プーチン大統領への「ドローン攻撃」意外な防護策--小泉悠

赤の広場を巡って奇妙な噂が囁かれるようになった。
MLADEN ANTONOV via Getty Images

モスクワと聞けば「赤の広場」を連想する人も多いだろう。

クレムリン宮殿に隣接した、都心中の都心だ。

広場の真ん中に立ってあたりを見渡せば、正面にウラジーミル・プーチン大統領の執務室がある大統領府(黒い丸屋根にロシア国旗が翻っている)、左手にはタマネギ屋根で有名な聖ワシリーエフ大聖堂、右手には赤レンガの歴史博物館がそびえており、背後は高級デパート「グム」という具合だ。有名なボリショイ劇場も歩いてほんの数分だし、その先には旧KGB(国家保安委員会)本部が置かれていることで有名なルビャンカ広場もある。

ところがこの数年、赤の広場を巡って奇妙な噂が囁かれるようになった。

広場の周辺では、カーナビなどGPS機器が使えないというのである。正確には、使えないというよりも誤った位置が表示されてしまうのだという。ロシア版GPSである「GLONASS」でも同様の現象が起きるようだ。

どういうことなのか。

タクシーと「ポケモンGO」

「誤った位置」と言っても、その誤差は半端ではない。都心の赤の広場に居るのに、カーナビや地図アプリの上では、そこから数十キロも離れたヴヌコヴォ空港やドモジェドヴォ空港が表示されてしまうというのである。筆者も赤の広場で地図アプリを起動してみると、果たして表示されたのはドモジェドヴォ空港であった。電車で1時間はかかる距離だ。

この現象に最初に気付いたのは、モスクワのタクシー運転手たちだったと言われている。

かつて、モスクワのタクシーにはメーターなどというものはなく、いちいち運転手と交渉して値段を決めねばならなかった。それどころか、正規のタクシー自体が極めて稀で、大部分はその辺の一般車を捕まえて値段交渉し、乗せてもらうケース(つまり白タク)がほとんどだった。

ところがここ数年、スマートフォンのアプリでタクシーを呼び出せるサービスが登場したことで状況は一変した。白タクに頼らなくてもよくなっただけでなく、価格が明朗会計化したのである。これらのタクシーにはタブレット型端末が備え付けられており、行き先を告げると、そこまでのルートや料金が地図アプリで事前に明示されるようになったためだ。これならタクシーの運転手が吹っかけてくる「外国人料金」を苦労して値切らなくてもよくなり、外国人も安心して利用できる。

それがクレムリンの周辺に来ると急に狂ってしまうというのだから、客にとっても運転手にとっても迷惑な話であろう。当時の報道によると、タクシー運転手たちが気づいたのは2016年の夏頃であったようだ。

これとほぼ同時期に、異常に気づいた人々がいた。日本製ゲーム「ポケモンGO」のプレイヤーたちである。

街中を歩き回ってポケモンを集めるというシステムを採用した「ポケモンGO」は、2016年7月に発売されるや否や世界的大ヒットとなった。だが、ポケモンの位置はGPS座標によって定められるため、クレムリン周辺では「ポケモンGO」がプレイできなくなってしまったのである。

「クレムリンから何かが出ている」

このような現象は何故発生するのだろうか。

ロシア大統領府は異常が起きていることは認めているものの、知らぬ存ぜぬを通している。ドミトリー・ペスコフ大統領報道官は、「私も週末にドライブするんだけど、地図アプリがうまく作動しないので驚いたよ」などと述べているが、クレムリン周辺で異常事態が起きているにしては随分と暢気な発言である。まあ、このぐらいの腹芸ができなければ大国の報道官など務まらないのだろうが。

ロシアのIT最大手である「Yandex」社(同社はタクシーアプリでもトップランナーである)のバクーノフ技術主任は、この謎を自ら解き明かすことにした。様々な測定機器をセグウェイに乗せ、クレムリン周辺を自ら走り回ってみたのである。その結果は「クレムリン内部にGPSやGLONASSの信号を発信する強力な発信機が設置されており、おそらくそれは移動式だ」というものであった。

ここでバクーノフ主任が示唆しているのは、GPS電波の「スプーフィング(乗っ取り)」が行われている可能性である。

通常、カーナビや地図アプリは人工衛星から発信される位置情報信号を複数受信して位置を算出しているが、信号電波は極めて微弱である。そこで妨害(ジャミング)電波を発信して信号を受信できないようにしてやればよい、というのは誰もが思いつくことで、実際にロシアや北朝鮮はこのようなシステムを実用化している(2012年春に韓国の空港でGPSが作動しなくなり、航空管制に障害をきたしたのは、北朝鮮による妨害電波が原因であったとされる)。

一方、スプーフィングはもう少し洗練された手法で、本物のGPS信号とそっくりの信号を出すことによって、受信機器に誤った位置情報を与える。これによって本来の現在位置を誤魔化し、妨害側にとって望ましい場所にいるかのように誤認されるのである。有力紙『ヴェドモスチ』(2016年10月21日付)によると、ロシア軍はすでにこの種のGPSスプーフィング装置を実戦配備しており、重要施設の防護用に用いているという。

クレムリン宮殿の内部にこうしたスプーフィング電波を発信する装置が存在し、それがGPSやGLONASSによる位置情報を狂わせているのだとすれば、カーナビや「ポケモンGO」が使えなくなったことも納得できる。

だが、誰が何のためにそんなことをするのだろうか。

ドローンという新たな脅威

発信源がクレムリン宮殿の内部にある以上、スプーフィングを仕掛けているのがロシア政府の機関であることはほぼ明らかだ。ロシアには連邦警護庁(FSO)という旧KGB系機関が存在しており、プーチン大統領を含む政府要人の警護、重要施設の防護、政府用秘密通信回線の運用などを担当し、クレムリンの警備も同庁の担当とされている。スプーフィングが行われているとすれば、彼らの仕業だろうというのが大方の見方である。

実はGPSの障害はクレムリン宮殿の周辺だけでなく、プーチン大統領の公邸である「ノヴォ・オガリョヴォ」の周辺やプーチン大統領の出張先でも報告されている。この点からしても、スプーフィングがプーチン大統領の警護措置として行われている可能性が高い。

その標的と目されているのは、ドローンである。誰でも購入でき、持ち運びも容易なドローンは、従来の警備システムや防空システムでは防ぎきれない。我が国でも2015年4月、首相官邸の屋上にドローンが落下するという事件が発生して注目を集めたが、政府首脳の保護に関するロシアの切迫感は日本の比ではない。ウクライナとシリアで2つの戦争を戦い、国内ではイスラム過激主義勢力の脅威にも直面するロシアは、現在進行形の「戦時国家」であるためだ。プーチン大統領を狙ったドローン攻撃が行われる可能性は、警備担当者たちの悪夢だろう。

このようにして見ると、クレムリン内部から行われているスプーフィングが何故、赤の広場でなく空港上空を表示させるのかも見えてくる。多くのドローンは航空機の運航を妨害しないように空港上空を飛行できないようプログラミングされており、したがってクレムリンを空港であるかのように誤認させられれば、ドローンは「勘違い」して入ってこられないというわけだ。

2018年2月現在ではクレムリン周辺でのスプーフィングは停止されているようだが、必要とあればまたいつでも再開されるだろう。

鳥の手も借りたい

ドローン対策に鳥を使うことも検討されている。これは国営通信社『RIAノーヴォスチ』(2018年1月29日付)が保安機関関係者の話として報じたもので、クレムリンで飼われているハイタカやワシミミズクにドローンを襲わせることができないかというアイデアだ。

鳥がクレムリンで「勤務」しているというのはちょっと意外かもしれない。筆者も本稿のために調べてみて初めて知ったが、宮殿内にカラスが住み着くのを防ぐため、1973年からFSO(とその前身であるKGB第9局)が飼っているのだという。サンクトペテルブルグのエルミターシュ美術館がネズミ対策で猫を飼っているのとちょっと似ている。

ただ、このアイデアはまだ正式のものとはなっていない。フランスやオランダでは実際に鳥類を使ってドローンを捕獲させる部隊がすでに存在しているが、こちらで用いられているのはずっと大型のタカであり、クレムリンのハイタカやワシミミズクでは体格が小さすぎるのだという。

だが、ドローンの脅威が存在し、鳥類を運用する部隊もFSO内にすでにあるとなれば、クレムリン上空でタカがドローンを襲うようになる日はそう遠くないだろう。ドローンという新たなテクノロジーが、サイバー領域と物理領域の双方で新たな(しかし古くからある)対抗策を呼び起こしたとも言える。

そして、このような相互作用は、ロシアの安全保障を巡る様々な領域で見られるようになった。以降の小欄では、数回にわたってその実態を見ていくことにしたい。

小泉悠 1982年千葉県生まれ。早稲田大学大学院政治学研究科修了。民間企業勤務を経て、外務省専門分析員、ロシア科学アカデミー世界経済国際関係研究所客員研究員として2009年~2011年ロシアに滞在。現在は公益財団法人「未来工学研究所」で客員研究員を務める。専門はロシアの軍事・安全保障。主著に『軍事大国ロシア 新たな世界戦略と行動原理』(作品社)、『プーチンの国家戦略 岐路に立つ「強国」ロシア』(東京堂出版)。ロシア専門家としてメディア出演多数。

(2018年3月2日
より転載)
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