【スリランカ・ニゴンボ】カレーに潜んだ鰹節の旨味--野嶋剛

いささか画一化された昨今の日本カレーにはない素朴な荒々しさがあふれる。
(画像はイメージ)
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旅の文章というジャンルで圧倒的に面白いのは『火宅の人』の作者として知られる檀一雄。彼は『朝市、昼市』というエッセイで、こんなことを書いている。

「世界の、あちこちの町をうろつく時に、その町の食べ物を食べ、その町の飲み物を飲むんでなかったら、旅の意味が薄れるだろう」

まさにその通りで、旅のすべてが食べることであるとは言わないが、少なくとも私にとっては、「旅」と「食」は分かちがたく結びつけられた永遠のテーマとなっている。旅に行けば、そこでしか見かけない食べ物を探して食べる。口に入れるまでの予想と、その後の結果は、それがアタリでも、ハズレでも、日常の「期待通りか否か」の2択しかない世界よりも、かなり意外性に満ち、私の視野を広げてくれる食体験となる。

さらに、食を通して、訪れた地域の人々の生き方、考え方、歴史、文化、思想などにも、私の思考はしばしば飛躍していく。本連載では、その食体験のデザートのようなもの、つまり「食べて、そして、考えた」ことを書いてみたいのである。これをとりあえず連載の開始にあたり、「食考学」と名付けてみた。

千差万別のスリランカカレー

初夏、スリランカを船旅の途中で初めて訪れた。大きなインドにくっつく小さな島国。長く待ちかねた訪問でもあった。過去に何度か仕事や旅行の計画を立てたが、急な取材などの下らない理由でつぶれたりしたからだ。

楽しみにしていたのはスリランカのカレーである。日本のカレーとはもちろん、インドのカレーとも一味違うと仄聞していた。

まずは同国最大の都市コロンボに滞在した数日、あちこちでカレーを食べ続けた。スリランカでは、少なくとも昼夜の2食はカレーになる。地元料理を選ぶ限りにおいて、選択肢はない。カレーを食べる店以外の外食店が極端に少ないからだ。

飽きるだろうと思っていたが、なんとも飽きがこない。スリランカのカレーは、日本のようにルーは変えずに具材を変えて、「牛肉カレー」「野菜カレー」「チキンカレー」などと名称を使い分けたりしない。

カレーを注文すると、3~5種類の異なるカレーが小さな器に入って(庶民的な店だとご飯に直接かかって)出てくる。1つ1つのカレーがすべてオリジナルで、「1具材1カレー」。野菜中心の具材にあわせて無数のスパイスから自在にルーを組み合わせ、カレーをつくる。種類が限りなく多いので、毎回違う味に出合えるのだ。

美味の秘訣は鰹節

もう1つ大切に思えるのは、ルーが牛肉や豚肉といった動物性の出汁ではなく、日本人の味覚に親しい魚介を使った下味があるからである。実は、この魚介の下味のことは、グルメ啓蒙漫画である『美味しんぼ』から教えてもらった。

この漫画を読んだのはもう何十年も前のことになるが、いまは便利なもので、キンドルで『美味しんぼ』の該当巻を探し当てて購入し、読み返した。

主人公の山岡士郎は、父・海原雄山との究極・至高のメニュー対決にあたって、カレーを極めるためにスリランカへ渡り、「モルジブフィッシュ」と呼ばれている鰹節に出会う。そのモルジブフィッシュを使った蟹カレーを対決で出し、カレーに対する十分な知識と考察を持っていた海原との勝負を引き分けに持ち込んだ。

そう、スリランカのカレーの下味には、必ずと言っていいほど、鰹節が使われているのである。食べていて強く鰹節の味を感じるわけではない。粉々にすり潰された鰹節が、無自覚の中で私の舌を刺激しているのだ。

スリランカの食文化について、日本で随一の知識を持っている丹野冨雄という人物がいる。かつて四谷で「トモカ」というカレーの名店を経営、スリランカ人タレントのウィッキーさんも常連だった。丹野さんは、カレーの具材集めで現地に通い詰め、公用語のシンハラ語も達者になった。現在は店を閉めて故郷の山形で暮らしている。

彼の手による名著『南の島のカレーライス』では、スリランカカレーについて、「椰子と唐辛子とかつお節をベースにして野菜・根菜、干し魚を炊く。これを毎日、ご飯と一緒に食べる。とてもシンプルだ」と書いてある。

椰子、そして唐辛子と並んで、鰹節がスリランカのカレーの基本構成なのだ。ちなみにインドでは鰹節はカレーには用いない。カレーの味に「コク」を出す役割はインドではヨーグルトである。では、スリランカに、どうして日本の固有食材のように思われている鰹節があるのか。

「不自然な親切」には注意

そんな疑問を抱えながら、コロンボから車で1時間ほど離れた港町・ニゴンボに向かった。「ニゴンボ」はシンハラ語で「海の街」という意味らしい。ここにはあちこちに、伝統医療「アユルヴェーダ」を宿泊しながら体験できるホテルがある。

そのうちの1軒である「ジャスミン・ヴィラ」というホテルにチェックインし、旅装を解き、まずはホテルの売り物であるアユルヴェーダでひと休み。マッサージ2時間、薬草サウナに1時間、寝椅子で汗を出しながらリラックスで1時間。至福の体験である。

気力を充填したあとは、海岸へ3輪車タクシー「トゥクトゥク」を走らせた。海岸に近づくにしたがって、濃厚な海の匂いが鼻に入ってくる。

ニゴンボの海岸には、スリランカ1の規模と言われるフィッシュマーケットがある。獲れたての鮮魚が所狭しと木の板に並べられ売られていた。見たことがない魚、見覚えのある魚。その中で、ゴロンと木の板の上に並べられた立派なカツオ(冒頭写真)を見つけた。現地での呼び方を教えてもらったが忘れてしまった。カツオは近海で獲れるのだという。

次に、市場の横にある砂浜に向かう。目を疑う光景だった。こんな巨大な干物場は見たことない。海の匂いの正体はこれだった。広い砂浜に並んだ見渡す限りの干物である。トビウオもアジもイワシも全部干している。

「これイワシ、これトビウオ」と言いながら、帽子をかぶった40歳ぐらいのおじさんが近づいてきた。「干物を見るならこっちだ」と私を連れ回し、頼んでいない記念撮影を何回も撮らされた。「モルジブフィッシュはないの?」と聞くと、「特別な製法なので、日干しではできない」と言う。

あまりにも干物臭いので、早々に立ち去ろうとしたら、「ガイド代をくれないか?」と聞いてくる。外国で不自然に親切な対応をされたら、やはり注意が必要だ。もう1度立ち去ろうとしたら、シンハラ語で何かを叫び出した。きっと「こいつは親切にしたのにお礼もしない!」と不満をぶちまけていたのだろう。だが、市場の人々も通りがかる人々も誰もが無視し、私も無視した。

謎に包まれた鰹節の起源

スリランカで流通している鰹節で最高級のものは、モルジブで生産されているという。「モルジブフィッシュ」と呼ばれているのはそのためだ。しかし、モルジブでは鰹節をあまり消費せず、いいものはスリランカに輸出されるらしい。

日本とスリランカの海の道の経路にある台湾でも鰹節は食されているが、これは日本統治時代に入ってきたものだ。台湾の漁港に揚げられたカツオが台湾各地の工場で鰹節に加工され、日本へ輸出された。当然、鰹節を使った料理も生まれ、台湾で現在よく食べられている「米苔目」というコメ原料の押し出し麺は、カツオ味のスープが1つの特徴であり、麺の上にも鰹節がかかっている。

昨今話題の尖閣諸島にも、かつては鰹節工場があった。近海で漁獲されたカツオをそのまま盛り込んで加工するために建てられた工場だった。

鰹節というのはなかなか手間のかかる製法であるし、カツオという魚の特性を知っていなければつくれない。そのため日本とスリランカで同時に偶然、鰹節の製法が生まれたとは考えにくい。鰹節は、日本からスリランカへ、あるいはその逆で伝来があったのだろうか。だが、その痕跡はいまのところ見つかっていないという。

日本食とスリランカ料理に共通するのは、「油は使わず、グルタミン酸の味を楽しむ」という感覚だ。丹野さんが著書で指摘していてなるほどと思ったが、スリランカの料理には化学の匂いがない。化学調味料を使って美味しくしようという発想がないのだ。薬草とスパイスを用いたカレーで、南国の野菜と果実を美味しく健康に食べることに尽きる。

手食も1つの楽しみ

スリランカ滞在中、最も滋味を感じたカレーの1つが、ドリアンに似た果物ジャックフルーツのカレーだった。「世界最大の果実」と言われるジャックフルーツは、完全に熟する前は野菜として食される。

フィッシュマーケットを訪れた翌朝、ニゴンボの農産物市場を訪れると、ジャックフルーツが細長い包丁によって、ひたすら数ミリ幅にカットされていた。それを袋詰めにして売るわけだが、半裸の若者たちが炎天下で続ける作業を見て、わざわざジャックフルーツの外皮なんかを食べるのは貧しいからだろうか、と思った。ところがその日の午後、ジャックフルーツを具材にした見事なカレーを食べた時、それは「文化」であると理解し、自分の浅い見方を心から反省した。

スリランカの食の快楽はもう1つ、手食をエンジョイできることだ。スリランカの食堂には、ニッパヤシを組んだだけの小さく簡素な店であれ、手を洗うところが端っこにある。

店に入ったらまず手を洗い、席につく。そして左手を横向きにテーブルに乗せ、右手で皿の上のカレーとコメをかき混ぜて食べていく。それも、3~4種類あるカレーのうち、最初は1種類、次に2種類、最後は全部という風に、ブレンドを変えながら食べていく。まさに変幻自在の味の組み合わせだ。スプーンでは、コメにカレーの汁をたっぷり染み込ませることができない。手食が、スリランカのカレーにはとても合理的なのである。

漱石が描いたカレー

ちなみに、日本人で最も早い時期にスリランカカレーの経験を記録に残しているのは、文豪の夏目漱石である。明治維新後の日本から、欧米へ見聞を広めるために旅立った人々がいた。その1人だった漱石は1900(明治33)年にスリランカに立ち寄り、カレーを食べている。

日記帳として使っていた住所録に、「晩餐ニ名物ノ『ライス』カレヲ喫シテ帰船ス」と書かれている。スリランカについての記述はこれだけである。美味しいとかどうだとか、一切何もコメントしていない。なので、漱石がスリランカの「名物」のカレーについてどう思ったかは分からない。

後に漱石は小説『三四郎』の中で、本郷へカレーライスを食べに行く場面を描いている。スリランカで食べたカレー記憶は、漱石の中に刻まれていたのだろう。

日本人は明治維新のあとにカレーと出会った。英国がインド、スリランカの植民地経営の中でカレーを知り、英国でカレーパウダーが開発された。それが日本に輸入され、やがて、じゃがいも、にんじん、玉ねぎなどの根菜類を具とする日本的なとろみのあるカレーが完成した。スリランカのカレーと日本のカレーは、同じ肉料理でもステーキと焼肉が全く違うように、カレーというジャンルに所属してはいても、遠く離れた親戚のようなものである。

しかしながら、我々を魅了したカレーの原型の一つが、スリランカに存しており、そこには、いささか画一化された昨今の日本カレーにはない素朴な荒々しさがあふれる。

「偶然出合う価値あるもの」

スリランカにはひどい内戦があった。終わったのはほんの10年ほど前だ。多数派の仏教徒シンハラ人と少数派でヒンドゥー教徒のタミル人との対立は、宗教対立もからんで根深い。武装組織「タミル・イーラム解放のトラ」によるテロの嵐が吹き荒れて、経済も大きく出遅れた。だが、国民は真面目で勤勉。食糧生産は豊かで、仏教遺跡にブルーのビーチなど観光資源にはこと欠かない。潜在力があるのに、新興国の仲間に入れていない惜しい国、それがスリランカのイメージだった。

いまスリランカは飛躍の時を迎えている。ダムの水のように溜まった発展へのエネルギーを、どのように活用できるか。まずはツーリズムの成功が問われている。ホテルや交通などのインフラの整備はまだこれから。しかし、一歩中に入れば、珠玉のような楽しさに満ちている。

明治時代に欧米で大使を歴任した久米邦武は、帰国後に著した『米欧回覧実記』で、帰路に立ち寄ったスリランカについて、「真ニ人間ノ極楽界ト覚フカ如シ」と述べた。久米が訪れた時、英国がつけた「セイロン」という名前だったが、それ以前は「セレンティブ」と呼ばれていた。英語の「セレンディピティ」の語源となったと伝えられ、「偶然に思わぬ形で出会った価値あるもの」という意味を持つ。その魅力に驚いた英国人が、島の名前の「セレンティブ」から、この言葉を派生させたのだ。

私も滞在中、想像以上のスリランカの長所が見つかった。味を兼ねた究極の健康食とも言えるのカレーを食べながら、アユルヴェーダでデトックスし、命を磨いていく幸福さ。まずはスリランカの体験はそこから始めてもいい。

野嶋剛 1968年生れ。ジャーナリスト。上智大学新聞学科卒。大学在学中に香港中文大学に留学。92年朝日新聞社入社後、佐賀支局、中国・アモイ大学留学、西部社会部を経て、シンガポール支局長や台北支局長として中国や台湾、アジア関連の報道に携わる。2016年4月からフリーに。著書に「イラク戦争従軍記」(朝日新聞社)、「ふたつの故宮博物院」(新潮選書)、「謎の名画・清明上河図」(勉誠出版)、「銀輪の巨人ジャイアント」(東洋経済新報社)、「ラスト・バタリオン 蒋介石と日本軍人たち」(講談社)、「認識・TAIWAN・電影 映画で知る台湾」(明石書店)、訳書に「チャイニーズ・ライフ」(明石書店)。

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(2018年8月17日
より転載)

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