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2018年03月02日 11時18分 JST | 更新 2018年03月02日 11時18分 JST

福島と京都の間で:古里の意味を問う「自主避難者」の旅(下)--寺島英弥

福島の「いま」を知るツアー

Getty Images/iStockphoto

 雲ひとつない五月晴れの空が南相馬市の上に広がった2017年5月5日の朝。福島県南相馬市原町区の相馬野馬追祭場に近い県営アパートの駐車場で、福島市からレンタカーでやってくる西山祐子さんと待ち合せた。避難から6年間の証言集を作るための聴き取り活動で、前年12月、京都から故郷の南相馬市に帰還した仲間の夫婦がこの県営住宅に暮らしているという。

「柏餅、好きかしら。いっぱい食べてね」。5階の居室で板倉禮子さん(72)は、京都から一緒に来た西山さんの娘真理子さん(現在8歳で小学3年)に勧めた。「季節のものを、おばあちゃんが用意してくれた。去年の今ごろ、おばあちゃんがいたものね」と、西山さんは京都で前年他界した母親をしのんだ。禮子さんは続けて、「ここは部屋が広く、きれいにリフォームしてあって、日当たりがいい」。居室は5階で阿武隈山地の緑を眺められ、隣に大きなスーパーがある。「買い物が便利で、病院も近い。私たちは年金生活だから家賃も安いの」。夫の明さん(75)はめまいがひどいといい、禮子さんも京都の6年間で膝を悪くし、帰還後に手術をした。「今は杖をつかずに歩ける。地元に住む妹が毎日来てくれて、世話になって病院に通っているの」。

 夫婦は東京電力福島第1原子力発電所から南に20キロ圏にある同市小高で、ガスと石油を扱う燃料店を営んでいた。「地盤が緩く、あの地震で近所の家がみんな壊れた。うちは昔の蔵造りだったので、屋根が道路を挟んで倒れて。(避難指示後、放射性廃棄物として)環境省に片付けてもらい、残った家の部分を今年3月に撤去してもらって、いまは空き地なの」と禮子さん。震災の後、「津波が来たから避難した方がいい」と聞いて店を閉め、高台の小高工業高の前で一晩過ごした。子どもがいない夫婦は、「4日くらい車に泊まって転々とした。地元の道の駅でも一晩お世話になり、ご飯をもらった。それから飯舘村を通って福島市に行き、市役所の避難所で弟から電話が入った。40年前から京都で反物の商売をしており、避難を誘われたので、すぐ行くことにした」。山科区の市営住宅に受け入れてもらったが、明さんは「地震当時、小高の浜沿いのお客の家に車で向かっており、すぐに引き返していなかったら津波に巻き込まれていた」と、しばらく夜に思い出しては苦しんだそうだ。

人が戻らぬ小高の街

「小高の家の跡を見に行きますか」と艶子さん。「帰還したら家を直そうかなと思ったけれど、いまは空き地ばかり。知り合いからは、小高は戻った人が少なくて商売ができないって聞いた」。県営アパートから車で20分ほど南の小高は、避難指示解除が2016年7月12日。それから1年後の2017年7月11日の『河北新報』に「全域が避難区域に含まれた小高区は帰還者2008人、(登録人口に対する)居住率22.5%」と報じられた。

 この日、車で通り過ぎた中心部には工事関係者の姿しか見えなかった。家々は震災当時のままの崩れかけた姿をさらし、解体の順番待ちか、解体工事中か、更地になっている。不通だったJR常磐線の原ノ町―小高間は、避難指示解除で再開したが、前述の記事には「地域活性化に向け、市は来年中に小高区内に交流拠点を整備する。延べ床面積約1900平方メートルの建屋を建設し、貸しオフィス、ボランティア向けの宿泊機能なども持たせる。地元で食材を購入できるよう、公設民営型のミニスーパーの建設も進める」とあり、いまだ買い物さえままならない街の復興策が紹介されていた。

 商店街の外れの住宅地に、板倉さん夫婦の家の跡がある。砂利が敷き詰められた更地に禮子さんは立ち、「ここが蔵(造りの家)、こっちが店だった」。原発事故が起きた当時を西山さんが尋ねると、「地震でガラスがみんな割れ、片づけていたら、『早く逃げろ』と、テレビを見ていた人が教えてくれた。小高には友だちも身内もいたけれど、ずっと連絡が取れなかった。携帯電話の充電器を家に置いてきたから。4日目に車で充電することができ、福島に着いたころにあちこちから一斉に電話が入ってきた」と振り返った。

 街のなじみの人たちとはもう連絡を取っていないという。「私は京都にいたし、みんなどこに行ったか分からない。携帯の番号も知らないし」。店の隣人が夫を亡くし、原町に家を建てたとの消息をわずかに聞いたそうだ。「自分の身内だって離ればなれで、住所も分からない人がいた。帰ってようやく集まる機会ができて、6年ぶりに消息が分かった人もいる」。明さんは「商売で回った地域には1000戸くらいあったが、戻ってきているのは1割」と言う。

異郷で確かめた絆

 西山さんは少しためらいながら、「家がなくなった跡に来ると、寂しい気持ちがありますか」と尋ねると、「何十年もやっていたからね、商売を」と艶子さん。燃料店は戦後間もない1951年ごろに両親が創業し、長女だった禮子さんは、神奈川県で働いていた同郷の明さんと見合い結婚をした。「神奈川に6年くらい住んだが、両親が50代の若さで相次いで亡くなり、2人で戻って店を継いだ」。まだ独立していなかった妹、弟3人も親代わりになって育てたという。

 燃料店跡で語った禮子さんは、西山さんの地元を尋ねた。「家は福島市ですが、父は相馬市、母が四ツ倉(いわき市)と浜通りの出身。仕事も父が警察官、母も警察職員で、最初がいわきの中央署、次に福島署に転勤して長く暮らしました。子どものころ、夏休みになると相馬に来て、6号線を南下して四ツ倉に行って。だから、浜通りには親しみがある。いまも父母の実家がありますし」と西山さんは語った。そして、しみじみと「違う場所で生きていた私も、京都に行かなければ、板倉さんと知り合いになれなかったね」。

 艶子さんは避難生活にも楽しいことがあったと語った。「膝が痛くなる前は散歩できた。京都で出会った避難者の仲間と、杖をついてあちこち出かけたなあ」。県営住宅の居室の壁に、散歩する板倉さん夫婦の写真が載った『京都新聞』の「夫婦 原発20キロ圏から京に避難 44年目『新婚』 前見つめ」という記事(2012年1月8日の朝刊)があった。

 もう古里に戻ることがないかもしれない不安と焦燥を、隣で眠る禮子さんの横顔に救われた――と記事には明さんの言葉がつづられていた。妻を誘って近所の桜並木を歩き、買い物や観光地など、必ず一緒に出かけるようになり、まわりから「年寄り新婚」と呼ばれた、と記事はつづった。「燃料店を継いで以来、忙しさで夫婦げんかをする暇もなかった」という2人が、異郷の暮らしの中で絆をつなぎ直していた。震災前の古里の姿も隣人も家業も戻らないが、「これからを生きていく力を京都で得たんです」。そんな夫婦を温かく支えたのが「みんなの手」の活動だった。

福島の「いま」を知るツアー

 2017年12月29日、年末の帰省客で混雑していたJR郡山駅(郡山市)に、真理子さんを連れた西山さんの姿があった。午後1時の待ち合わせに家族連れや夫婦ら計11人が集い、駅前から3台のタクシーで同市田村町に向かった。目的地は造り酒屋「仁井田本家」。「みんなの手」が企画する「ふるさととつながろうツアー」の一行だ。

「古里を離れて避難生活を送る仲間に『福島のいま』を知ってもらうチャンスにしてほしい」と西山さんは語った。今回は関西圏より広い範囲の各県庁に依頼して福島からの避難者へのお誘いメールを流してもらい、初めて福井、山梨からの参加者があったそうだ。20分ほどの車中で、年配の運転手が問わず語りにぼやいた。「『八重の桜』(2013年放映のNHK大河ドラマ)の当時は、郡山にも観光客がいくらか流れてきたが、それで終わり。地元は誘客のイベントを頑張っているが、客はいまだにさっぱり。県産品と同様、原発事故の風評が続いているんだ」。

 仁井田本家は、旧田村町の里山と水田の風景に溶け込むように立つ古い酒蔵。「京都で出会った避難者に郡山の居酒屋の奥さんがいて、自然を大切にした酒造りをしている、と教えてくれた。福島のお酒を応援して『みんなのカフェ』で使わせてもらおうと、『写楽』『花泉』(いずれも会津)などとともに取り寄せたのが仁井田本家のお酒。それ以来、訪ねてみたかった」と西山さん。福島県産の酒は近年、「全国新酒鑑評会」を席巻している。2016酒造年度も、金賞受賞が都道府県別で22銘柄で最多となり、5年連続日本一を達成。福島第1原発事故の風評払拭のために地酒の業界が一丸となった研究と努力の賜物だという。「温暖化の影響で酒米の適地が福島に移って最高の酒を作る条件が整い、原発事故がなければ本来、福島の酒は全盛期を迎えていた」という評価も、西山さんは聞いていた。「福島で頑張っている人々の生の声を共有したかったのです」

風評に抗う「自然酒」造り

「金寶自然米栽培田」。仁井田本家の自社田にはこんな看板が立っている。「金寶」はよく知られた伝統銘柄の酒。「1711(正徳元)年の創業から300年を迎えた年に、東日本大震災と福島第1原発事故が起きた」と18代目の社長仁井田穏(やす)彦さん(52)は、ツアーの一行に語った。計6ヘクタールの自社田で「稲わらだけを田んぼに返す」という栽培法で「日本で初めて無農薬、無肥料の自家栽培の酒米と天然水で作る酒を実現させた、その年だったのです」。

 放射性物質の拡散エリアから外れた旧田村町では大気、土壌ともに汚染を免れたが、風評で「売り上げは2割落ちた」。自然食品や有機栽培(オーガニック)、環境に優しい商品を支持する消費者ほど原発事故の影響を厳しく敏感に受け止め、それゆえに「福島県内で有機農業に取り組んできた生産者は販路を失い、いまも苦戦している」。

 酒米や水、出荷前の酒の検査結果も問題ないとPRするだけでは足りず、仁井田さんは消費者たちに酒作りの環境、プロセス、味を知ってもらうイベントを続けている。田植え、草取り、稲刈りまで手作業の酒米作りから、新酒を搾って味わうまでを客が体験する「田んぼの学校」だ。除草を助けてくれる希少な「カブトエビ」が自社田に生息しており、これはあくまで自然な酒造りの象徴でもある。秋の「感謝祭」には自然・有機栽培の農家や加工食品作りの仲間たちも店を出し、「田んぼの学校」の参加者と交流している。消費者とじかにつながる酒造りの努力で、これまでに参加者は延べ5000人を超えている。

 西山さんは、みんなのカフェでの経験を思い出したという。「開店した当初、『福島のものを食べたくない』という声を聞き、福島の酒を店で出すことに迷いがあった。でもそれから、日本酒は原料のコメを芯近くまで削って(精米して)いると知りました」と、仁井田さんの話の後に手を挙げて語った。筆者が取材した飯舘村のコメ試験栽培でも、精米後の放射性物質は皆無で、もとより福島県が風評対策で毎年実施する新米の全袋検査では玄米段階で検出ゼロが続いている。仁井田本家の人々も風評に抗いながら自然な酒米作りを貫き、消費者とも協働を重ねることで、安全を実証し信頼を培ってきた。

古里とつながる思い

 ツアー一行からも手が挙がり、「古里の人たちのこれほどの頑張りを知って、勇気をもらった」「努力の結晶のお酒を味わってみたい」「もっと多くの人に知ってもらいたい」と口々に共感が語られた。参加者たちは搾りたての原酒や『自然酒』、『穏(おだやか)』などの銘柄を「おいしいね」と試飲し、避難先へのお土産にお酒、麹の加工飲料やスイーツを買い求めた。放射能の不安から遠い異郷へと離れた人々が、再び古里とつながった瞬間だ。

「お土産を買う人はいないかもしれないとも思った」という西山さんの心配は外れた。子どもの健康や被ばくへの懸念から避難した人々は、福島産のものに抵抗を感じることもあるからだという。「ツアーのみんなは、応援しようという思いになってくれた」。

 西山さんの親しい仲間で、子どもと共に京都に避難している女性がツアーに毎回参加してくれている。福島市に残って仕事をしている夫も合流し、家族でこの日を楽しんだという女性は、「帰ってこようかな。福島で頑張っている人たちの話を聴かせてもらったから」と語ったそうだ。

 福井県への避難者で、初めてツアーに参加した独身の女性もいる。会津で看護師をしていたが、原発事故と同時期に仕事をなくし、地元の混乱も重なった折、福井の友人から『仕事に空きがある』と知らされ、避難を決心した。ツアーへの誘いのメールを受け取り、「1人きりで孤立感があって、疲れていた。参加してもいいですか」と西山さんに電話をしたのが縁の始まり。避難先になじめず、ストレスのためか体調を崩して仕事を休んでいたという。仁井田さんの話を聴き、6年ぶりに同胞たちと交わり、「福島の人とつながれてよかった」。帰路の郡山駅では最後まで残って名残を惜しみ、涙を流して西山さんと握手をした。

 西山さんは、「福井に1人でいないで、よかったら京都に来てみてと誘ったの。彼女が『会津は良かった』と言うので、古里がいやになった訳ではないのだから、『戻ってきてもいいんじゃないの』と尋ねてみた。看護師ならどこでも仕事ができるのだから、私が会津に帰るチャンスを探してあげてもいい」と笑顔で語った。「避難者には、いまも彼女のように孤立に悩み、声を上げられないでいる人がたくさんいる。もっと呼び掛けを広げて、このツアーを続けていかなくてはと思う」。

 会津出身の女性は、その後も西山さんが連絡を取り、2018年1月7日、「みんなの手」が正月の京都で催した餅つき大会に福井から参加したという。かごの鳥のような避難生活から「ようやく一歩を踏み出してくれた。いまは看護士の仕事への復帰は考えていないそうで、『京都に出て、新しいことをしてみたい』と笑顔で話していた」と、西山さんもうれしそうに語った。

人生の選択は2年後に

 それでは、西山さん自身は今回の「ふるさととつながろうツアー」で何を見つけたのだろう。「私が福島を離れた2011年と比べて、古里は変わってきた。震災、原発事故があって、みんな、しんどい経験をしてきたのは同じ。残った人たち、とりわけ自然と関わって『ものづくり』をしてきた人たちは、風評をはじめ、さまざまな困難、課題にぶつかってきた。でも、仁井田さんのように自らの原点に戻って、信じる道を追い求めている人たちがいる。がけっぷちに立たされ、見えてきた道を極めることで苦境を乗り越えようとしている。マイナスからの出発であっても真剣勝負を続けている。そんな福島の姿が見えてきた」

 頼る人もなかった京都で開いた「みんなのカフェ」の経営者の自分を、そこに重ねたという。

「みんなの手」の活動には福島県などが補助金を出してきたが、「それも東京オリンピックがある2020年までかもしれない」と西山さん。「これから京都の仲間の生き方がそれぞれに決まれば、活動の役目は小さくなっていく。最後は、私自身が京都に残るか、福島に帰るか、という人生の選択だが、それはまだ決められない。やりかけのこと、始めたばかりのこと、新しい目標を見つけたことがあるから」。西山さんは前述のように、福島市や仙台市で英語の通訳者、講師の仕事をしていたが、原発事故で運命が変わらなかった同胞がいなかったように、元の生活、元の自分に戻ることは難しいと感じている。

 避難者を支える活動とは別に、自らが悩み、試行錯誤し、いまの目標にしているのが「自立」。経営して4年半余り、京都での生活の柱になった「みんなのカフェ」を、もう「福島からの避難者がやっている店だから」でなく、「真剣勝負で味を極める」ことで選ばれる店にしようという挑戦だ。「こだわりたいのが『わっぱ飯』」。杉の「曲げわっぱ」の丸い弁当箱ごと、ご飯と旬の食材をだし汁で蒸し上げた会津の郷土料理だ。「みんなのカフェ」では3年前から定番メニュー(鶏、帆立、鮭の3種)で、「うちのわっぱ飯は、だし汁の味などを京都の人の口に合うように工夫した"京わっぱ"」と西山さん。今回のツアーに合わせて、店の2人の料理人と本場会津のわっぱ飯の店を巡り、さらなる研究を重ねた。「古里の味を京都に伝え、それを通して『福島』が自然に受け入れられていけたら。京都と出合い、福島との縁をつなぐ自分の使命であり、人生の仕事のように思える」。

 カフェのある町屋の賃貸契約もあと2年。「そこまで真剣勝負をすれば、次の生き方も見えてくるでしょう」

 少しだけ先を見つめながら、西山さんはそう語った。


寺島英弥 ジャーナリスト。1957年福島県生れ。早稲田大学法学部卒。河北新報元編集委員。河北新報で「こころの伏流水 北の祈り」(新聞協会賞)、「オリザの環」(同)、「時よ語れ 東北の20世紀」などの連載に携わり、2011年から東日本大震災、福島第1原発事故を取材。フルブライト奨学生として2002-03年、米デューク大に留学。主著に『シビック・ジャーナリズムの挑戦 コミュニティとつながる米国の地方紙』(日本評論社)、『海よ里よ、いつの日に還る』(明石書店)『東日本大震災 何も終わらない福島の5年 飯舘・南相馬から』(同)。3.11以降、被災地における「人間」の記録を綴ったブログ「余震の中で新聞を作る」を更新中。
関連記事 (2018年2月28日フォーサイトより転載)