福島原発事故「4年半」の現実 国が進める「棄民政策」

馬場町長の言う「誰も責任をとらない日本社会」の基本的な行動原理とは?

今年の夏は、東京電力福島第1原発事故4年半の節目を前に、後に歴史の大きな転換点として刻まれるであろう出来事が立て続けに起きた。

第1は鹿児島・川内原発の再稼働。そして第2は東電元幹部3人に対する東京第5検察審査会による強制起訴議決である。

国と原発ムラによる演出

「8月11日は、あれだけの犠牲を出した大事故の月命日ではありませんか」

この日に川内原発を再稼働するのが決まったとの報せを受け、怒りに唇をふるわせて抗議したのは福島・浪江町の馬場有町長だった。国内すべての原発が停止してほぼ2年。全国民が注目する川内再稼働を、よりによって因縁のこの日に実行するのは一体どういう了見なのか、と馬場町長は言いたかったのだろう。

浪江町は今も全町民が町外避難を強いられ、9月11日で事故後4年半になるというのに、流浪生活に終止符を打つめどすらついていない。

浪江町に限らない。馬場町長の言葉は、福島県民大多数の本音を代弁している。

「福島の事故の原因が究明されないうちに再稼働を行うことは、科学的にも倫理的にも許されない」

「現に国内の電力供給は原発なしでまかなわれている。国民と企業の節電努力や代替エネルギー技術開発によってそれが実現している現実をどう評価するのか」

「全原発が停止している現在こそ、国の将来を原発に頼るべきか否かを考える貴重な機会ではないか」

全国54基すべての原発が停止した状態の下で、様々な意見が出された。

しかし、これらの議論が当事者の間で真剣に闘わされたとは言いがたい。国と電力会社は、国民を巻き込んだエネルギー論議にまともに応じることはなく、ひたすら「再稼働ありき」のかたくなな態度に終始してきたからである。

再稼働は国の既定の方針とされ、問題はそれがどの原発か、いつになるのかだけが焦点になっていった。

そしてこの因縁の日。川内再稼働は国と原発ムラによって演出された原発推進のためのイベントとなった。

「『8.11再稼働』は反発する県民・被災者の感情を逆撫でし、あざ笑った。これ以上反対できるものならやってみろと言わんばかりの挑戦的な選択だ」。双葉町からいわき市に避難し、東電への賠償訴訟を続ける主婦グループは泣きださんばかりの表情でつぶやいた。

実際、再稼働をするだけならわざわざこんな反発を呼ぶ日を選ぶことはない。この演出は、これからは原発問題すべてに強気で臨むという安倍晋三政権の国民へのメッセージであり、被災者には賠償や復興政策にここではっきり「区切り」をつける、つまりこれ以上、限度なく財政資金を被災地に投入しないという福島県民への冷酷な通告だったのだろう。

政府の意図

今年に入ってから政府は、その見方を裏付けるように、苛烈な政策を次々と打ち出した。

被災者への支援の目安となってきた避難指示区域を解除し、それに伴って東電による住民への慰謝料支払いを終える。区域外から県内や他県に逃げ出した「自主避難者」には2017年4月以降、これまで行ってきた「みなし仮設住宅」の提供をやめる。商工業者に対する営業損害賠償も来年3月で打ち切る。

貴重な生活費になってきた慰謝料がなくなり、住む家もなくなる。いったいどうすればいいのだ――被災者の声は悲痛だが、国の方針はもはや決して揺るがない。「元の地域が既に住める状態になっているのだから、そこに帰ればいいのだ。それなのに、いつまでも支援金を払っていると故郷に帰ろうとしなくなる。帰還がいやならその選択は自己責任なのだから国は関与しない」。

これは恐ろしい態度である。こうやって被災者の権利を奪われ切り捨てられた人々、たとえば県外に自主避難したままで、なかなか帰ろうとしない県民は、これから後は実質的に県民としてさえ認められなくなるのかもしれない。次回でも触れるが、その背後に見えるのは、あの大事故は今はもう終わったこと、さらに言えば、なかったことにしたいという政府の意図である。

被災者はだませない

今も10万人を超える人が家を失ってさまよい苦しむ現実をよそに、こんなばかげた話を創りあげて政策として強引に実行するのはなぜなのか。

▽世界中から要人や観光客が来る5年後の東京オリンピックまでに、「ぼろ」を隠してしまいたい(被災者や汚染された土地は国家の栄光を汚す「ぼろ」にすぎない)。

▽国の財政危機の進行を少しでも食い止めたい(「ぼろ」の始末に使う金の余裕はもうない)。

▽オリンピック誘致の際に「汚染はコントロールされている」と大見得を切ったのは首相自身だ(国立競技場問題などとはわけが違い、首相のメンツがかかっている)。

しかし、地元では誰もが知っている。国や自治体が進めてきた除染の結果、「住める状態」になったのは町や村の一部だけ。裏山からは雨のたびに今も放射性物質に汚染された新たな雨水が流れ出す。かつて子どもたちが転げ回って遊んだ森や野原のそこここに「危険なホットスポット」があること、みだりにキノコを採って食べたりしてはいけないことなどを彼らに教えなければならない。

もはや被災地では、うわべはともかく心の底から政権を信用する者は誰もいないと言ってもいい。世界の要人はだませても、被災者はだませない。

不穏な流れを......

筆者が2012年春、震災1年目の現地をルポし、本気で被災者の苦しみを受けとめようとしない国の態度を「福島が消える――歴史に刻まれる『現代の棄民』」(2012年3月11日)と批判したとき、ある政府高官から「国民の誤解を招く」と厳しく抗議されたものだった。しかし、「棄民」は筆者の予想をも遙かに超えて進んだ。

これまでは、こうした現実を見て見ぬふりをしながら、真綿で首を絞めるように、被災者が力尽きるのを待つのが国の「基本方針」だった。だが、ここへきて安倍政権は一気に強硬姿勢に転じた。福島県の震災関連死、老人の死亡率は被災3県の中で最も高いのだが、被災者が自然に"淘汰"されていくのを待っている余裕は政権にももはやなくなってきたのだろう。

政府の信用が失墜し始めたのは被災地だけではない。アベノミクスの大失敗が覆い隠せなくなってから、政権の支持率は急落し始めた。安保法案への反対デモは勢いを増す。デモや集会を取材すると、安保法案批判の合間に「原発やめろ!」というシュプレヒコールが聞かれるようになった。とにかく一刻も早く、この不穏な流れを止めなければならない、というのが首相の本音に違いない。

法廷の威信がかかる審理

「原発事故をなかったことにしたい」

そんな乱暴がこの先進国でまかり通るのだろうか。誰もがいぶかしむこのシナリオの前途は、この夏、さらに怪しくなってきた。検察審査会(検審)による勝俣恒久元会長ら東電幹部3人の強制起訴が実現してしまったからだ。

控訴審の検事役を務める石田省三郎氏ら3人の指定弁護士の名前が第二東京弁護士会から発表されたとき、原告の福島原発告訴団の関係者からは快哉を叫ぶ声が上がった。これら3人は過去の実績、実力ともに評価が高く、十分な審理が期待されるからだという(指定弁護士にはその後2人が追加され、検事役はさらに強力な態勢となった)。

それだけに東電の危機感は深刻だ。過去の検審による起訴は、最終的には「無罪」で幕を閉じていた。しかし、今回はかなり様相が異なる。

たとえば、最近の事例でやはり会社の危険回避義務が問われ、結局、経営者たちが「嫌疑不十分」となったJR西日本の福知山線脱線事故。東電の起訴理由をこれと比べれば、東電の場合、危険の予知が具体的に可能だったことは歴然だ。何しろ政府機関がマグニチュード8クラスの地震到来の可能性を警告し、それを受けて東電自ら「波高15.7メートル」(大震災の津波は15メートル)の津波到来の試算を社内で行っていたことが国会事故調査委員会の報告で明らかになっている。にもかかわらず、それへの対策を先送りした結果があの大事故になったという原告の主張は明快だ。それを記録した社内文書の提出を東電が従来のように拒めるかどうかに、法廷の威信がかかっているとも言える。審理は原告に有利に進むと見られている。

皮肉な形での「戦後スキームからの脱却」

馬場町長は「被災者がこれだけの犠牲を払ってきたのに、国も東電も誰1人責任をとっていない」と言う。しかし、状況は変わるかもしれない。その意味は日本の歴史にとっても極めて重要だ。

国や企業の責任が明らかにならない、あるいはそれを明らかにしない日本社会。その結果は、集団の構成員個人全員の責任となって自らの身に降りかかる。東電を経営破綻から救うために国が登場し、最後は国民の税金が使われる。納税者の中には福島県民もいるのに、である。東電問題の背後には、それらの責任をあいまいにしながら、同じ過ちを繰り返してきた日本の姿が浮かび上がる。

重要なのは、馬場町長の言う「誰も責任をとらない日本社会」の基本的な行動原理が「問題先送り」だったことである。東電の津波対策先送りが事実とすれば、それは日本の伝統的行動原理を忠実になぞった無責任社会の縮図と言えよう。その意味で、安倍首相が提唱する戦後スキームからの脱却は、皮肉にも東電問題を通じて、別の形で実現しようとしているのかもしれない。

先送りの行動様式を許してきたのは戦後の経済成長である。それを支えたのが原発だったことも間違いない。戦後スキームの脱却には本来、脱原発の議論が欠かせなかったのである。

被災地に横たわる問題の本質を避けて、日本の将来も福島の未来も語るわけにはいかない。被災者を切り捨てて日本の将来を語るわけにいかない理由はそこにある。(つづく)

吉野源太郎

ジャーナリスト、日本経済研究センター客員研究員。1943年生れ。東京大学文学部卒。67年日本経済新聞社入社。日経ビジネス副編集長、日経流通新聞編集長、編集局次長などを経て95年より論説委員。2006年3月より現職。デフレ経済の到来や道路公団改革の不充分さなどを的確に予言・指摘してきた。『西武事件』(日本経済新聞社)など著書多数。

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(2015年9月11日フォーサイトより転載)

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