映画『デトロイト』で見えるハリウッド・ビジネスの「実話」--長谷川康志

たとえ悪夢であっても、人は見たいと思う夢しか買わない。
主演のジョン・ボイエガ(左)と監督のキャスリン・ビグロー
主演のジョン・ボイエガ(左)と監督のキャスリン・ビグロー
AFP Contributor via Getty Images

1968年とその前後1年くらいを背景にした映画を、私は勝手に「68年物」と呼んでいる。映画『デトロイト』(2017年/キャスリン・ビグロー監督、公開中)は1967年の夏にアメリカミシガン州デトロイトで起こった「アルジェ・モーテル事件」の映画化だから、まずその範疇と思って観た。

デトロイトの黒人暴動のさなか、アルジェ・モーテルから警官たちに向かって銃声が轟く。実は競技用ピストルだったのだが、白人警官らは銃の所在をめぐって、モーテルの客――若い黒人男性6人と、2人の白人女性――に暴力的な尋問を行う。最終的に3人の死者が出るが、その後の裁判で白人警官たちは無罪になる。この恐怖の尋問40分が眼目で、アップを多用し、短いカットを積み重ねて緊迫感を演出していた。実際の事件を経験した「被害者」3人が、撮影中もコンサルタントとして助言したという。

米国でも日本でも、宣伝では「実話」を謳っている。たしかに尋問を受けた側の再現には力が籠っている。しかし、警官たちの側はどうであろう。尋問の中心となる若い白人警官・クラウス(実在の人物とは名前を変えてある)を演じたウィル・ポールターは、「僕の役は、2、3人の実在の人物の混合なんだ」、「クラウスという人物は、マーク(編集部注:マーク・ポール=脚本家)とキャスリンが、2人で創り出した役」とインタビューで答えている(同作のプログラムによる)。人物の混合はよく使われる手法ではあるが、被害者側の再現にはなるべく忠実を期しながら(実際より人数を減らしているようだが)、加害者は半ば架空の人物では、バランスが取れないだろう。ポールターがその落差を乗り越えるだけの演技をしているとも思えない。このアンバランスは、単に裁判で無罪になった加害者たちの人権に配慮しただけではなく、恐ろしき白人警官のイメージを強めることで、今なお起こり続ける白人警官による黒人への暴力事件を告発したいがためなのではあるまいか。

ドキュメンタリーを含めて、すべての映画はフィクションと言えるけれども、伝記映画に臨むような真実への希求が、製作者側にないことに気をつけておきたい。例えば、もしゴッホの伝記映画で、ゴッホだけを史料に基づいて忠実に描き、脇役だからとゴーギャンとドガを混合してしまったら、誰だってインチキだと指摘するに違いない。この『デトロイト』は、あくまでも被害者たちの目線からの「忠実」な再現にすぎないのである。

加害者たる1967年当時の白人警官たちが、なぜ差別し、暴行したのか。彼らの育ちや生活環境、さらに黒人暴動によるストレスや焦り、恐れといったものが見え隠れするように描かなくては、差別の深層に辿り着けない。凡百のナチ物映画と同様、この映画のレイシズムには顔がないのだ。他方、黒人によるデトロイトの暴動にしても、彼らの中に鬱積していたものをもっと示さなければ、他人の車に火をつけ、商店を襲い、略奪している暴徒にしか映らない。尋問のあいだ、競技用ピストルについて誰1人言及しないのも不自然だった。

結局、いくら役者が頑張ったところで、「こういう事件がありました」「差別はいけません」という紋切型からは出られない。主要キャストの3人が英国の俳優というのも象徴的だ。それは当時のアメリカ人の考え方ではなく、今日の尺度で人種差別を断罪するのに、より有効だろう。

とまれ、それなりに有能なスタッフが揃っているから出来は悪くないが、画面で起こっている現象だけ追えばスリラー映画と大差ない。白人警官を架空の「無知なモンスター」としてしか描けなかったことが、この映画の限界なのである。

満足度低かった『最後のジェダイ』

社会派『デトロイト』を考えるとき、黒人映画やデトロイトを舞台とする作品の系譜に置いてみる方法もあるが、最近のハリウッド映画――ここでは『スター・ウォーズ/最後のジェダイ』(2017年/ライアン・ジョンソン監督)と『ドリーム』(2016年/セオドア・メルフィ監督)を例に引こう――と並べてみると、1つの傾向が見えてくる。白人男性の専横に対する、黒人や白人女性の立場を描き直すという傾向である。被害者が黒人と白人女性だった『デトロイト』がこのタイミングで映画化されたのは、偶然ではないかもしれない。

『スター・ウォーズ』シリーズは、1977年の第1作から、帝国軍に対する反乱軍の物語が基底をなしているが、昨年12月公開の『最後のジェダイ』では、ファースト・オーダー(帝国軍の残党)に抵抗するレジスタンスの群像劇としての色彩が、かつてなく強く打ち出されていた。キャリー・フィッシャー演じるレイア・オーガナ将軍を筆頭に、レジスタンスの幹部は女性で占められ、男性パイロットたちの英雄的行為はくり返し妨げられる。ファースト・オーダーの宇宙戦艦に突っ込んで自爆するのはレジスタンスのナンバー2の女性だ。勝利とは、敵を倒すことではなく味方を守ること、というロジックの転換が実現する。行動の中心は男性から女性へとスライドし、その結果「冒険」は影を潜めてしまい、かえって「戦争」の印象ばかりが残る。

中盤はファースト・オーダーから脱走した黒人男性と、レジスタンスのベトナム系女性整備員の、本筋とほとんど関係のない物語が展開する。そのとき訪れるカジノの場面を除けば、異星人よりも女性や有色人種の方が多く登場するようにすら感じられる。「冒険」がレジスタンスの物語を包み込むスピーディーな展開と、様々なクリーチャーが楽しいSFファンタジーが、世相を忖度するあまりシリーズが築いてきた世界を破綻させ、魅力を失ってしまった。アメリカの批評サイト『ロッテン・トマト』の観客の満足度評価が、前作『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』の88%に対し48%と芳しくないのは当然だ。

シーソーを反対側に倒す

1961〜62年を舞台に、NASA(アメリカ航空宇宙局)で働く黒人女性3人を描いた『ドリーム』は、日本でもキネマ旬報ベスト・テンの外国映画8位に選ばれるなど、国内外でおおむね肯定的に迎えられている。その一方で、修正主義(revisionism)やプロパガンダだという否定的な意見もみられる。

ノンフィクション小説を原作としているが、この映画には事実とかけ離れた描写があまりに多い。例えば、1949年にNACA(NASAの前身)で黒人初のスーパーヴァイザーになったドロシー・ヴォーンは、劇中では白人女性に昇進を断られる計算部の代理スーパーヴァイザーに変更されているといった具合だ。コメディタッチのカリカチュアライズされた作風とはいえ、黒人差別を際立たせるためなら、年代など無視してもいいと言わんばかりである。IBMのコンピューターを使いこなすのも、マーキュリー計画でアメリカ人が宇宙へ行けたのも、ぜんぶ黒人女性たちの手柄であるかのように描かれている。主要人物を除けば、白人男性職員は何もできない、白いワイシャツの顔のない無個性な一群としてしか扱われない。この白人至上主義の裏返しのような映画を、白人男性が監督するということは、一種の知的マゾヒズムではあるまいか。シーソーを水平にするのではなく、反対側に倒してみせること、これを煽動という。

このように、ハリウッド映画には、representation(表現)からrevision(修正)へと向かう傾向が、以前よりはっきりと存在している。今日、実話に基づく作品はいよいよ増えているが、その時代の人々がどう生きたかを歴史に向き合って表現するより、現在の政治状況にいかにコミットするかに重きが置かれていることは論を俟たない。

反セクハラと反トランプと

では、実際の状況はどうなのか。アメリカの女性や黒人に関する動きを簡単に振り返っておこう。

米大統領選挙の一般投開票は2016年11月8日、正式決定は2017年1月6日。民主党のヒラリー・クリントンが敗北し、彼女の熱狂的な支持者だったメリル・ストリープは、1月8日、第74回ゴールデングローブ賞授賞式でセシル・B・デミル賞(生涯功労賞)を受賞する際に(名指しではないが)ドナルド・トランプ大統領を非難、翌日、トランプがツイッターでやり返す一幕があった。1月20日、大統領就任式。翌21日の「ウィメンズ・マーチ」(トランプ大統領に抗議するデモ)は、反トランプの旗印、ピンクの「プッシーハット」を被った人々が各地で大規模なデモを行った。

昨年10月には映画プロデューサーのハーヴェイ・ワインスタインがセクハラで告発される。告発者の1人で、昨年10月10日の『ザ・ニューヨーカー』誌に告発記事を寄稿したのはジャーナリストのローナン・ファローだった(女優ミア・ファローが映画監督ウディ・アレンとの間にもうけた息子とも、フランク・シナトラとの子ともいわれる)。11歳でバード大学へ入った俊才で、過去にはユニセフのスポークスマンを務め、国務長官時代のヒラリーの特別顧問(青年問題)などでオバマ政権に仕えてきた。

10月15日、ユニセフ大使でもある女優アリッサ・ミラノが、「#MeToo」をツイッターで紹介。もともと#MeTooは、主に有色人種の性暴力被害者のため、黒人の女性アクティビスト、タラナ・バークが2006年に立ち上げた草の根運動だったが、アリッサのツイートにより、白人女性の間にも爆発的に浸透した。俳優や監督、議員、指揮者、バレエ関係者まで、場合によっては30年以上前のセクハラまで持ち出されて、告発が続いているのは周知の通りである。ヒラリー支持だったワインスタインはじめ、告発された俳優・監督の多くがユダヤ人だったことにも留意したい。

今年1月1日には、約300名の映画関係者がセクハラ撲滅を掲げた「Time's Up運動」を開始。1月7日の第75回ゴールデングローブ賞では、女性の賛同者に黒色のドレス着用を呼びかけたのは記憶に新しい。タラナ・バークは女優ミシェル・ウィリアムズの同伴者として授賞式に参加している。今年のセシル・B・デミル賞は、民主党の次期大統領候補と噂される黒人女優・司会者のオプラ・ウィンフリーが受賞。さらに1月28日のグラミー賞授賞式では、ヒラリー・クリントンがトランプ大統領の暴露本『Fire and Fury(炎と怒り)』を朗読するサプライズまであった。

かくのごとく民主党サイドが醸成している時流では、セクハラ告発や男女同権、あるいは黒人差別の問題が各々別個に存在しているのではなく、反トランプと結びつく形で運動化するよう、周到に計算されているようにも見える。

今年1月20日のウィメンズ・マーチの報道を見ていると、レイア姫の写真や似顔絵の横に「A Woman's Place Is In The Resistance」と書いたプラカードが幾つかあった。『スター・ウォーズ』シリーズのアミダラ役ナタリー・ポートマンはロスで参加、revolutionの語を何度も用いて演説していた。しかし、この運動を革命やレジスタンスに見立てるのはかなり無理がある。むしろ、トランプが象徴する圧倒的な父権に対する女性性の抵抗、その通過儀礼的狂騒にも映る。

ウィメンズ・マーチの参加者はロスで昨年より15万人減、ニューヨーク市では20万人減といわれる。運動が持続しているうちに、今年11月の中間選挙へ向けて、彼らの票は組織化されるだろう。準備はすでに整っている。無自覚なだけで、SNSは個人の物語と運動をつなぎ、それを政治に転化するイデオロギー装置になり得るのだから。

ハリウッドはアメリカの欲望の鏡

昨年から今年初めにかけて日本公開された映画は、当然ながらトランプが大統領選で勝利する前に、企画が立てられたり、撮影されたりしている。『デトロイト』の場合、2016年7~8月に大部分が撮影され、2017年8月に米国で拡大公開。『ドリーム』はこれより早く、2017年の正月映画だった。つまり、民主党のヒラリーが大統領に就任した場合には彼女の勢力を後押しし、共和党が勝ったら彼らを非難することにも有効な物語が求められたと考えられる。もし「ヒラリー大統領」の御時世が来ていたとしても、先に挙げた3本は十分機能する作品である。今後しばらくは反トランプに貢献する「実話」が続くだろう。

冒頭で「68年物」について触れたが、実際に1968年に公開されたアメリカ映画には『2001年宇宙の旅』(英と合作)、『ローズマリーの赤ちゃん』、『猿の惑星』、『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』などがある。不安定な世相を反映しつつも、フィクションが人々の想像力をヴィヴィッドにしていた半世紀前と違い、今やフィクションの大半は社会に隷属させられている。では、フィクションは力を失ったのか。そうではない。ハリウッドは永遠にアメリカの欲望の鏡であり続ける。細分化されたターゲットのニーズに合わせて、半年先、1年先に、みんなが見たい夢を作る。representationからrevisionへ移行するのは、SNSや集会や反トランプに夢中な現代の観客が、自分の中の正義を充足させるため、純然たるフィクションより、都合のいい歴史を欲望するからに他ならない。たとえ悪夢であっても、人は見たいと思う夢しか買わない。これはイデオロギーの問題ではなく、ビジネスなのである。

長谷川康志 1978年横浜生まれ。映画批評家。酒豆忌(中川信夫監督を偲ぶ集い)実行委員。2000年より『映画論叢』(国書刊行会)にて「デジタル過渡期の映画上映」を連載中。

(2018年3月26日
より転載)
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