米朝「チキンゲーム」は続く(4)「金正男」「ワームビア」が落とした影--平井久志

米朝間の「チキンゲーム」は今、微妙な時期に差しかかりつつあるように見える。

米朝間の「チキンゲーム」は今、微妙な時期に差しかかりつつあるように見える。北朝鮮は4月15日に公開した新たなミサイルを次々に実験し、7月4日にはICBMの発射実験も成功させたという状況だ。米国は朝鮮半島周辺に空母を配備したり、グアムにあるB52爆撃機など戦略兵器を朝鮮半島に飛来させたりするといった軍事的な圧迫を加えつつ、中国にも圧力をかけるなど、全世界的な規模で北朝鮮への経済的な圧迫を強めている。

そこに飛び込んできたのが6月19日、北朝鮮で拘束され、昏睡状態で解放されて米国に戻った米バージニア大学の学生、オットー・ワームビア氏の死亡だ。

『朝鮮中央通信』は昨年1月22日、観光目的で訪朝したワームビア氏が「反共和国(北朝鮮)敵対行為」を行ったとして、拘束して取り調べていると発表した。同氏は2015年12月29日に訪朝し、2016年1月2日に帰国しようとした平壌空港で拘束された。同氏は2月29日に平壌で記者会見し、友人の母親でキリスト教徒の女性から依頼を受け、平壌のホテルから政治スローガンが書かれた展示物を持ち帰ろうとしたと説明し、謝罪した。

しかし、北朝鮮の最高裁は3月16日、刑法の国家転覆陰謀罪を適用し15年の労働教化刑(懲役刑に相当)の判決を言い渡した。

ワームビア氏に軽率な点があったのが事実であっても、観光客の若者がスローガンの横断幕を持ち帰ろうとした行為を「国家転覆陰謀罪」を適用し、15年の刑を言い渡すのはあまりに常識外れだ。

その後、ワームビア氏がどういう状況にあるのかは伝わって来なくなった。同氏はこの判決後に何らかの理由で昏睡状態に陥ったとされる。

「当分、寝るしかない」

米朝間では2015年12月以来、欧州各地や中国、東南アジアと会場を変えながら、北朝鮮の外交当局者と米国の国務省OBや学者とのいわゆる「1.5トラック」(半官半民)方式の対話が続いていた。この「1.5トラック」には主に韓成烈(ハン・ソンリョル)外務次官や崔善姫(チェ・ソンヒ)北米局長らが参加した。米国側のメンバーはその時々で替わったが、会議の内容はすぐさま米国務省に報告された。その意味で、米朝両当局者は「国務省OBや学者」を仲介させた「意味のある間接対話」を続けていた。

しかし、この「1.5トラック」対話も危機に直面した。米国務省は2016年7月6日に人権報告書を議会に提出したが、米財務省はこれを根拠に、金正恩(キム・ジョンウン)党委員長をはじめ個人11人、国家安全保衛部など5機関を金融制裁の対象にしたのである。

米国が金正恩党委員長を制裁対象にしたことで、北朝鮮は、これは「最高尊厳」への挑戦であるとして7月7日付で声明を出し「朝米間のすべての外交接触のテコとルートを即時遮断。今後の朝米間の問題は戦時法により処理する」と姿勢を硬化させた。

ここで米朝間の対話は途切れるかにみえた。消息筋によると、北朝鮮側は「当分、寝るしかない」としていた。

しかし、米朝双方とも対話を継続する必要性があった。北朝鮮は米大統領選挙の行方、ヒラリー・クリントン政権もしくはトランプ政権になった場合の北朝鮮政策がどうなるかを探る必要があった。米国もまた、北朝鮮の核・ミサイル政策の行方を知る必要があった。

再開された米朝「間接対話」

こうした事情の中で、リチャードソン・前ニューメキシコ州知事が設立した「グローバル・エンゲージメントのためのリチャードソン・センター」が、9月24日から27日まで北朝鮮を訪問した。北朝鮮がニューヨーク・チャンネルを含むすべての米国との接触を拒否するとした中で実現した訪朝だった。

一行は韓成烈・外務省米州局長(当時)らと意見を交換したほか、平壌駐在のスウェーデン大使と会った。この時点では、北朝鮮で拘束されている米国人はオットー・ワームビア氏と、2015年10月にスパイ容疑で拘束され、2016年4月に北朝鮮の最高裁で10年の労働教化刑を言い渡された韓国系米国人のドンチョル・キム氏の2人。一行は北朝鮮当局に2人の釈放を働きかけ、北朝鮮で米国の利益代表を務めるスウェーデン大使からも事情を聞いたが、大使は2人と面会できていない状況だった。

実はこの時既に、ワームビア氏は昏睡状態に陥っていたのだ。

さらに2016年10月21、22の両日、マレーシアのクアラルンプールで米朝間の「1.5トラック」対話が行われた。北朝鮮側からは、韓成烈外務次官やチャン・イルフン国連大使が参加し、米国側からはデトラニ元6カ国協議次席代表、1994年の米朝核枠組み合意締結時に米国の首席代表を務めたガルーチ氏、米社会科学研究評議会のシーガル氏などが参加した。

『ボイス・オブ・アメリカ(VOA)』によると、デトラニ氏はこの非公式協議について「北朝鮮が2005年の6カ国協議の9.19共同声明に立ち返る意思があるかどうかに焦点を合わせた探索的対話をした」と述べた。また、『聯合ニュース』によると、シーガル氏は韓成烈次官が米朝平和協定の締結を求めたとした。

「金正男氏暗殺」で消えたニューヨーク接触

昨年11月の大統領選挙では、大方の予想を裏切ってトランプ氏が当選した。この間の米朝「1.5トラック」対話はヒラリー氏が当選するという前提で、学者も民主党系の人脈が主流だった。しかしヒラリー政権になれば、オバマ政権の延長になるのは明らかで、米朝関係にドラスティックな展開は期待できない。トランプ政権は軍事的な解決策を模索するなどの危険性はあるが、選挙期間中に金正恩党委員長との「ハンバーガー会談」に言及したことを考えると、北朝鮮にはトランプ氏への曖昧な期待があったのも事実のようだ。

今年になってトランプ政権がスタートし、それまでの「1.5対話」再開の動きが出てきた。米国の学者グループでは、崔善姫北米局長ら北朝鮮当局者をニューヨークに呼び、3月初めに国連近くのホテルで、セミナーという形での意見交換をするという計画が進んでいたのだ。しかし、マレーシアのクアラルンプール空港で金正男(キム・ジョンナム)氏が殺害されるという事件が発生。しかも、その殺害にVXという化学兵器が使われたことが明らかになった。結局、米国務省は北朝鮮関係者へのビザ発給を拒否した。(つづく)

※これまで崔善姫氏の肩書きを「米州局長」としていましたが、北朝鮮がこのほどホームページを開設、北米局と南米局があることが分かりましたので「北米局長」とします。

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平井久志

ジャーナリスト。1952年香川県生れ。75年早稲田大学法学部卒業、共同通信社に入社。外信部、ソウル支局長、北京特派員、編集委員兼論説委員などを経て2012年3月に定年退社。現在、共同通信客員論説委員。2002年、瀋陽事件報道で新聞協会賞受賞。同年、瀋陽事件や北朝鮮経済改革などの朝鮮問題報道でボーン・上田賞受賞。 著書に『ソウル打令―反日と嫌韓の谷間で―』『日韓子育て戦争―「虹」と「星」が架ける橋―』(共に徳間書店)、『コリア打令―あまりにダイナミックな韓国人の現住所―』(ビジネス社)、『なぜ北朝鮮は孤立するのか 金正日 破局へ向かう「先軍体制」』(新潮選書)『北朝鮮の指導体制と後継 金正日から金正恩へ』(岩波現代文庫)など。

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(2017年7月5日「フォーサイト」より転載)

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