ミャンマー新政権の「課題」と「挑戦」

私が大使を務めていた2000年代前半、ミャンマーは八方ふさがりの状況だった。

私が大使を務めていた2000年代前半、ミャンマーは八方ふさがりの状況だった。経済は長期停滞しているのに、改革を進めようとしても、その都度、軍の守旧派に押し戻され、結局元の木阿弥だった。経済の発展に必要な西側諸国との関係も、アウン・サン・スー・チー氏との和解を進め、民主化を進めないと打開できないのに、軍の守旧派はいつも及び腰だった。

「民主化ロードマップ」の再評価

このジレンマを打破するために、軍の数少ない改革派だったキン・ニュン首相は、2003年、渾身の力で一手を打った。それがASEAN(東南アジア諸国連合)の協力を得て作成された「民主化ロードマップ」である。だが間もなく肝心のキン・ニュンが権力争いに敗れ、この動きは頓挫し、再びミャンマーの停滞と漂流が始まった。

2007年、米英両国は国連安全保障理事会にミャンマー問題を付託するという強い圧力をかけた。そして議題として採択された(議題の採択は「手続き問題」であり、中国は拒否権を使えない)。ミャンマーの軍事政権はついに折れ、対外関係を大きく調整し始めた。覚悟を決めたのだ。そこで唯一の現状打開策である「民主化ロードマップ」が再評価され、これを本格的に動かし始めた。08年に国民投票により新憲法が制定され、10年に憲法に基づき選挙を実施し、11年に国会が召集された。

政権与党はなぜ大敗したのか

このプロセスにおいて軍の中で重要な役割を果たしたのがテイン・セイン氏である。テイン・セインは国会において大統領に選出され、新政府が成立した。この政府は、軍服を脱いだばかりの人たちが多かったとはいえ、厳格に憲法に従って国政を運営し、経済も大胆に改革し、顕著な経済成長を実現し、西側諸国との関係も大きく改善した。

それにもかかわらず今回の選挙で政権与党のUSDP(連邦連帯開発党)は大敗した。その原因は何か。最大の理由は、やはり軍の長年の失政に対する国民の批判であろう。権力は腐敗する。しかも長期にわたる失政である。経済政策もうまくいかなかったし、学生を敵視して教育もおざなりであった。政府に対する反対は、力で押さえつけた。東南アジアで最も豊かな国であったはずが、いつの間にか最貧国になってしまっていたのだ。

今のテイン・セインは、それまでに比べると清廉であり良くやっている。だが、ミャンマー国民からすれば、軍が常にテイン・セインのような最良の指導者を送り込んでくるという保証はどこにもない。実質、軍頼みの国政運営では、将来に確信が持てないのだ。

しかも他に選択肢がある。それは、建国の父であり、今日も国民から慕われているアウン・サン将軍の娘であるスー・チーだ。彼女が、NLD(国民民主同盟)を率いているのだ。NLDも課題は多い。政党としてのNLDは、組織も人材も政策も弱い。それでも彼女に対する根強い期待が、今回はNLDにやらせるという国民の選択になったのだろう。

軍の"政権疲れ"

実は、これとまったく同じことが1990年の選挙のときにも起こっていた。軍の作った政党は、軍人家族が多数を占める選挙区でも勝利できずNLDに負けている。ミャンマーの選挙が、かなり公正な証拠でもあるのだが、今回のUSDPの負け方を見ると、軍は前回の敗戦から何も学んでいないと言うしかない。

軍は「これだけ改革を推し進め、経済を発展させているのに負けるはずはない。負けても大したことはない」と思っていた節がある。甘いのだ。何が何でも政権を維持するという気迫があれば、前回の経験を踏まえ、選挙制度を小選挙区から中選挙区に変えたり、勝てそうな候補者を準備したりして、懸命に生き残りを図ったはずだ。だがそれをしなかった。こう見てくると軍側に"政権ボケ"だけではなく"政権疲れ"もあった気がしてならない。

かくして今回の選挙でNLDが大勝をし、名実ともに軍事政権の時代が終わろうとしている。スー・チーは、「国民和解」を語り、テイン・セインも軍の指導者も円滑な政権移譲を口にする。だが1948年の独立直後、ミャンマーは民主主義を試し、失敗したという歴史を持つ。ミャンマーは、これから、どういう道を歩むのであろうか。その課題と挑戦は何か。その多くは歴史を紐解くことで分かってくる。

「軍との和解」という難題

建国の父であり、圧倒的な存在であったアウン・サンは、ミャンマー(当時ビルマと呼ばれていた)独立の前年に政敵に暗殺された。だが、新生ビルマとして達成しなければならない大きな政治的目標は明確に定め、後世に残した。テイン・セイン大統領も就任演説で述べた「連邦を分裂させない」、「国民の連帯を分裂させない」および「主権を永続させる」が、それだ。これがその後の新生ビルマの大きな政治的枠組みとなっている。いかなる指導者も、その遵守が国政の大前提になる。

だからテイン・セインも「国民和解」を試みた。それが国家と国民を分裂させないために必要だからだ。それはNLDとの和解であるとともに少数民族との和解でもあった。スー・チーが軍との和解、少数民族との和解をどの程度やれるか。これが、新政権の最も重要な課題であることは間違いない。

とりわけ軍との和解は難事業だ。軍のスー・チーに対する警戒感を如何にして解くかがカギとなろう。88年、経済の低迷と軍の腐敗により民主化運動が起こり、軍事政権は複数政党が参加する選挙を約束させられた。だがNLDが圧勝すると、軍は政権の移譲を拒否した。ミャンマー大使時代、ある大臣は、NLDに参加していた軍の非主流派退役軍人が、選挙に勝つや否や軍主流に報復すると語ったことが、軍が政権移譲を拒否した最大の理由だったと語っていた。

NLDは、今回はそのような単純なミスを犯しはしないだろう。現にスー・チーは軍の指導者たちと会談を続けている。しかし軍は現行憲法において重要な地位を与えられており、国会に自動的に議席を持つし、大統領でさえ口出しできないいくつかの分野がある。実質、国家機関から独立した組織なのだ。官僚機構もかなりの部分、元軍人たちで占められている。また経済との関係も深く、大きな既得権益を持つ。軍の予算を含め、これらの現状を急に変えようとすれば軍は反発し、ミャンマーの民主化プロセスは破たんする。ここは智慧の出しどころだ。スー・チーも現在の官僚機構をそのまま使うと言っている。NLD自体が人材は払底しており、当然の選択だろう。

「少数民族」と「対中関係」

その次に少数民族との和解の問題がある。今回、少数民族が有利な選挙区でもNLDがかなり勝利している。スー・チーに対する素朴な期待がいかに大きいかを物語っている。アウン・サン将軍は少数民族の間でも大きな声望があったのだ。しかし期待は簡単に失望に変わる。少数民族が自立を望めば望むほど、「連邦を分裂させない」という根本が損なわれると軍は考える。特に少数民族との関係は軍が担当しているだけに難しい。

さらにいくつかの少数民族は中国との関係が深い。中国との外交関係をうまくやらないと少数民族問題で揺さぶられてしまうという関係でもあるのだ。

そして経済発展の課題がある。軍事政権がつまずいた最大の原因が経済にあった。NLD政権にとっても同じことだ。経済を上手に発展の軌道に乗せないと、次の選挙でNLDは負けるだろう。幸いにしてテイン・セイン政権が経済発展の軌道を敷いてくれたし、NLDも経済政策は引き継ぐと言っている。問題は、そういう考えを具体的政策に移す人材の確保にある。だがNLDには人材が不足している。やはり党派を超えて有能な人材を集め、使う必要がある。

最後にミャンマーの民主主義そのものの持つ問題がある。48年に独立したビルマは強力な指導者がいないまま、民主主義の道を歩んだ。だが失敗した。民主主義の理念と権力は個人に集中すべきであるというミャンマー社会や指導者のものの考え方が、民主主義の成長を妨げ、混乱を招き、軍に政権を渡してしまったのだ。民主主義さえ実現すればどうにかなるなどと言った楽観論は通じない。

拙著『激変ミャンマーを読み解く』(東京書籍)の中でも論じたように、ミャンマーの課題は、民主主義を「ミャンマーの現実に合った実効的なものに作りあげる」ことにある。ミャンマー社会の伝統的な権力観を克服するという課題でもある。これはNLD政権においても当然、あてはまる。

出発点は経済

ミャンマーの将来は、ミャンマーの指導者たちの決断に、その多くがかかっている。スー・チー率いるNLDと軍との関係がうまくいかなくなれば、ミャンマーの民主化のプロセスも止まる。そして国際社会との関係も再び緊張するであろう。NLDが、軍の改革派と協力することができればベストのシナリオと言える。

しかも最重点を経済に置くことだ。とにかく経済発展を軌道に乗せ、関係者の協力関係が進み事態が安定したころ、次の難しい課題を話し合えば良い。まず最低限の信頼関係を築くことだ。それができれば現時点では不可能なことも可能となる。

その出発点は、やはり経済だと思う。日本もこのプロセスに積極的に関与すべきだ。とりわけ日本政府のミャンマーに対する協力をさらに強化し、日本の企業進出が容易となるよう、環境整備を不断に進めていくべきだ。同時に日本の対ASEAN外交という視点からも、ASEAN諸国とミャンマー問題を緊密に協議し、ASEAN諸国とともにミャンマーの経済と民主主義の発展を強く支援していくべきであろう。

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宮本雄二

宮本アジア研究所代表、元駐中国特命全権大使。1946年福岡県生まれ。69年京都大学法学部卒業後、外務省入省。78年国際連合日本政府代表部一等書記官、81年在中華人民共和国日本国大使館一等書記官、83年欧亜局ソヴィエト連邦課首席事務官、85年国際連合局軍縮課長、87年大臣官房外務大臣秘書官。89 年情報調査局企画課長、90年アジア局中国課長、91年英国国際戦略問題研究所(IISS)研究員、92年外務省研修所副所長、94年在アトランタ日本国総領事館総領事。97年在中華人民共和国日本国大使館特命全権公使、2001年軍備管理・科学審議官(大使)、02年在ミャンマー連邦日本国大使館特命全権大使、04年特命全権大使(沖縄担当)、2006年在中華人民共和国日本国大使館特命全権大使。2010年退官。現在、宮本アジア研究所代表、日中友好会館副会長、日本日中関係学会会長。著書に『これから、中国とどう付き合うか』(日本経済新聞出版社)、『激変ミャンマーを読み解く』(東京書籍)、『習近平の中国』(新潮新書)。

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(2015年1月3日フォーサイトより転載)

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