メルケル流「エルドアン大統領侮辱事件」のしのぎ方

EUとトルコの間で、EUがトルコ経由の不法移民をトルコに送還する合意が成立したことで、メルケルは最悪の時期を脱したと目されていたが…

昨年夏からの未曾有の難民・不法移民大量流入によって、ドイツ首相就任後の10年間で最大の政治的危機に直面していたメルケルだったが、この4月初めの段階では修羅場を乗り切った形になっていた。

100万人に及ぶ難民・不法移民の殺到により、3月に実施されたドイツ国内3州の議会選では、反移民を掲げる右派政党「ドイツのための選択肢(AfD)」が躍進した。メルケル率いるキリスト教民主同盟(CDU)はいずれの州でも後退したものの、4月初めの世論調査では、メルケルの支持率は56%に上昇、難民危機勃発前の水準に回復した。

その背景には、欧州連合(EU)とトルコの間で、EUがトルコ経由の不法移民をトルコに送還する合意が成立したことが大きく、メルケルは最悪の時期を脱したと目された。一時は40%前半にまで落ち込んだことを考えれば、メルケルは「復活」を宣言してもよいほどの支持率の回復だった。

しかし、ここでまたメルケルに試練が襲いかかったかに見える。難民問題の「恩人」とも言えるトルコのエルドアン大統領に対する「叩頭外交」がドイツ国民にいたく不人気で、せっかく上向いてきた支持率が大きく落ち込んでいるのだ。

エルドアンをめぐるメルケルへの逆風は一時的なもので、時間とともに収まっていくとの見方もあるが、来年秋の連邦議会(下院)選挙を控え、ドイツ各政党の駆け引きが強まっていることも問題を複雑化している。

EUを隠れ蓑に豹変

昨年夏、難民の寛容な受け入れを表明し、批判が高まるや「苦境にある人々に親切にしたがために謝罪をしなければならないなら、そんな国はわたしの国ではない」と語気を強めて反論し、「人道国家ドイツ」を高らかに宣言したメルケルは、聖女マザー・テレサにも見立てられた。だが、実はその後、目立たぬように難民・不法移民対策の軌道修正を進めていた。

そして、EU方針の形で、不法移民のトルコ送還合意を成立させたわけで、いわばEUの決定プロセスを隠れ蓑に政策転換を果たした格好である。

ここでメルケル政治を貫く法則が明らかになる。メルケルは豹変することを恐れないし、政策変更を明らかにする際には、複雑なオブラートにくるんだうえで実行に移すということだ。

メルケルは豹変した。しかし、そのことはEUを巻き込んでのもので、「難民受け入れに上限はない」とした「人道の闘士・メルケル」の残像だけが記憶に刻み込まれる。

もう1つ、「危機によって強くなる」という「メルケルの法則」が再び確認されている。

メルケルの支持率回復に役立ったのは皮肉にもベルギーのテロ事件だった。世論調査機関の専門家は「ベルギー・テロ事件によって、きちんと国家を担える力量ある政治指導者が求められている」と述べ、隣国のテロ事件がメルケルに追い風となって吹いたと分析した。

コメディアン訴追手続きを容認

難民合意によってドイツへ大きな恩を売り、かつまたトルコ人のEUへのビザなし渡航の制度化や財政援助という果実を手にしたエルドアンは、メルケルへ新たな踏み絵を用意した。

テレビの寸劇で、自身を露骨に笑いものにする詩を披露したドイツのコメディアン、ヤン・ベーマーマンの訴追を求めたのだ。

その詩の内容は、嫌悪を催すような猥褻で下品な表現に満ち、到底活字にできるようなものではない。

ただ、ドイツには19世紀の宰相ビスマルクが切り盛りしたドイツ帝国時代に源流を持つ、他国の指導者を不当に侮辱した者を罰することのできる刑法103条があり、エルドアンはこの条文を楯に、コメディアンの訴追をドイツ政府に要求した。この規定は、捜査開始を許可する権限を政府に付与しているからだ。

ちなみに、イラン革命で失脚したパーレビ国王が在位中の1960年代、この条文を利用して自身を侮辱した西ドイツの新聞を訴え、罰金を支払わせることに成功した事例があるらしい。

独裁傾向を強めるエルドアンは国内のメディア抑圧で知られる。自身に対する批判に細かく目を光らせており、その弾圧対象は今回、外国の一介のコメディアンにも及んだ。

――余談ながら、十数年前、わが国の皇太子殿下がドイツ高級紙の付録誌に侮辱されるケースがあったが、日本側はあのときこの刑法規定を利用して訴えることも可能だったということになる。

攻勢に出る連立パートナー

今回、メルケルは、エルドアンの要求をのみ、訴追手続きの開始を容認し、内外に衝撃を与えたわけだが、この騒ぎは一過性にすぎないと読んでいる節もある。

メルケルは、今回の判断によってベーマーマンが直ちに有罪となるわけではなく、起訴されるか否かはあくまで捜査に当たる検察当局の判断によると強調した。

さらに、刑法103条は2018年までに撤廃される計画になっていることを明らかにした。

ここでメルケルの計算を見て取ることができる。

不法移民問題で恩義あるエルドアンの顔を立てながら、捜査には時間がかかるため、その間、刑法103条が刑法体系から削除されることを想定しているということだ。

この問題は、最後には曖昧模糊とした形になり、やがて忘れられる。いつものことながら、メルケルは定石通り、時間稼ぎの手を打ったと云える。

だが、エルドアンの要求を唯々諾々と受け入れ、表現の自由の原則をないがしろにしたと声高にがなり立てているのは、メルケルの連立パートナーである社会民主党(SPD)の面々である。

SPDは2大国民政党の一翼を担う存在でありながら、リベラル色も持つメルケル政治の下ですっかり存在感が薄れている。支持率は20%台前半の低空飛行が続く。

来年の総選挙を見据え、何とかメルケルの失策を突きたいところで、それがメルケル批判を煽る動機となっている。

確かに、コメディアン訴追問題でメルケルの支持率は急落し、直近の世論調査では45%にまで落ち込んだという(第1公共テレビARD調査)。

だが、難民大量流入問題でも何とか危機をしのぐ形に持ち込んだ「権力の魔術師」メルケルにとって、今回の問題が致命傷になるとは考えにくい。SPDの攻勢はむしろ、メルケルの強さに対する焦りを意味している。

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佐藤伸行

追手門学院大学経済学部教授。1960年山形県生れ。85年早稲田大学卒業後、時事通信社入社。90年代はハンブルク支局、ベルリン支局でドイツ統一プロセスとその後のドイツ情勢をカバー。98年から2003年までウィーン支局で旧ユーゴスラビア民族紛争など東欧問題を取材した。06年から09年までワシントン支局勤務、編集委員を経て退職。15年から現職。著書に『世界最強の女帝 メルケルの謎』(文春新書)。

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(2016年4月20日フォーサイトより転載)

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