「玄永哲」粛清の謎を追う(上)錯綜する情報

韓国の情報機関、国家情報院は5月13日、非公開で行われた国会の情報委員会での報告で、北朝鮮の玄永哲(ヒョン・ヨンチョル)人民武力部長(66)が4月30日ごろ粛清されたと報告した。

韓国の情報機関、国家情報院は5月13日、非公開で行われた国会の情報委員会での報告で、北朝鮮の玄永哲(ヒョン・ヨンチョル)人民武力部長(66)が4月30日ごろ粛清されたと報告した。情報委員会の幹事である与野党の議員が同日、これを韓国メディアに公表し内外に衝撃を与えた。

メディアは、玄永哲人民武力部長が4月24、25日に平壌で開催された軍第5回訓練活動家大会で金正恩(キム・ジョンウン)第1書記の演説中に居眠りをしたことなどで粛清され、国家情報院は「数百人の軍幹部が見守る中で、平壌順安区域にある姜健総合軍官学校で高射銃で銃殺された可能性があると国会情報委員会に報告した」(朝鮮日報)と報じた。

玄永哲人民武力部長は軍部では黄炳瑞(ファン・ビョンソ)軍総政治局長に次ぐ「ナンバー2」だけに、2013年12月の張成沢(チャン・ソンテク)党行政部長に次ぐ政権の核心幹部の粛清として大きな衝撃を与えた。

玄永哲氏とは何者か

玄永哲人民武力部長は咸鏡北道出身の1949年1月生まれで66歳。金日成(キム・イルソン)軍事総合大学を卒業し1992年に少将になり、2003年には軍偵察局長、2004年には425機械化部隊参謀長を務めた。2006年に中朝国境付近を含む平安北道地域を担当する第8軍団の軍団長に就任した。しかし、当時は地方の軍団長というだけで何の注目もされなかった。2009年3月には最高人民会議代議員に選ばれた。

玄永哲氏が内外の注目を浴びたのは2010年9月28日未明に発表された金正日(キム・ジョンイル)最高司令官の同27日付の「命令第0051号」の人事であった。金正日総書記は金正恩氏が公式に登場した第3回党代表者会の前日の命令で、金正恩氏に「大将」の軍事称号を与えた。この時に、玄永哲氏も「大将」の軍事称号を与えられた。玄永哲氏について韓国の情報機関も注目はしておらず、当時は「玄永哲というのはいったい何者だ?」という反応だった。

玄永哲氏の大将昇格は、死亡前に頻繁に中国を訪問した金正日総書記が、自身の訪中時の玄永哲第8軍団長の対応を評価してとの見方も出た。

玄永哲氏が再び注目を集めたのは2012年7月だった。金正恩第1書記は7月15日、当時の軍部のトップであった李英鎬(リ・ヨンホ)総参謀長をすべての職務から解任、電撃的な粛清を行った。その翌日の同16日に玄永哲氏に次帥の軍事称号が授与された。次帥の称号授与は総参謀長就任を意味した。さらにその翌日に金正恩氏に「共和国元帥」の称号が授与された。

朝鮮半島ウォッチャーたちは、金正恩時代の「ナンバー2」とみられた李英鎬総参謀長が突然粛清され、地方の1軍団長だった玄永哲氏がその後任になったことに驚いた。

しかし、玄永哲総参謀長は就任わずか3カ月後の2012年10月には次帥から大将に降格された。それでも2013年3月の党中央委員会総会で党政治局員候補に選出された。しかし、2013年5月に総参謀長を解任され、軍階級も大将から上将にさらに降格になり、軍総参謀長から東部戦線の第5軍団長に左遷となった。玄永哲氏はこのまま地方で軍生活を終えるとみられたが、2014年6月に張正男(チャン・ジョンナム)人民武力部長が解任されるとその後任に任命され、平壌の中央舞台に復帰した。

北朝鮮で出世をする軍人は軍総政治局などに所属するいわゆる「政治軍人」であるが、玄永哲氏は地方の軍団長など務めた野戦軍出身の、現場を知った軍人といえる。今回の粛清劇を見ると、地方でそのまま軍生活を終えた方が幸せだったかもしれない。中央に復帰したことで粛清の対象になってしまった。

「処刑」は事実なのか?

韓国の国情院は「玄永哲人民武力部長を粛清」と発表したが、奇妙なことが起きていた。北朝鮮のテレビには5月5日から12日まで毎日のように粛清された玄永哲人民武力部長の映像が流れていたのだ。

北朝鮮は5月5日に「敬愛する最高司令官、金正恩同志が人民軍隊事業を現地で指導」という1時間15分の記録映画を放映したが、この中に玄永哲人民武力部長の姿があった。この記録映画は5月11日まで毎日再放送された。さらに朝鮮中央テレビは「死んでも革命の信念を捨てるな」という番組を5月6、8、10、12日と2日に1回ずつ放映したが、ここにも玄永哲人民武力部長の姿があった。

北朝鮮では通常、粛清されれば、映像などから姿が消される。2012年7月に粛清された李英鎬(リ・ヨンホ)総参謀長の場合は粛清6日後にメディアからその姿が消えた。2013年12月に粛清された張成沢党行政部長の場合は、処刑の5日前にはテレビなどのメディアから姿が消えていた。デノミ政策の失敗で処刑されたとみられる朴南基(パク・ナムギ)党計画財政部長も2010年3月には記録映画などから姿が削除された。

このため、韓国の国家情報院は5月13日の発表では玄永哲人民武力部長の粛清はほぼ断定したが、「処刑」については「玄永哲が処刑されたという諜報も入手された」とするに留めた。処刑されたと断定しない理由として「北韓(北朝鮮)が発表しておらず、引き続き、記録映画に登場しているからだ」とした。

朝鮮中央テレビは5月14日午後に金正恩第1書記が2013年に美林乗馬場を視察した写真などを含む記録映画「人民のための乗馬奉仕基地を設けて下さり」を再放送し たが、ここでも粛清された玄永哲人民武力相が映っていた。

玄永哲人民武力部長が登場する映像が多く、消去するのに時間が掛かっているのではないかという見方もあった。

筆者は「労働新聞」などの北朝鮮メディアの主要サイトで「玄永哲」を検索してみると過去の記事中の名前は削除されていなかった。過去の北朝鮮の対応を考えると、4月30日に粛清されたにしては奇妙な対応だった。

さらに、朝鮮中央テレビは5月19日に「幸福の記念写真」という金正恩第1書記の記録映画を放映したが、ここにも玄永哲人民武力部長の姿が映っていた。

5月13日の国情院の発表を詳細にチェックしてみると、人民武力部長の処刑に関しては断定はしておらず、そういう「諜報」があるに過ぎないという言い方をしている。韓国語での「諜報」というのは「相手に知られないようにして入手した情報や報告」という意味で、信頼性は正式報告よりも低いニュアンスがある。

もう1つの問題は「粛清」という言葉をどう理解するのかということである。本来、粛清というのは役職を解任されただけでなく、政治犯収容所に送り込まれたり、処刑されたりして2度と権力の一翼に復帰できないことを意味する。

しかし、難しいのは、ある職責を解任され、公式の場から姿を消しても、この人物がそのまま消え去ってしまうのか、いわゆる「革命化教育」を受けて、再び復権するかは、そのプロセスにある間は分からない。

玄永哲人民武力部長の映像がそのまま放映されていることは、彼が「革命化教育」を受けて再起する可能性を示唆しているものなのか、単に映像消去の作業が遅れているからなのか、金正恩第1書記が住民対策や対外的なイメージを考慮して当面、そのままにする対応を取っているのかは現時点で断定することは難しい。

国情院の「メディア・プレー」?

韓国の「ハンギョレ新聞」によると、国家情報院は5月13日午前8時30分から、国会の情報委員会で玄永哲人民武力部長の粛清を報告したという。国会の委員会が午前8時半というのも異例だ。急な設定で、早朝だったこともあり議員の集まりも悪く、約30分で散会した。その後、同委員会所属の与野党議員がメディアに説明した。

これを受けて、聯合ニュースは同9時12分に「国情院『玄永哲人民武力部長、不敬罪で粛清』」と報道した。そして、聯合ニュースは同9時45分「国情院『北人民武力部長、反逆罪で公開処刑』」と報道した。これを受けて海外メディアも一斉に玄永哲粛清や処刑を報じた。

国情院は午前11時頃、国家情報院を見学に訪れた統一部出入り記者約30人を相手に玄永哲人民武力部長粛清をブリーフした。最初は北韓部長が説明し、途中でハン・ギボム第1次長もブリーフに参加した。記者団の見学は数週間前にセットされたもので、国情院はこれをブリーフに活用したとみられる。

情報機関は「信頼」が生命だ。そのため、信頼ができない情報を公表することは避ける傾向がある。信頼性の低い「諜報」を公表し、それが誤りであった場合は、情報機関の信頼性に影響を及ぼす。

今回の国情院の発表には功名心と焦りの両方があったようにみえる。ある意味での「メディア・プレー」ともいうべき発表だった。

国情院の李炳浩(イ・ビョンホ)院長は3月19日に就任したばかりだ。今回の発表が誤っていれば、面目丸つぶれということになり、李炳浩院長の責任問題になることは必至だ。逆に考えれば、国情院がある種のリスクを冒しても「諜報」レベルの「処刑情報」を公表した背景にはかなりの自信があったからだと見ることもできる。

国情院も情報戦の渦中に

北朝鮮情報に関する韓国政府の最大の失敗例としては、1986年11月の「金日成主席死亡説」があった。韓国国防省スポークスマンが同年11月17日、休戦ラインの北朝鮮側の南向け宣伝スピーカーが金日成主席が銃撃され死亡したと伝えていると発表し、世界を揺るがせた事件だ。しかし、翌11月18日、金日成主席が平壌を公式訪問したモンゴルのバトムンフ党書記長を平壌空港にまで出迎えて、韓国側の「誤報」が世界に知れた。

最近、韓国では国情院の面子をつぶすようなことが相次いだ。聯合ニュースは2009年1月に金正恩氏が金正日総書記の後継者に決定したと報じた。2009年11月末にデノミと貨幣改革が行われたことは脱北者らのネットメディアの特ダネだった。2011年12月の金正日総書記死亡の際は、北朝鮮が発表するまで韓国政府は死亡情報をキャッチできなかった。2013年6月の「6.28方針」と呼ばれる経済改革を最初に報じたのも北朝鮮情報専門ネット新聞の「デイリーNK」だった。

国情院は黒星続きだったが、2013年12月の張成沢党行政部長の粛清ではいち早く情報をキャッチ、同12月3日に張成沢党行政部長が失脚した可能性が高いと国会情報委員会に報告した。北朝鮮はこの5日後の12月8日に党政治局拡大会議を開催し、張成沢氏のすべての職務からの解任と党除名を決定した。

国情院の心理も、最近はメディアと似ている。「特ダネ」をつかんでいると、どこかが先に書くのではないかという不安に駆られる。公表すると、大きく扱わせたいので、本来は情報機関としては公表してはいけない「諜報」にまで言及してしまう。

国情院も、メディアなどが「玄永哲人民武力部長粛清」をつかんでしまうのではないかと不安だったに違いない。米国のCNNが5月12日に脱北者の話として金正恩第1書記が叔母の金慶喜(キム・ギョンヒ)氏の毒殺を指示したという誤った報道をしたことなどもあり、記者団の国情院見学がセットされている13日に、やや拙速ではあるが発表に踏み切ったのではないかと思われる。

居眠りで粛清?

国情院は、粛清の理由の1つとして4月24~25日に平壌で開催された朝鮮人民軍第5回訓練指導官大会で金正恩第1書記の演説中に居眠りをしたことが怒りをかったと指摘し、同26日の労働新聞に写真も掲載されているとした。26日付「労働新聞」には主席壇の黄炳瑞軍総政治局長の横に座っている玄永哲人民武力部長の姿があった。写真では眠っているかどうかは不明だが、目は閉じている写真だ。

国情院によると、居眠りで処罰されるのは異例ではなく、特殊軍団とされる第11軍団の崔慶星(チェ・ギョンソン)前軍団長は居眠りのために上将から少将に2階級降格されたとした(2月14日の人事で上将に復帰)。金英哲(キム・ヨンチョル)偵察総局長も居眠りで大将から上将に降格したとした。金英哲偵察総局長は2012年2月に大将になったが、同11月に2階級降格の中将、2013年2月に大将に復帰したが、また上将に降格されているようだ。

外部社会からみれば「居眠りぐらいで」と考えるが、北朝鮮では許されないことのようだ。まだ30歳前半の最高指導者だけに、幹部の居眠りは自分が馬鹿にされたような感情を抱くとみられる。

しかし、玄永哲人民武力部長が居眠りをしたとされるのは4月24~25日の大会でのことであり、これだけが理由で、その4日後に粛清や処刑が行われたとみるのは無理があるように思える。

ロシア訪問との関連

最近の動静で注目されるのは4月13日から20日までのロシア訪問だ。玄永哲人民武力部長は、4月13日に盧斗哲(ロ・ドゥチョル)副首相とともにロシアに向けて出発した。この2人の訪ロは5月9日に予定されていた対ドイツ戦勝70周年記念式典に金正恩第1書記が参加するための準備のための訪問とみられた。金正恩第1書記の訪ロをカードに、玄永哲人民武力部長が軍事面で、盧斗哲副首相が経済面での支援を引き出すと同時に、金正恩第1書記とプーチン大統領との首脳会談や日程なども協議されるのではという見方が強かった。

玄永哲人民武力部長は4月15日にロシアのショイグ国防相と会談した。ショイグ国防相は「モスクワで開催する対ドイツ戦勝記念式典に金正恩第1書記が出席するためロシアを訪問することを心待ちにしている」と期待を表明した。

玄永哲人民武力部長は同16日にはモスクワで開かれた国際安全保障会議に出席し「米国の核の脅威がある限り北朝鮮は核保有をやめない」と北朝鮮の従来の主張を強調した。

玄永哲人民武力部長の訪ロは北朝鮮の路線の軌道の上を歩いたとしかみえない。

香港の鳳凰衛星テレビは5月2日、金正恩第1書記がロシア訪問を中止したのは防空ミサイル「S―300」などの供与をロシア側が拒否したためと報じた。この延長線上で、玄永哲人民武力部長の粛清はロシアとの軍事協力の失敗が原因とする見方も一部ではある。しかし、北朝鮮が国連制裁に置かれている状況で、ロシアがミサイルなどの兵器供給をするとは考えられない。「S―300」は国連制裁のなかった金正日時代から北朝鮮が供与を求めていたが実現しなかった。玄永哲人民武力部長の粛清とロシア訪問を関連づけることは無理があるようにみえる。(つづく)

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平井久志

ジャーナリスト。1952年香川県生れ。75年早稲田大学法学部卒業、共同通信社に入社。外信部、ソウル支局長、北京特派員、編集委員兼論説委員などを経て2012年3月に定年退社。現在、共同通信客員論説委員。2002年、瀋陽事件報道で新聞協会賞受賞。同年、瀋陽事件や北朝鮮経済改革などの朝鮮問題報道でボーン・上田賞受賞。 著書に『ソウル打令―反日と嫌韓の谷間で―』『日韓子育て戦争―「虹」と「星」が架ける橋―』(共に徳間書店)、『コリア打令―あまりにダイナミックな韓国人の現住所―』(ビジネス社)、『なぜ北朝鮮は孤立するのか 金正日 破局へ向かう「先軍体制」』(新潮選書)『北朝鮮の指導体制と後継 金正日から金正恩へ』(岩波現代文庫)など。

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(2015年5月25日フォーサイトより転載)

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