レッスンプロも覚悟した「遅咲き」宮里優作が交わした「父との約束」--舩越園子

「やっと、スタートライン。やっと、自分のやりたかったことが始まった」

「やっと、スタートライン。やっと、自分のやりたかったことが始まった」

世界選手権シリーズの「WG-メキシコ選手権」会場で、宮里優作は拳を握り締めながら、何度も何度も「やっと」を口にした。

やりたかったこと――もちろん、それは長い間、目標に掲げてきた「マスターズ」(4月5~8日開催)に、37歳にして初出場することを指していた。

昨年11月の日本ツアー最終戦「ゴルフ日本シリーズJTカップ」を圧勝して逆転で賞金王に輝いた後、アジアンツアー最終戦「インドネシアン・マスターズ」(12月、4位)でマスターズ出場資格である世界ランキング50位以内に食い込み、ようやく手に入れた「オーガスタ・ナショナル・ゴルフクラブ」への切符。

マスターズ委員会から招待状が届いたことを報じた日本メディアの複数の記事に、宮里と父・優氏との約束の言葉が引用されていた。それは、2007年に結婚した宮里が披露宴のスピーチで口にした言葉とされていた。

「いつか必ずオヤジをマスターズに連れていきます」

だが、よくよく聞いてみたら、それは宮里がまだ高校生だった1990年代半ばごろに父親と交わした約束だそうで、それを公にしたのが結婚披露宴だったということ。父と息子の約束は、結婚より10年以上も前、今から20年以上も前に交わされたものだった。

「高校生のとき、オヤジがぼそっと言ったんです。『マスターズに、いずれは連れていってくれよな』って。まあ、特別な理由や意味があるというよりは『行きたいなあ』ぐらいの感じでしょう。でも、本当に行きたがっていて、『行ったら死んでもいい』って(笑)。ついこの前、(病気で倒れて)本当に死にかけましたけど。でも今年、オヤジとの約束がやっと叶います」

宮里が拳を握り締めながら「やっと」を強調した理由は、そこにあった。

「まず日本で勝てないと」

宮里のこれまでのキャリアや人生において、「最大の転機と呼べるものがありましたか?」と尋ねてみた。

東北福祉大学在学中の2002年12月にプロ転向した宮里は、2013年に日本ツアーで初優勝を遂げるまで、実に11年を要した。だから、転機はきっと「やっぱり初優勝です」と答えるのではないか。そう予想していたが、宮里の答えは、まったく違った。

「転機は、そうですねえ、だいぶ遡るんです。高校受験するときかな」

プロゴルファーを目指すか、目指さないか。父・優氏と話し合い、2つに1つの決断を迫られた。プロを目指すなら大阪の高校、目指さないなら地元沖縄の高校へ行く。宮里は前者を選び、大阪桐蔭高校へ進学した。

そして優氏から「マスターズに連れていってくれよな」と言われて頷いた宮里は、そのときから視線を海の外へ向け始めた。プロになって、早くマスターズに出たい、世界に挑みたい。その意欲が以後の彼の原動力になった。

アマチュア時代、東北福祉大学時代はタイトルを総なめ。日本ジュニア、日本学生、日本アマチュア、それに日本オープンのローアマ(プロトーナメント出場アマの中のトップ)など輝かしい戦歴をひっさげ、2003年、日本ツアーにデビューした。

「そのころは、早く勝ちたいというより、早く海外に行きたかった。沖縄県出身の先輩プロではすでに友利(勝良)さんがヨーロピアンツアーに出ていたし、米国の大学在学中に腕を磨いてプロ転向し、欧州ツアーでも戦った佐藤(信人)さん、手嶋(多一)さんの例もあったので、海外なら(欧米)どちらでも良かった。とにかく(世界の)どこかでやりたかった」

実際、宮里はプロデビューした2003年と翌04年に米ツアーの予選会に挑んだ。だが、2003年は最終予選、04年は2次予選で敗退。日本ツアーでは勝てない日々が続いた。

「まず日本でばかばか勝てないと向こうに行っても通用しないぞと思い始めた」

世界への挑戦意欲を失うことは決してなかったが、日本で勝てないという焦燥感は徐々に募っていった。

落ちるところまで

「次の大きな転機と言ったら、結婚して名古屋に越したことがそうだったのかもしれない。結婚して子供もできて、ありきたりな言い方ですけど、自分のためではなく家族のために頑張ることがエネルギーになった。家族を養わなきゃいけないんだから四の五の言っていられないと思って、すごくゴルフのスタイルが変わりました。自分のためだけなら妥協しまくりだったんですけどね」

「焦り」は「覚悟」に変わった。しかし、それでもなかなか勝てなかった。優勝どころか、シード落ちの危機に瀕した。

「お先真っ暗なときがありました。日本のシードが取れるか取れないかという位置でやっていたときは、シード落ちしたら沖縄に帰ってレッスンプロをやろうと思っていました。オヤジの手伝いして。そんな目標でやっていたわけじゃないので、ああ、落ちるところまで落ちたなあって。でも、ぎりぎり通った(シード維持できた)ので、何か意味があるのかな、まだ体も動くし、やれるかなって」

そんな宮里のどん底の時期は、米女子ツアーで戦っていた妹・藍ちゃんがスランプから復活した時期より少し後だった。

「妹の立ち直りは、すでに見ていました。妹と一緒に(メンタル&技術コーチの)ピア(・ニールソン)とリン(・マリオット)のところへ行ったのが僕にとっても大きかった。せっかくゴルフをやっているのだから楽しんでもいいんじゃないかって思えるようになった」

そもそも宮里の周りには、いつもカギになる誰かがいる。宮里自身、誰かのためを想ってゴルフをすることを自分のエネルギーに変えている。父親をマスターズに連れていくために頑張る。妻や子供たちを守っていくために頑張る。スランプから復活した妹を励みにして頑張る。その気持ちが宮里を奮起させ、2013年の最終戦「ゴルフ日本シリーズJTカップ」で、プロ転向から11年目にして、ついに初優勝を遂げた。

届いた招待状で実感

2014年、2015年も1勝ずつを挙げ、順調な道を歩み始めた宮里。だが、選手会長に就任した2016年は勝利のない1年になった。

「あの年はひどかった。いろいろ(日本ツアーに)ゴタゴタもあって、毎週月曜は会議をしていて、試合が始まってもずっとそんな感じ。エネルギーをゴルフに向けられていない感じで、何もできなかった」

それが、選手会長2年目の昨年は、「慣れたのと、青木体制(プロトーナメントを主催するJGTO=日本ゴルフツアー機構の青木功会長)になって(ツアーの運営などが)スムーズになり、他選手も協力的で、去年は楽でした」。

多忙な選手会長とプレーヤーを掛け持ったことで「精神的に強くなった。少ない時間を大事にして、どんな状況でも対応できるという勉強になった」という2017年は、自身の中でも懸案だったパッティング技術の向上も目覚ましく、すべてが上向いた。4月の「中日クラウンズ」を皮切りに5月のメジャー「日本プロゴルフ選手権」、10月「ホンマ・ツアーワールド・カップ」を制し、最終戦の「ゴルフ日本シリーズJTカップ」を2位に6打差で圧勝。そして、初の賞金王に輝いた。選手会長としての賞金王は史上初の快挙だ。

「もちろん、ゴルフしている瞬間、パットを沈める瞬間は自分のためだけど、賞金王になったとき、周囲の人々がすごく喜んでくれたのが、本当にうれしかった」

自分がゴルフで成し遂げたことが人々に感動と笑顔をもたらす。その満足感、達成感がうれしいのだと宮里は言う。

そして、20年以上も前に父・優氏と交わした「マスターズに連れていく」という約束をついに実現できることが、何より心の底からうれしいのだと笑った。

「年末ギリギリに世界ランク50位に入れて、ようやくマスターズから招待状が届いて、ああ、これでやっと本当に出られるんだって実感しました」

宮里はまだオーガスタには1度も行ったことがない。今、頭の中で思い描いているオーガスタ攻略法は、「飛距離では世界の強豪たちに全然置いていかれるだろうし、今から20ヤードは伸びないので、逆に290ヤードをどれだけ毎回打てるか。安定性で勝負したいです」。

父・優氏との約束は、来たる4月のマスターズで「やっと」叶えられる。だが、それはもちろん宮里のゴールではない。

「やっとスタートライン、やっと自分のやりたかったことが始まったという感じです。せっかくもらったチャンス。どんどん行かないと。40歳を越えると少しずつ落ちてくるだろうから、行けるときに行かないと」

ただいま37歳。「ようやく花の人生ですね」と声をかけたら、宮里は「花ですか」と照れ笑いしながら頷いた。

「やっと」開き始めた人生の花。誰かのために、そして自分自身のためにも、これから「もっともっと」咲かせていってほしい。

舩越園子 在米ゴルフジャーナリスト。1993年に渡米し、米ツアー選手や関係者たちと直に接しながらの取材を重ねてきた唯一の日本人ゴルフジャーナリスト。長年の取材実績と独特の表現力で、ユニークなアングルから米国ゴルフの本質を語る。ツアー選手たちからの信頼も厚く、人間模様や心情から選手像を浮かび上がらせる人物の取材、独特の表現方法に定評がある。『 がんと命とセックスと医者』(幻冬舎ルネッサンス)、『タイガー・ウッズの不可能を可能にする「5ステップ・ドリル.』(講談社)、『転身!―デパガからゴルフジャーナリストへ』(文芸社)、『ペイン!―20世紀最後のプロゴルファー』(ゴルフダイジェスト社)、『ザ・タイガーマジック』(同)、『ザ タイガー・ウッズ ウェイ』(同)など著書多数。

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(2018年3月6日
より転載)

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