの「連戦」だったことだ。係員に尋ねると、「数年前、連戦が来訪した際に書いた」という。どうやら21世紀初頭の国共合作は中国西南深奥部でヒッソリと進んでいたようだ。いや、それだけではない、これにはアメリカも一枚噛んでいるのだ。

伏せられている「不都合な真実」

博物館の展示は、滇緬方面における抗日戦争では米軍の全面協力を受けはしたが、"悪逆非道の日本軍"と主体的に、敢然と、雄々しく、犠牲を恐れずに戦ったのは飽くまでも中国人であり、戦いは共産党の指導によって進められたという"苦しい物語"で貫かれている。当然のことだが、中国人将兵が米軍にとって消耗品でしかなかったなどという「不都合な真実」は完全に伏せられている。

館内の写真や展示物を目にして最初に気づくのは、無知に基づく誤解のレベルを遥かに超え、意図的な曲解としか思えない解説の類だ。

日本軍が背負っていたという"悪意"によるデタラメな説明の仏壇(筆者撮影、以下同)

たとえば巾60センチほど、高さ70センチほど、奥行きが60センチほどの仏壇である。小さいながらも手の込んだ細工が施されている仏壇に付けられた解説文を中国語の語感のままに訳してみると、「死んでもロクなことはない日本侵略軍は、こんな倉のような霊牌(いはい)を持ち歩き、島国に送り返し、靖国神社に放り込もうと目論んでいた。ところが遠征軍の戦利品となってしまい、後世の笑いものとなり、万人の唾を受ける羽目になった」。

日本軍は遺骨を納めた仏壇を背負って靖国神社の神殿に額づかない。靖国神社は英霊の集う神域である。ましてや日本軍は仏壇を背負って戦場には赴かない。どれほど憎悪し、どれほど悔しかろうと、日本人は亡くなった相手に手を合わせ、祈るものだ。「後世の笑いもの」とし、「ザマー見ろ」とばかりに唾を吐きかけ溜飲を下げようなどというさもしい行いは慎むものだ。

ここを訪れる中国人の誰もが、この悪意に満ちた説明文を信じ込み、"愚かな日本軍"に勝利した遠征軍の雄姿に思いを馳せることだろう。だが、その遠征軍は米軍にとっては飽くまでも消耗品でしかなく、滇緬方面での日本との戦争に共産党は露ほどの働きもしてはいないはず。

ブッシュ元大統領の書簡

ブラブラと館内を歩いていると、10人ほどの中国人が群がっていた。面白そうなので近寄って耳を傾けると、どうやら話題の中心は彼らの前のガラスケースに収められた「遠征軍軍旗」だった。会話の内容からして、誰もが共産党が遠征軍を派遣したものと思い込んでいるようだ。だが事実は違う。遠征軍の正式名称は雲南遠征軍で、実態は「蔣介石軍で、......米式重慶軍」(古山高麗雄『龍陵会戦』文春文庫 2003年)、つまり訓練から装備までアメリカによって担われた国民党軍なのだ。だからこそガラスケースの中の軍旗は、当然のように中華民国の軍旗である。だが、そのことが参観者には全く判っていない。彼らは中華民国軍旗も共産党が使っていたと思い込んでいるのだ。

じつは博物館に冠せられた「滇緬抗戦」において、共産党の出る幕はなかった。だが共産党としては、そんなことは断固として認めるわけにはいかない。そこで必死に、巧妙な仕掛けを施し、事実を知らされていない無知蒙昧な参観者の"洗脳"に努める。その典型例が、「美国前総統布什給保山市長熊清華先生的信」との説明文がある展示品――「美国前総統布什」、つまりパパ・ブッシュ米元大統領が騰冲を管轄する保山市の熊清華市長に送った書簡――である。

コピーと思われる便箋最上部中央には「GEORGE BUSH」と印刷されている。その脇に中国語訳が置かれ、双方がガラスケースに収められている。英文の方の末尾にはブッシュのサインがあり、日付は「September 28,2004」だ。9月28日、つまり中国人が「九・一八」と呼び抗日・反日の記念日とする満州事変勃発の9月18日から10日後という日付が"微妙"である。

敵は日本

ブッシュ元大統領書簡の中国語訳文

その中国語の訳文を忠実に和訳すると、次のようになる。

「保山市市長熊清華先生/親愛なる市長先生/60年前、米国からやってきた者と中国の若い兵士とは怒江戦役において肩を並べ作戦を展開し、日本天皇の軍隊を追い払った。/アメリカ人飛行士は地上で包囲され困窮する部隊に物資を空中投下する際に犠牲になった。/世界大戦における最高の戦場において、アメリカと中国の歩兵は山上の拠点を猛烈に攻撃し、アメリカの医療要員は勇敢にも敵の銃弾を恐れず傷ついた中国兵に寄り添い救助した。/1946年、尊敬すべき騰冲人民は、英雄的な中国兵士が永眠する墓苑に一基の記念碑を建立し、この地においてアメリカ人が示した奮闘ぶりを記念した。60年後、感動的な一事を記念するため、両国の人々は墜落したアメリカ人1人1人がそれぞれに注いだ心血を確認した。いま、あなた方は彼らのために再び記念碑を建立した。/私は凡てのアメリカ人を代表し、雲南人民が遥か昔の犠牲者に与えた栄誉に満腔の感謝の意を表す。これは、当時発生した凡ての事実に対する記念碑というだけではなく、現在、我ら2つの偉大なる国家における友誼の証である。/最高の祝福を/喬治・布什(ジョージ・ブッシュ)/2004年9月28日」(「/」は改行を示す)

アメリカ大統領経験者が差し出し、保山市市長が受け取る。ならば一種の準公式な意味合いを持つ書簡とも考えられるが、それだけの格式を持つ英文が指し示そうとする意味・語感が忠実に中国語訳に反映されているかどうかを判断する能力を持ち合わせていないだけに、何とも判断しようはない。だが少なくとも、中国語訳だけを読む参観者は、日中戦争勃発以来、紆余曲折はあったもののアメリカと中国の関係は続いているだけでなく、「滇緬抗戦」という体験こそが「我ら2つの偉大なる国家における友誼の証」となっている。いわば「滇緬抗戦」が現在の米中両国を結び付けている――と読み取ることになるはず。やはり敵は日本なのだ。

滇緬抗戦博物館は反日・侮日をテーマに、今後も米中友好を演出し続けるのだろうか。(つづく)

揮毫したのは元国民党トップだが......

※本稿は、筆者のブログ『知道中国』に掲載した内容を加筆修正したものです。

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樋泉克夫

愛知大学教授。1947年生れ。香港中文大学新亜研究所、中央大学大学院博士課程を経て、外務省専門調査員として在タイ日本大使館勤務(83―85年、88―92年)。98年から愛知県立大学教授を務め、2011年より現職。『「死体」が語る中国文化』(新潮選書)のほか、華僑・華人論、京劇史に関する著書・論文多数。

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(2015年6月20日フォーサイトより転載)

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