「遊民経済学」への招待(1) 何用あって北陸へ

「働くことよりも遊ぶことが人生の中心になりつつある時代において、経済の常識はどんなふうに変わっていくのか」北陸新幹線が北陸の県民性を変える?

日曜日の夕方、上野駅の地下20番ホームに立ってみて驚いた。ほとんど5分間隔で新幹線が来るのである。しかもその行き先が実にバラエティに富んでいる。

16:14 あさま 長野行き(長野新幹線)

16:18 やまびこ 仙台行き(東北新幹線)

16:26 はやぶさ・こまち 新青森/秋田行き(東北・秋田新幹線)

16:30 かがやき 金沢行き(北陸新幹線)

16:34 はやて 新青森行き(東北新幹線)

16:38 とき 新潟行き(上越新幹線)

上野駅の20番ホーム。4分おきに違う種類の新幹線が入ってくる。

ホームで待っている乗客は高齢の方が多いようなので、間違えた車両に乗ってしまうのではないかと見ていて心配になる。東京駅ならば乗り場が別々に表示されているが、上野駅ではそれらがまとめて1本のホームに入ってくる。まあ、途中で気が付けば、大宮駅で乗り換えるという手があるのだけれど。

次々にホームに入ってくる新幹線は、それぞれに車体が個性豊かである。新青森行きの「はやて」はモスグリーンの車体で先頭部分が尖っている。秋田行き「こまち」の先頭部分は派手な赤色に染まっている。新潟行きの「とき」には、2階建て車両がついている。そして目指す北陸新幹線は、アイボリーの車体に丸みを帯びた青が先頭部分を覆い、さらにゴールドのストライプが入っている。

思えば国鉄の分割民営化が発足してから30年近くがたつが、新幹線の車体がこれだけ多種多様に進化を遂げると誰が想像し得ただろうか。当初は新幹線といえば、東海道新幹線の「ひかり」と「こだま」だけであった。ところが今では、東北から九州までをさまざまな車種が走っている。いくつもの進化が枝分かれして、今ではまるで円谷プロのウルトラマンシリーズのように多種類の新幹線が誕生している。

何よりわが国の新幹線は、これだけ長く運用されてきて死亡事故を1件も起こしていない。東日本大震災から新潟県中越地震まで、大小様々の災害に見舞われているにもかかわらず、である。今では新幹線は、日本という国のありようを示すシンボルみたいなものになっている。

以前、ロサンゼルス国際空港で時間待ちの間、書店で世界各国の観光案内を見ていたことがある。Frommer'sという観光ガイドのシリーズは、インドであればタージマハールが、中国であれば万里の長城が表紙になっていた。さて日本はどうなっているのかと思い、探し当てた東京版のそれは、新幹線のホームが表紙を飾っていた。それも500系の車体の前で佇む和服姿の日本女性という図柄である。

つまり、もっとも外国人にアピールすると思われる日本の風景とは、「新幹線と和服美女」の組み合わせであった。これが何を意味するかというと、①新幹線に代表されるハイテク技術、②和服に代表される美的な伝統、③なおかつ綺麗な日本女性、という3つの要素が、無理なくひとつに溶け合っているということなのであろう。

Frommer's Tokyo, 8th Edition Paperback - Jun 11 2004

ハイテク技術と美的な伝統、そして日本人という3つの要素は、不思議なことにアイデンティティの分裂を起こさない。ちゃんと調和がとれている。これがほかの国であれば、「技術優先か伝統擁護か」で果てしない論争が起きてしまうところである。ところが日本の場合はその辺が柔軟にできていて、技術と伝統がお互いを尊重するようになっている。だから「新幹線と和服」という組み合わせが、ちっとも不自然ではない。新幹線は、単に速度や安全性や時間の正確さだけを誇るべきではないのである。

さて、今年3月14日から、新たな新幹線の仲間として加わったのが北陸新幹線だ。筆者は富山市出身というご縁もあって、2月2日にホテルニューオータニで行われた北陸経済連合会主催の「北陸フォーラム」で、セミナー講師に呼んでもらっている。この日は首都圏の北陸ゆかりの企業や観光業関係者約1300人を招き、新幹線開業を間近に控えた北陸3県のPRを盛大に行った。

この日、挨拶に立った北経連の永原功会長が曰く、「北陸はAKBで売る」。すなわち、甘エビ(A)とカニ(K)とブリ(B)のことで、やはり北陸といえば海の幸なのである。当日はこのAKBが大盤振る舞いで、しかも、和の鉄人こと道場六三郎翁(石川県ご出身だとは初めて知りました)が調理を手掛けるという徹底ぶりであった。

ということで、筆者は既に北陸新幹線を宣伝する片棒を担いでいるわけであるし、地元のメディアから「新幹線の経済効果は?」などというインタビューを受けたりもする。これで自分が乗っていなかったら、詐欺師もいいところであろう。これは是非、ご招待ではなく、自腹で乗らなければならない。

たまたま筆者の実家は、富山駅から歩いて20分くらいのところにある。そして今の自宅は千葉県柏市で、これまた駅から徒歩10分のところにある。常磐線で上野駅に出て北陸新幹線に乗り継ぐと、ドア・ツー・ドア4時間以内で到着できてしまうのだ。往復の乗車券と指定席券は2万6000円弱とけっして安くはないが、これまで飛行機で往復していたことを考えれば夢のような価格である。

ちなみに北陸新幹線の開業と同時に、全日空と日本航空は富山空港と小松空港行きの料金を大幅に値下げしている。特に早めに予約するとディスカウント率が高いので、新幹線料金よりも安くなる。富山県内では、「自治体関係者はなるべく出張には飛行機を使用するように」とのお触れが出ているとのこと。経済学が教える通り、競争が起きるというのはまことに良いことなのである。

新幹線が開通した3月14日は好天に恵まれた。当日の地元の歓迎ぶりは、富山県の地方紙である北日本新聞の分厚い紙面が余すところなく伝えてくれている。なにしろ翌日の紙面は1面から13面までが新幹線特集であった。さらに別刷りが3通りもあって、新幹線開業を祝う地元企業による協賛広告があって、まるでお正月のような紙面となっている。

当日の朝は午前4時30分から、一番列車を見ようと富山駅に入場券を買い求める行列ができた。東京行きの「かがやき500号」がホームに入ってきたのは午前6時18分。「気持ちは分かりますが、ホーム柵から身を乗り出さないでください」――警備員が声を張り上げた、と記事にある。

気になる乗車率は、初日は「かがやき、はくたかともに午前の指定席がほぼ満席(1編成の定員は934人)で、全席指定のかがやきは午後も満席に近い状態」であったとのこと。その後も休日は指定席が取りにくいが、平日は比較的空いているようである。

少し意地悪く言うと、この熱狂ぶりは普段あまり注目されたことのない人が、急にスポットライトを浴びて舞い上がっているようなところがある。そもそも北陸は全国的にプレゼンスが低い。筆者など「出身は富山です」と告げた瞬間に、「ええっと、それってどこにあるんだっけ?」と逡巡するような相手の反応を、今までに何度経験したかわからない。ほら能登半島の右側ですよ、などと言っても、そもそも能登半島の位置が認識されていないことだって少なくないのである。

一例をあげると、文京区白山に東京富山県人会連合会のビルがある。その1階には、北陸銀行白山支店が入っている。なぜここに富山県関係の施設があるのか、というのは筆者の長年の疑問であったのだが、先日、県人会の総会に出てみたら答えは一発で分かった。この一帯はその昔、加賀前田藩の勢力圏であった。今の東京大学が昔の加賀藩邸跡にあることは比較的知られているが、そもそも「白山」という地名からして、「石川県の白山」に語源があるのだそうだ。今の文京区から板橋区にかけては、江戸時代から北陸関係者が多く住んでいたそうである。

しかるに、そのことはほとんど知られていない。どうやら北陸出身者は、昔からロープロファイルというか、自らのプレゼンスを敢えて低く保つような性向があったのではないか。それが新幹線開業効果でめずらしく注目を集め、そのことが嬉しくて仕方がない、といった印象がある。

上野駅で乗り込んだ「かがやき511号」は、大宮と長野に停車した後はいきなり富山駅に到着する。乗り心地は良いし、すべての座席に電源がついているのはまことにありがたいが、トンネルが多いためにWi-Fiの電波はしょっちゅう切れる。だからネットにつないで仕事をするにはあまり向いていない。とはいえ、わずか2時間少々で富山についてしまうのだからありがたい。

富山駅正面玄関。往時を知る者としては隔世の感がある。

長らく工事中であった富山駅は、今では見違えるようになっていた。確かに新幹線ホームがある駅というのは、そうでないJRの駅に比べて格段に立派である。往時の富山駅を知る者としては隔世の感がある。そもそも北陸新幹線の構想は、筆者が富山市内の小学生であった1970年代に始まっている。途中、何度も座礁しかかって、文字通り半世紀近くたって陽の目を見たことになる。

ところが新幹線が出来てみると、どこに人気が集中するかは一目瞭然であった。なんといっても金沢である。それくらい加賀百万石のブランド力は絶大なのである。真面目な話、日本政策投資銀行が行った経済波及効果の試算では、石川県が124億円、富山県は88億円となっている。富山市内の書店でさえ、金沢の観光情報誌が山積みになっているくらいである。「『かがやき』号はホントは『加賀ゆき』」という自虐ジョークさえある。

富山市内の書店にて。東京や金沢の観光案内が平積みになっている。

富山と石川の県民性を、昔から「越中強盗、加賀乞食」と呼ぶ。加賀百万石の繁栄のお蔭で、石川県は穏やかで文化的な人が多くなり、その支藩で苦労が多かった富山県では勤勉で抜け目のない人が多くなった、と説明されている。工業化の時代には、富山の県民性はまことにぴったり合っていて、YKKなどの多くの企業が育ったし、安田善次郎など財界人も多く輩出した。が、果たしてこれからの時代にはどうなのか。

1960年代に新産業都市に指定された地域は、富山・高岡地域だけでなく岡山県南や大分地域なども多分にそういう傾向があると思うのだが、しかるべき観光資源を有していてもそれを積極的に見せようという意識に欠ける。「観光なんかで儲けちゃ悪い」みたいな変なストイシズムがあるように見える。

ところが今や時代は工業から商業へ、モノからサービスへと移りつつある。もっと言ってしまうと、「働くこと」よりも「遊ぶこと」が経済活動の中で重きをなしつつある。家の中はモノでいっぱいで、いまさら欲しい新製品も思いつかないのだけれども、思い出だけはいくら増えても困らない。そういう時代においては、まさに観光こそが地域創生のカギを握る。となると、今の時代には石川の県民性の方が向いているのではないか。

この辺の事情は行政の側でもよくわかっていて、富山県は新幹線開業に合わせて観光関係者の「教育」に力を入れてきた。確かにタクシーの運転手さんが、「富山はなーんも見るもんないちゃ」と言ってたのでは、せっかくやって来てくれたお客さんが困ってしまう。新幹線開業は、「駅前をきれいにしよう」「わかりやすい案内図を用意しよう」といった外見の変化に始まって、「県外の人に『おもてなし』しなければ」と精神面にもじょじょに影響を及ぼしつつあるようだ。

そこでふと思い出したのは、「日本人はいつから時間に正確になったのか」という話である。日本の鉄道の定時運行は、海外の人々がよく驚くところだが、いつからそうなったのか。少なくとも、江戸時代までの日本には「分」という時間の単位はなかった。ということは、せいぜいこの150年くらいの間に培われた習性だということになる。

ホームに入ってくる「かがやき514号」。

筆者の仮説は、「日本の鉄道が時間に正確だったから」である。それではまるで堂々巡りのようになってしまうが、おそらく日本人は鉄道に乗ることによって「公共のスペース」という概念を知り、「分」という時間の刻みを学習したのではないか。つまり、日本の几帳面さが正確無比な鉄道システムを構築し、その鉄道が時間に正確な国民性を形成した。鉄道は日本人が作ったものだが、日本人もまた鉄道によって作られたのではないだろうか。

そうだとしたら、北陸新幹線が北陸の住民たちの県民性を変える、というのも大いにありそうなことである。

これからこの連載で考えていきたいのは、「働くことよりも遊ぶことが人生の中心になりつつある時代において、経済の常識はどんなふうに変わっていくのか」である。とりあえず初回は話題の北陸新幹線に乗ってみて、観光と地方創生について考えるきっかけにしてみたつもりである。

ちなみに夜は富山市内の行きつけの回転寿司に出かけて、父と妹と3人で氷見の朝とれのネタを腹いっぱい食べた。〆てみたら7700円。これぞ富山価格というもので、「のどぐろ」みたいな高い皿を取らなければ、夜でもこの程度なのである。

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吉崎達彦

双日総合研究所取締役・チーフエコノミスト。1960年(昭和35年)富山市生まれ。一橋大学社会学部卒業後、1984年日商岩井(現双日)に入社。米国ブルッキングス研究所客員研究員、経済同友会調査役などを経て現職。新聞・経済誌・週刊誌等への執筆の他、「サンデープロジェクト」等TVでも活躍。また、自身のホームページ「溜池通信」では、アメリカを中心に世界の政治経済について鋭く分析したレポートを配信中。著書に『溜池通信 いかにもこれが経済』(日本経済新聞出版社)、『1985年』(新潮新書)など、共著に『ヤバい日本経済』(東洋経済新報社)がある。

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(2015年4月4日フォーサイトより転載)

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