「汚染水」と闘って逝った福島「漁協組合長」が残した「宿題」--寺島英弥

海の汚染のため操業自粛を強いられた仲間を引っ張り、再生の希望を懸けた「試験操業」を進めてきた。
水揚げされたコウナゴに安堵の笑顔を浮かべるありし日の佐藤さん
水揚げされたコウナゴに安堵の笑顔を浮かべるありし日の佐藤さん
寺島英弥

東京電力福島第1原子力発電所事故から6年を過ぎた今年5月20日、1人の海の男が逝った。福島県内で3年続けて漁獲1位になった底引き漁船長から、原発事故後は被災地となった相馬・双葉地方の漁協組合長に。海の汚染のため操業自粛を強いられた仲間を引っ張り、再生の希望を懸けた「試験操業」を進めてきた。原発からの度重なる汚染水流出、風評問題に苦悩。がんを抱えて東京電力、政府との交渉に心労を重ねた。「身体の不調を隠し、余命を測りながら最後の日々を生きた」と周囲は語る。

悲願であった福島の漁業の復興へと闘い抜いたのが、佐藤弘行さん(61)だ。

「非常時」を終わらせる

筆者が最後に取材したのは、東日本大震災から7年目を迎えたばかりの今年3月13日朝。「春告魚」であるコウナゴ(小女子)の試験操業が初日を迎えて、早朝から漁場に出た小型漁船団が相馬市・松川浦漁港に帰り、体長4、5センチの透明な小魚がいっぱいの箱を続々と水揚げした。津波で全壊し、昨年9月に再建がなった4800平方メートルの荷さばき場(相馬原釜地方卸売市場)で、初物のコウナゴは地元の仲買業者たちの競り入札に掛けられた。大震災、原発事故前から6年ぶりの競りだった。威勢の良い掛け合いの復活を、佐藤さんは笑顔を浮かべて見守った。

「競りは市場の当たり前の営み。地元の海の魚が競り合いで買われれば、相馬の魚が安全、安心であると消費者にも伝わる。試験操業という形で水揚げは少ないが、6年間の『非常時』を終わらせ、福島の漁業を正常化させる節目だ。国の復興支援でようやく再建した魚市場を生かしていかねばならない。何よりも漁業者、地元の仲買人たちが活気づくよ」

試験操業は原発事故後、同漁協が漁業再開を目指して検討委員会を結成。福島県水産試験場と協力してのモニタリング捕獲調査で「放射性物質が3回続けて不検出」の魚種に限り、同県の監督機関の下で「本操業に向けた試験」として限られた漁獲を、2012年6月、ミズダコ、ヤナギダコなど3魚種から始めた(いわき市漁協も2013年10月から)。継続調査で「安全」を確認できた魚介類を漁獲対象に加え、現在は97魚種まで増やした。震災前に獲れた魚種のほぼ9割まで回復し、悲願とする本操業へと、漁師たちの思いは募る。

試験操業で獲れた魚介類は、福島県産のコメなどと同様に厳しい放射性物質検査を経て、福島県内の鮮魚店やスーパーをはじめ、東京以遠にも出荷されているが、実情は「試験流通」。通常の競り入札ではなく、漁協が各地の仲買業者に売り込み、「買ってもらう」ための相対取引だった。

「相馬のカレイ、ヒラメ、カニ」などは全国ブランドだったが、品質や安全性には「風評」を織り込んだ値付けが定着し、「県外では福島産というだけで相場より安く買われる」という憤りや諦めが漁師たちにあった。「『非常時』を終わらせ、福島の漁業を正常化させていく」という佐藤さんの強い決意が、競り入札の復活に込められていた。

「俺たちは目の前の試験操業に懸命で、誰も競り入札なんて考えつかなかった。組合長だけが一歩先を見て決断したんだ」。コウナゴ漁を担った原釜小型船主会会長の今野智光さん(58)はこう語った。「試験操業も原発事故の後、組合長が先頭に立って漁師たちを引っ張って始めた。あんにゃ(兄貴)がいなきゃ、何も始まらなかった」。

実力トップの漁師

今野さんにとって、佐藤さんは年上のいとこ。同じ浜で家も近く、昔から「あんにゃ」と呼ぶ頼りになる存在だった。漁港の奥に広がる景勝地・松川浦(汽水の潟)の外れに、佐藤さんの弟で沖合底引き船長の幸司さん(58)の家があり、8月上旬、今野さんと一緒に話をしてもらった。「昭和62年度 3年連続優勝 宝精丸 相馬原釜漁業協同組合」。

紫紺の優勝旗の傍らに集う家族写真が、家の居間に飾ってある。宝精丸は佐藤家が船主の底引き船。優勝者である佐藤さんが若々しく誇らしげに、幸司さんら2人の弟や奥さんたち、父親の弘さん(故人)ら両親と並ぶ。弘さんも元漁船長で、旧相馬原釜漁協組合長(2003年に近隣6漁協と合併し相馬双葉漁協に)を3期務めたリーダーだった。

佐藤さんの思い出を語る弟の幸司さん(左)と今野さん

「漁師の長男は船に乗るのが当たり前の環境だった」と今野さんは言うが、佐藤さんは中学の担任から進学を勧められ、宮古市の宮古海員学校(現国立宮古海上技術短期大学校)に入った。が、1年で中退して帰ってきた。「後継者になるという自負が、兄は大きかったのだろう。16歳で父の船に乗った」と幸司さん。当時の底引き船は10キロほどの沖合でアイナメ、メバルなど近海ものを獲ったが、1980年代から漁船の機械化、大型化が進んで茨城県沖まで漁場が広がり、魚種もマツバガニや毛ガニ、メヒカリなどが増えて、漁協全体の漁獲高も総額60億円を超えた。

「資源量の豊かさに加えて、相馬の漁師は漁の仕方がうまかった。網1つ取っても、専門業者から買っている他県の浜と違い、経験上の工夫を入れて自分で編んだ。船に泊まり込んで仕掛け作りに没頭した」と今野さんは言う。

その旗頭が宝精丸の佐藤さんだった。2年遅れて同じ船に乗った幸司さんは甲板長として兄を助けた。「漁に関して、兄はがむしゃらだった。寝る時間を惜しんで船で1日を過ごし、道具を手作りしていた」と言う。若いころ、大しけに3回も遭ったという。「他の船が帰港していく中、金華山の沖に頑張って網を流していたら、強風が吹いて海が真っ白に波立った。網をパラシュートのように広げて漂いながらしのぎ、無事に帰った。クリスマス台風(1980年)では、大しけの海上で30時間をしのいだ。

それらの経験から、兄は天気を読む名人になり、危険を避ける勘が誰よりも働いた」。船長の判断1つに乗組員の命、家族の暮らしが懸かった。海底の見えない岩礁に網を引っかければ、そこの海域の地形を忘れず、次には巧みに岩礁を避けながら網を引いて大漁をやり遂げた。

「漁師は実力の世界。漁ができない者は相手にしてもらえず、言葉も聞いてもらえない。あんにゃはトップの人。とても怖い存在で、笑った顔をめったに見たことがない。もの言えば、ひっぱたかれるのではないかと思ったほど。だが、あれほど責任感の厳しい人はいなかった。だからこそ原発事故のさなか、組合長を引き受けたのだ」。今野さんは語った。

2011年3月11日午後2時46分、大地震が相馬市を襲った。今野さんは、コウナゴ漁解禁を前にした仲間たちと共に船を全速力で沖に出し、何波も押し寄せた津波を乗り切った。佐藤さんは自宅におり、地震後の海の様子を見に外出した。やがて相馬の浜を津波が襲う。おびただしいがれきをのんだ濁流が佐藤さん宅の1階を貫き、2階部分を崩落させた。そこに妻けい子さん(51)がいた。「義姉は地震の後片付けをしながら、兄が戻るのを待っていたのだと思う」。

幸司さんの自宅は幸いにも津波の流路を外れて無事。兄と同居する母親を連れて避難するのが精いっぱいだった。「兄は民家の3階に逃れ、夜に自宅に戻ろうとしたが、真っ暗な上に水が引かず、足止めされた。義姉は翌朝一番で、消防士ががれきの中から見つけてくれた」。佐藤さんは、離れ離れの妻が「お父さん」と呼ぶ声を3回、確かに聞いたという。

「漁の技術も船の腕も日本一」と漁師たちが自負する相馬の漁船群は、多くが犠牲になった三陸の被災地と対照的に、100隻近くが無事に帰った。だが、南に約45キロ離れた福島第1原発の大事故が追い打ちをかける。

相馬市は避難指示を免れたが、4月11日、東電が原子炉建屋にたまった高濃度汚染水約1万1500トンを、福島県漁業組合連合会(いわき市)へファクス1枚の通知をしただけで海に放出。たちまちに同県内は漁業自粛とされ、放射能汚染をめぐる「風評」もここから始まった。家を流され、家族を失った漁業者も多く、漁港内外のがれきを船で引き揚げる作業を請け負いながら年内を送った。

宝精丸は津波で横倒しになったが復旧され、佐藤さんは幸司さん宅近くにアパートを借りて再び海に出た。だが、憤りとともに声を上げた。「このままでいいのか? 漁師と言えるのか?」。相馬はこれだけ船が残ったのに、漁をしないままでは、船を離れる人が増えるだけ。若い人たちは、がれきの仕事だけでは希望を見失う――。「あんにゃ(佐藤さん)は、そう訴えたんだ」と今野さんは振り返る。

試験操業への出航を待つ沖合底引き船

当時、佐藤さんは漁協理事の1人。汚染水と漁自粛に打ちひしがれた仲間たちに「試験操業」という新しい目標を提案した。漁協に試験操業検討委員会を立ち上げて委員長となり、いわき市漁協に協働を呼び掛け、福島県漁連を挙げた取り組みにしようと説得に歩いた。「漁協組合員の1人1人が何を始めたらいいのか、分からない時期だった。『1歩でも前に出なきゃだめだ』と俺たちを引っ張ってくれた」。

そのリーダーシップは、父の弘さんから受け継いだものだ、と幸司さんは言う。「父は組合長時代、全国で初めてヒラメの放流事業を手掛けた。利益のためでなく、地元の海の末永い資源づくり。獲るだけの漁業の先を考えた。被災する前の漁協本所を建てたのも父の代だ。地元選出の政治家と交わり事業資金の工面にも心を砕いた。兄は、震災と原発事故の後の一番難しい時にそんな後ろ姿を思い起こし、復興へのかじ取りを決意したのだろう」。

2012年6月の試験操業スタートを前に、準備をすべて整えた佐藤さんは、実力と人望で相馬双葉漁協の組合長に選出された。相馬、福島の海の復興を託される未曽有の重責だった。

「信頼関係はまた崩れた」

「福島第1原発の汚染水海洋流出問題を受け、相馬双葉漁協(相馬市)は9月に予定していた底引き網漁の試験操業を当面延期する方針を決めた。東電が7月22日に放射能汚染水の海への流出を認め、国が流出量を1日300トンと試算するなど、海洋汚染への懸念が拡大しているため。22日の試験操業検討委員会で正式に決める。佐藤弘行組合長は『消費者の懸念が払拭できない状況では当面、漁を見送ったほうがいいと判断した』と述べた」(2013年8月10日付『河北新報』)

試験操業は開始早々、暗礁に乗り上げた。福島第1原発のタンクから漏れた大量の汚染水が海に流出した事実を長く伏せていた東電は、政府・原子力規制委員会の指摘を受け、7月22日になって公表したのだった。その影響で、名古屋市場に出荷したミズダコが門前払い同然の扱いとなり、翌々日、相馬市内で東電が開いた漁協への説明会では、「風評被害で試験操業が続けられない」「流出を否定していたのに、もはや信用できない」など、漁師たちの怒号があふれた。原子炉建屋の汚染水の急増が原因だった。

周囲からの地下水流入に対策を迫られた東電は、未汚染の地下水をくみ上げ海に放出する「地下水バイパス」などの対策を、相馬双葉、いわき市の両漁協に提示。同意を求められた漁師たちは新たな風評を危惧し、交渉の紛糾が続いた。原発事故による漁自粛以来の憤りは募り、信頼しようにも裏切られる相手との交渉役を担う佐藤さんの心労は積み重なっていく。

「一番厳しかったのは『サブドレン』を巡る問題だった」と今野さん。「サブドレン」とは、原子炉建屋の周囲の井戸から地下水をくみ上げる計画で、東電が2014年8月に提示した。汚染水そのものが混じる可能性があり、「浄化して海に流す」という東電の説明にも、福島県下の両漁協は「新たな風評を生む」と反対した。

海に放出するという東電側の話が報道で流れた途端、相馬双葉漁協の試験操業のシラスの値段が下がる事態も起きた。交渉は越年し、翌2015年2月下旬、東電の新たな背信が明るみに出る。原子炉建屋の屋上にたまった高濃度汚染水が海に流出し続け、東電は公表せずに1年余り放置していたと報じられた。佐藤さんは「信頼関係はまた崩れた」と当時語り、漁師たちは3月のコウナゴの試験操業先送りを強いられた。

同漁協が計画容認の意見をまとめたのは5カ月後。「受け入れなければ、福島の漁業復興の絶対条件である原発の廃炉へ1歩を進めず、苦渋の選択をするほかない」と、佐藤さんは最後には強硬な組合員らを説いた。「組合長はどっちの味方なんだ」という身内からの反発も背負いながら。

「俺は死んでもやり通す」

漁師たちが積み重ねてきた試験操業の成果を、振り出しに戻すような汚染水問題。「東電と渡り合い、組合の意見を取りまとめる苦労は並大抵でなく、相当に辛抱したのだろう。だが、苦しさを口にする人ではなかった」。小型船主会会長として佐藤さんを支える立場でもあった今野さんは打ち明けた。苦境で仲間の気持ちを1つにする努力は想像を超える。そのストレスのためかと思うほど、佐藤さんは痩身だった。「11年前、胃がんになって全摘をした」と幸司さんは語る。宝精丸の船長だった時代。

「陸に上がって治療に専念したが、早く漁をしたかったのだろう、1年半で船に復帰した。食欲がなく飯も食べられなかった。それで点滴を船に持ち込み、容器をブリッジからぶら下げながら漁をした」。我が身も振り返らない凄絶な気迫は、船長を幸司さんに譲って組合長となってからも変わらなかった。

昨年5月、新たに見つかった大腸がんの手術を受けた。経過は良好だったが、その後、腸閉塞に苦しんで3回ほど入院したという。その間にも、闘病を表沙汰にせず、いつも笑顔を見せ、悲願とした復興を少しずつ形にした。津波で被災した漁協本所や荷さばき場を昨年9月に再建し、製氷施設や漁具倉庫、共同集配施設なども整えた。同月には福島の浜通りを代表する魚であるヒラメの試験操業にこぎつけた。また、それまで漁自粛とされていた第1原発から10~20キロ圏の安全な環境の回復を確認し、今春から試験操業の海域を広げた。

組合長1期目の任期が近づいた今年3月ごろ、佐藤さんを囲む家族会議があった。「体調が悪くなる前に組合長を辞めて」「もう十分やった。続けてほしくない」「体の治療だけを考えて」。健康を案じる幸司さんも止めようと説得した。しかし、佐藤さんは「復興への事業をまだやり残している。俺は死んでもやり通す」と頑として聞かなかった。

「思えば死を覚悟し、余命を測りながら仕事をしていたのかもしれない」と幸司さん。幸いに佐藤さんの体調は良く、楽な気持ちで最後の手術を受けたという。4月いっぱいで退院し、組合長選任がある漁協の総会に出席する心づもりだった。「ところが、思いもしないような痛みがひどくなり、肺炎を起こし、意識がないままの最期の数週間を見守らねばならなかった」。

「われわれは前に歩む」

冒頭に紹介した競り入札の3日前、漁協で佐藤さんのインタビューをした。今年、避けられない問題として挙げたのが、福島第1原発でタンクにためられた約80万トンものトリチウム水(汚染水で唯一除去できない放射性物質)の行方だ。原子力規制委員会幹部らは「希釈しての海洋放出」案を主張するが、国内外に風評が広がる懸念は強く、政府の結論は出ていない。

「漁協、県漁連は一貫して『容認できない』と訴えてきた。国と東電はいずれ難しい選択を迫ってくるのだろうが、われわれは前に歩むことを考えなくてはならない」――。

あまりに重い宿題を抱えながらも、組合長は闘い抜いた。震災当時、消防士だった長男泰弘さん(27)も今、幸司さんと同じ宝精丸に乗る。復興への悲願は次代に引き継がれる。

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