台湾にとっての「抗日勝利70年」の意味

戦後70年を迎える今年は、世界遺産登録をめぐる韓国との対立でも分かるように、「歴史」と「外交」が絡み合って摩擦を起こす場面が増え始めている。歴史問題のなかで台湾のことを忘却してしまうのは望ましくない。

戦後70年を迎える今年は、世界遺産登録をめぐる韓国との対立でも分かるように、「歴史」と「外交」が絡み合って摩擦を起こす場面が増え始めている。これから今年後半は、安倍談話や中国の抗日イベントなどの火種が多く、同じような局面に我々日本人は何度も直面するはずである。

この問題について、中韓の関係ばかりが強調されがちだが、台湾もまた、まぎれもなく日本の近代史における「負の歴史」の欠かせない一部であり、歴史問題のなかで台湾のことを忘却してしまうのは望ましくない。

7月4日、台湾で、事実上「抗日戦争勝利70周年」を記念した軍事パレードが北部・新竹県の陸軍基地で行われた。純粋な軍事パレードになるのか、あるいは、抗日を打ち出したパレードになるのか、台湾側も揺れたとされる。結果的には「『抗日』の色合いが濃くなり、日本側とも微妙な不協和音が生じた」(産経新聞)と言われている。

2つの「小さな摩擦」

この問題には、伏線があった。台湾の国防部は、「70年」を記念するため、日中戦争で国民党軍を支援した米航空義勇隊「フライング・タイガース」の塗装を現在使用されているIDFという国産戦闘機に施したのだが、操縦席の脇には「撃墜数」を表す日章旗が描かれた。

フライング・タイガースについては本サイトでも詳述したことがあるが(2014年5月21日「『フライング・タイガース』で米国に『反日戦線』を呼びかける中国」参照)、台湾での報道によれば、この台湾側の措置に対して日本側から水面下で国防部に疑義が伝えられたとされ、結果的に日章旗のところは塗り消された。

さらに不協和音は続いた。軍事パレードには、国交のない台湾での大使にあたる沼田幹男・交流協会台北事務所代表に、国防部から出席の招待状が出されたという。国防部のカウンターパートは、交流協会に事実上の武官として派遣されている元空自退役空将補の尾形誠氏。国防部は尾形氏に尾形氏の分の招待状を手渡し、さらに沼田代表への招待状を受け取るように求めたが、尾形氏は受け取らず、沼田代表への招待状は渡すことができなかったという。

日台の外交当局間ではそれなりに擦り合わせがあったのかも知れないが、その後、国防族の国民党立法委員が「本当に代表を招待したのか」と騒ぎ出して、ちょっとした政治問題になってメディアをにぎわせた。

いずれも言ってみれば「大した問題」ではない。小さな摩擦である。しかし、2つ3つと重なってくると、担当者もその上司も、もしくは代表や日本の外務省も「台湾はいったいどうなっているのか」という不快な気分になってくる。外交というのは、えてして2度目の問題で不満は1度目の2倍ではなく3倍か4倍になり、3度目の問題ではさらに10倍ぐらいになる。このあたりは人間関係とあまり変わらない。

二重構造の抗日観

一方、中国においても、抗日問題に台湾を絡める動きが出ている。

中国は北京の「中国人民抗日戦争記念館」で台湾住民の抗日をテーマにした展示館を建設しており、10月に開館する計画だという。9月3日に行われる「中国人民抗日戦争・世界反ファシズム戦争勝利70周年」の記念行事にも、台湾の国民党の老兵を招待することになった。招待される老兵たちは、大陸から蒋介石と一緒に台湾に渡った「外省人」第1世代の人々である。

抗日は「国共合作」で戦ったのであるから、どちらが主役だったのかという問題については常に論争があるものの、日本を「打ち負かした」という経験は中国とも共有されている(日中戦争で日本が本当に打ち負かされたかどうかの議論は別にして)。中国共産党は、いま国民党の馬英九政権に対して、「どちらが抗日の主役か」という論争はやめ、とにかく抗日を一緒に祝おうとと呼びかけている。

これは、台湾政策としての「共同戦線」と、国際的な日本包囲網としての「共同戦線」という二つの意味を持った呼びかけである。

ここで台湾と抗日の関係について整理しておきたい。

台湾は日本の一部であった時代に行われた太平洋戦争で、日本兵として台湾出身者が大勢戦った。1945年以前の台湾を主体として考えれば、抗日の「負け組」に台湾の人々は入っていたことになる。

しかし、1945年以後、台湾が中華民国に接収された結果、台湾は制度上抗日の「勝ち組」に入った。しかし、本省人と呼ばれるもともと台湾にいた人々は、「日本人として戦った」という実体験と、「日本人を相手に戦った」という架空の体験の両方を抱え込むという、ややこしい状況に置かれることになった。

さらに事態を複雑にしているのは、1949年に国共内戦に敗れて台湾に撤退した国民党政権を構成する外省人は、確かに中国アイデンティティを持ち、実際に日本を「打ち負かした」ので矛盾はない。つまり、台湾の人々の抗日観は、中華ナショナリズムの持ち主と、台湾ナショナリズムの持ち主との二重構造になっているのである。

「台湾」よりも「日本」が好きな台湾人

では、台湾における抗日イベントが台湾の人々の対日観に影響を与えるかといえば、答えはノーであろう。

台湾の馬英九総統は「外省第2世代」であるが、「抗日」については個人的にも強い誇りを持っていることが過去の発言からはうかがわれる。だが、前述のように、台湾の大部分の人々は抗日について実感がない。ただ、「抗日」が一種の政治的イベントとしてあることに戦後を通じて慣れており、自分たちの感情とは切り離している。「抗日」が「反日」と思えるレベルまで達した時は反発や困惑を招くことになるので、馬政権もある程度、抑制的にならざるを得ない。そのことは7日に馬総統が「自分は親日でも反日でもなく、友日だ」と語ったことにも表れている。

なにしろ、台湾は世論調査で「好きな国」を質問すると「台湾」よりも「日本」が好きだと回答する人が多い土地柄だ。台湾の主要新聞のうち、中華ナショナリズムの立場を持つ『聯合報』や『中国時報』は抗日的な観点の記事や論評を掲載することが多いが、彼らの主張が世論に影響を与えることはほとんどない。

一方、中国から台湾への「抗日」連携の呼びかけについても、台湾の国防部は、退役軍人たちに対し、中国大陸での抗日関連イベントにはなるべく参加しないように呼びかけているが、参加したとしても、台湾社会の主流部分に影響を与えることはない。

台湾のテレビを見ていると、「抗日パレード」に130人もの退役軍人の老人たちが招待されていることを伝えていた。彼らは年齢的には90歳を超えており、恐らく10年後にはこうしたイベント自体が成立しない。前述のように、彼らは台湾の土着の人々とは異なった歴史体験と価値観を有している。抗日経験を誇りに持つこともそれはある意味で正当な権利であるが、長い目でみれば台湾社会から歳月の経過とともに消えていくことが織り込み済みで、台湾の人々も彼らの抗日への郷愁については寛容な目で冷静に見ている。

「反日」には発展しない

ただ一方で覚えておくべきなのは、台湾でも歴史的に「抗日」運動がなかったわけではないことだ。1895年に日本が台湾統治を始めてから10年ほどは主に中南部で激しい組織的抵抗に悩まされ、掃討作戦では台湾人数万人が殺され、日本軍も5000人を超える死者を出したと言われる。また、1930年には、台湾映画『セデック・バレ』でも描かれた先住民による民衆蜂起「霧社事件」が起きて、日本人が多数殺害されている。これらの事件は、「日本人に対する抵抗運動」という意味ではまぎれもなく「抗日」だった。

しかし、台湾の「抗日」は、中国が位置づける「抗日」とは異なる文脈で行われたものだ。彼らが抵抗を示したのは、台湾の自らの土地を守るためだった。中国における「抗日」は1937年から1945年までの8年間の日中戦争のことであり、もっと遡るとしても1931年の満洲事変まで。つまり、似て非なる抗日だということだ。

結論としては、馬政権が少しばかり抗日イベントをプレイアップしても、反日には発展しないし、発展はさせられない。そして、中国の抗日連携の動きに台湾が乗ることもない。

一方で、抗日と台湾というテーマはこれまで戦後の日本でほとんど語られてこなかった問題であり、この70年という節目に日本人が思いを至らせるのは必要なことだ。そして、国や土地によって、さまざまな「抗日」が存在することも知っておくべきである。

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野嶋剛

1968年生れ。上智大学新聞学科卒。大学在学中に香港中文大学に留学。92年朝日新聞社入社後、佐賀支局、中国・アモイ大学留学、西部社会部を経て、2001年シンガポール支局長。その後、イラク戦争の従軍取材を経験し、07年台北支局長、国際編集部次長。現在はアエラ編集部。著書に「イラク戦争従軍記」(朝日新聞社)、「ふたつの故宮博物院」(新潮選書)、「謎の名画・清明上河図」(勉誠出版)、「銀輪の巨人ジャイアント」(東洋経済新報社)、「ラスト・バタリオン 蒋介石と日本軍人たち」(講談社)、「認識・TAIWAN・電影 映画で知る台湾」(明石書店)、訳書に「チャイニーズ・ライフ」(明石書店)。

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(2015年7月8日フォーサイトより転載)

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