波乱含みの選挙だった。原油価格の急落で財政が窮迫するなかナイジェリアの北東部ではボコハラムが跳梁跋扈して勢力圏を拡大。治安が悪化し、当初予定の2月14日の投票日の延期を余儀なくされ3月28、29日に実施したナイジェリア大統領選。優勢が伝えられていた野党「全革新会議(APC)」は、選挙延期を与党の策略とみて反発を強め、政府批判をエスカレートさせていたし、無事にすんだことのないこれまでのナイジェリア総選挙の前歴からみても、大方は騒乱必至と覚悟していた。選挙直前の3月に出た世界4大会計事務所の1社である英国の『アーンスト・アンド・ヤング』社のレポートでは、ナイジェリアに魅力を感じると答えた国際投資家は僅か13.1%にとどまった。
それがなんと、驚くばかりに平穏な政権交代になったのである。イスラーム圏の北部とキリスト教圏の南部、拡大する貧富格差、下落する通貨ナイラと高進するインフレ、残虐非道のボコハラムと統制のとれない軍部。多くの不安定要素をこれでもかと抱えるこの国で、どうしてこれほど平穏な政権交代が可能になったのか。最初の謎がこれだ。
ジョナサンの良識
私には、やはりジョナサン前大統領の果たした役割が大きかったように思える。第1に、APCに非難されても投票日を延期して治安の回復を図ったことだ。周辺諸国と共同してボコハラム掃討作戦を展開、なかでも中部アフリカ最強といわれるチャド軍の投入が大きかった。チャド軍はカメルーンを経由してナイジェリア入りし、ボコハラムの拠点を撃破している。投票期間中、ボコハラムの活動はほぼ制圧されていた。
第2に、開票結果の公式発表の前に、ジョナサン大統領が野党候補であるブハリ元最高軍事評議会議長に電話をかけ敗北を認めたうえで祝福し、支持者たちには選挙結果を冷静に受けとめるよう呼びかけたことだ。当時ナイジェリア内外では、与党「人民民主党(PDP)」が敗北した場合、選挙結果を認めずに騒乱が起こるのではないかと懸念されていた。アフリカではよくあることだ。ジョナサンのこの"歴史的"電話は、機先を制してこのような動きを抑制したという印象が強い。
当選したブハリはかつてクーデタで政権を握り、クーデタでその座を追われた人物だが、2000年代に入ると何度も大統領選に立候補し、今回で4回目だった。泡沫候補的な存在ともいえた。それがなぜ今回、当選したのだろうか。APCは2年前に野党の大同団結で創設された。その後APC内で候補者選挙が行われて、ブハリが統一候補に選出された。これで彼は初めて、本格候補になれたわけである。
「対ボコハラム」と「対汚職」
それではなぜ、与党PDPは負けたのか。この敗因については方々で報道、解説されている。それは治安と汚職だ。PDP政権のボコハラム対策への不満、批判、非難は高まる一方だったが、ジョナサンはこれを、野党勢力が画策する政争として捉えるような発言を繰り返し、さらなる反発を生んでいた。そこに、ボコハラムによる女子高生誘拐事件が起きてナイジェリア内外に強い衝撃を与え、ジョナサン政権に対する支持が急速に失われていった。これが野党の大同団結をもたらした。ブハリに対する一般の支持はなんといっても、彼が「偽物のモスリム」と呼ぶボコハラムへの強い対決姿勢にある。
もうひとつの敗因である汚職問題は、これはもう、構造化されてこの国に組み込まれているとさえいえる。ナイジェリアの1960年代後期は、当時、史上もっとも悲惨な戦争といわれたビアフラ戦争によって費やされた。この国家分裂の危機からナイジェリアを救いだして再建する手立てのひとつが、当初4州で構成されていたナイジェリアを現在の36州にまで細分して分権化することだった。部族的分裂を許容する一方で、強大な地方勢力の出現を阻んだのである。その、どんどん増えていく州政府を石油収入から賄われる交付金で財政的に支えるというのが、ポスト・ビアフラにおけるナイジェリアの連邦国家体制だったといえるだろう。反面、資源収入を生産用途に、経済的で効率的に使おうとするのではなく、政治的に、バラマキ支出として使ってきたわけだから、石油と汚職はきってもきれない関係になり、ここを突けば国家の存亡そのものに関わるという次第になってしまった。汚職を許容するガバナンスになったのである。
ジョナサン政権下でも、有名なオコンジョ=イウェアラ蔵相(フォーサイト「次の20年の20人」2010年4月号)を中心に汚職対策を進めていたが、経済成長が加速するなかで汚職問題はますます深刻化してしまった。これに有権者が怒ったということなのだが、ナイジェリアで汚職撲滅が票に結びついたとは、この国の歴史を考えると隔世の感がある。
選挙による無血の政権交代はアフリカでもすでに幾つかの国で実例がある。だが、ナイジェリアでこれが実現したことの意味は小さくない。かつてコートジボワールで起こったような、選挙結果を無視した現職の居直りは、"アフリカ水準"においても許されなくなった。
低成長対応政権
さらに今回のナイジェリア政変は、アフリカが低成長時代への態勢を整えようとしている証左であるように、私には思われる。
貴重な外貨や投資流入をいかに効率的に使うか。その最大の障害のひとつが汚職である。いまや世界各地域のなかで最悪となった貧富格差を抱えるアフリカ。そのアフリカ諸国にとって政治家や役人の汚職は、政治的にも許されざるコストになりつつある。個人的蓄財に走る規律に欠けた政府が、国民の安全すら確保できないとなればなおさらだ。赤道ギニア、ガボン、アンゴラの高位高官による常軌を逸した浪費は、ヨーロッパでは有名らしい。ナイジェリアの有権者はついに立腹し、かつて武断政治で名を轟かした禁欲主義者の軍人政治家を選んだのである。
若き日のブハリがクーデタで政権を握っていた1983年から85年は、油価が急激に下落した逆オイルショックの時代である。当時の彼の緊縮策は、不合理なまでに過酷を極めた。彼は、アフリカ経済が大失速した1980年代において、世界銀行や国際通貨基金(IMF)の勧告によってではなくみずからのイニシアティブで緊縮政策を行った、アフリカ最初の国家元首だった。
アフリカ人の正義感と怒りが、資源価格急落による外貨収入激減と成長減速を耐え忍ぶための力かもしれない。方向性を誤った怒りが外国人襲撃に結びついている南アフリカとの対比においても、ナイジェリアの選挙は興味深い。
平野克己
1956年生れ。早稲田大学政治経済学部卒、同大学院経済研究科修了。スーダンで地域研究を開始し、外務省専門調査員(在ジンバブエ大使館)、笹川平和財団プログラムオフィサーを経てアジア経済研究所に入所。在ヨハネスブルク海外調査員(ウィットウォータースランド大学客員研究員)、JETROヨハネスブルクセンター所長、地域研究センター長などを経て、現在、上席主任調査研究員。最新刊『経済大陸アフリカ:資源、食糧問題から開発政策まで』 (中公新書)のほか、『アフリカ問題――開発と援助の世界史』(日本評論社)、『南アフリカの衝撃』(日本経済新聞出版社)など著書多数。2011年、同志社大学より博士号(グローバル社会研究)。
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(2015年5月8日フォーサイトより転載)