「トランプ・カード」に期待するプーチン大統領

ロシアのプーチン大統領は2015年12月、トランプ氏について、「傑出した才能のある人物だ」「彼はロシアとの関係深化を望むと言っており、歓迎する」と持ち上げた。

筆者は3月初め、大統領選さ中のワシントンに1週間滞在したが、共和党トランプ候補と民主党サンダース候補というアウトサイダーの躍進で、ワシントン特有の外交論議は低調だった。

通常、この時期は有力候補の国務省・国防総省人事や外交戦略予測が話題になり、シンクタンクの専門家が政権入りに向けて猟官運動を始める。しかし、ある識者は「ワシントンの外交シンクタンクは開店休業状態だ。トランプ旋風にすっかり醒めている」と述べていた。専門家らの最大の不安は、トランプ氏が本選挙で勝利し、「核のボタン」を握る悪夢だ。

核戦力に無知

ワシントンでは、昨年12月15日の共和党候補の討論会で、トランプ氏が核兵器の無知をさらけ出すシーンが話題になっていた。「最高司令官として、核戦力3本柱のどれを重視するか」との質問に、トランプ氏は「核については、極めて厳格かつ慎重な対応が必要だ。核はすべてのゲームを変えてしまう」などと慌てて答えた。司会者が「3本柱の優先順位はどれか」と改めて迫っても、「私にとって、核兵器は戦力であり、破壊的であり、それは極めて重要だ」などと支離滅裂だった。

共和党主流派のマルコ・ルビオ候補(編注:3月15日に大統領選からの撤退を表明)は同じ質問に、「米国の核戦力を構成する3要素であり、航空機、サイロ、潜水艦から発射する核ミサイルのことだ。3つとも重要であり、米国の抑止力を確保する」と優等生の回答をした。トランプ候補が戦略核3本柱を知らなかったのは明らかで、最高司令官の資格を疑わせた。

ある専門家は「トランプ候補には外交戦略も国防戦略もなく、周囲に外交専門家もいない。大統領になる資格はない」と突き放した。ニューズウィーク誌によれば、「どの候補が米外交のかじ取り役としてふさわしいか」との外交専門家を対象にした調査で、共和党で最も評価の高かったのはケーシック・オハイオ州知事、2位が撤退したジェブ・ブッシュ元フロリダ州知事、3位がルビオ候補で、トランプ候補の支持率は1.66%だったという。民主党では、クリントン前国務長官が80%と圧倒した。

日本は「悪の枢軸」

在米日本大使館関係者は、「主要候補の陣営に接触しているが、トランプ陣営には全く手掛かりがない。どのような外交政策を取るのか皆目見当がつかない」と打ち明けた。

トランプ候補の外交発言では、日本、メキシコ、中国が槍玉に上がり、日本が「悪の枢軸」の一角を占める。中国は貿易摩擦だけだが、日本はこれに「安保ただ乗り」が加わるだけに、当選すれば、戦後最も反日的な大統領になりそうだ。

米国の専門家らは、「トランプ政権」の国務長官が誰になるか全く予想がつかないと言う。一部に、パウエル国務長官時代に国務省政策計画局長を務めたリチャード・ハース外交評議会理事長が国務長官候補との見方が出ている。しかし、ハース氏も1度トランプ候補に外交問題をブリーフしただけで、陣営に近いとはいえない。

共和党系で知日派の重鎮であるアーミテージ元国務副長官は日本経済新聞に対し、「もし私がトランプ氏とクリントン氏を選択できるとしたら、クリントン氏に投票する。多くの共和党員は少なくとも外交政策で、トランプ氏ではなく、クリントン氏に投票するだろう」と明言したが、何人かの共和党系識者も同意見だった。

トランプ候補は同盟意識が希薄で、冷戦期の膨大な防衛投資を酷評し、米軍の世界展開縮小や中東への関与軽減に言及した。従来の共和党路線と真っ向から対立し、ゼーリック前世界銀行総裁ら共和党有識者60人がネット上で、「トランプ氏の当選阻止に精力的に活動する」と表明した。移民排斥やイスラム教徒批判、女性蔑視の発言以上に、「不動産王」は最高司令官にふさわしくないということだろう。

ロシアと蜜月

「核のボタン」を握るロシアのプーチン大統領は昨年12月、トランプ氏について、「傑出した才能のある人物だ」「彼はロシアとの関係深化を望むと言っており、歓迎する」と持ち上げた。プーチン大統領のコメントに、トランプ氏は「ロシア内外で高い評価を得ている人から褒められるのは光栄の至りだ」と応じた。

日本や中国を攻撃するトランプ候補が、選挙演説でロシアを批判したことはなく、「私なら、オバマ政権下ですっかり冷却化した米露関係を前進させることができる」「オバマ大統領はプーチン大統領が大嫌いなようだが、私は彼とうまくやっていける」と述べた。他の共和党候補がプーチン大統領を「悪党」「マフィア」呼ばわりする中で突出している。「ロシアもイスラム国(IS)の掃討を望んでおり、掃討作戦は彼らに任せておけばいい」と、ロシアのシリア駐留を容認する発言をしたこともある。

ロシアの報道によれば、トランプ氏は2013年にモスクワで開かれた「ミス・ユニバース」世界大会を主催。その際、プーチン大統領に近い新興財閥と親しくなり、不動産取引も協議した。モスクワに「トランプタワー」を建設する計画もあるという。ロシアと利権に基づく癒着があるようだ。プーチン大統領とはニューヨークで1度会ったことがあるという。

プーチン大統領がトランプ候補を持ち上げるのは、「トランプ政権」なら米国が大混乱に陥るとの「期待感」も読み取れる。しかし、ロシアの評論家、ウラジーミル・フロロフ氏はモスクワ・タイムズ紙(2月4日)で、トランプ氏が11月の本選挙で勝つことはないとし、「ロシアはトランプ・カードを失う」と書いた。

月末に核サミット

すっかり冷え切った米露関係で最も不安なのは、核管理交渉が行われていないことだ。冷戦時代も米ソ関係は悪化したが、双方の戦力が均衡する中、軍備管理交渉が頻繁に行われ、信頼醸成につながった。しかし、当時のスタッフは退官し、この数年軍備管理交渉は開かれていない。ソ連崩壊後、ロシア軍の通常戦力が弱体化し、戦力バランスの不均衡が目立つ。プーチン大統領はますます核戦力に依存し、核ミサイル近代化を進め、「核の恫喝」にも言及する。

この点では、ロシア専門家のアンドルー・クチン・ジョージタウン大学研究員も「ケリー国務長官とラブロフ外相は頻繁に会い、関係再構築を図っているが、米国防総省は対露融和に反対し、強硬な対応を主張する。ホワイトハウスも国防総省に近い。オバマとプーチンは2009年の最初の出会いからうまく行かず、個人的な反目が強い。オバマ政権下ではリセットは考えられない」と述べ、両軍間の高レベル対話が途絶えていることを憂慮していた。

こうした中で、「戦略核3本柱」も知らない人物が最高司令官になるのは確かにリスクがある。

ワシントンでは、3月31日から2日間開かれる核安全保障サミットの準備が始まっている。世界53カ国首脳が集まって核物質の安全管理や核テロ対策を協議し、今回が4回目。2010年の第1回サミットでは、当時の鳩山由紀夫首相がオバマ大統領との正式会談を拒否され、その言動を米紙から「愚かで敗者」とやゆされるなど、民主党外交の稚拙さが話題になった。今回、安倍晋三首相は日米韓3国首脳会談に臨むほか、G7サミット議長として存在感を高めそうだ。

しかし、ロシアは早々と会議のボイコットを決めており、核大国・ロシアの不参加は世界的な核管理体制に打撃だ。オバマ大統領の外交レガシー(遺産)作りには協力できないということだろうが、習近平中国国家主席も出席を決めており、ロシアの孤立が深まるなど裏目に出るかもしれない。

外交筋は「ウクライナの停戦が履行され、シリアも停戦が進みつつある。プーチン大統領が土壇場で出席する可能性もないとは言えない」と指摘した。その場合、オバマ大統領には嫌な展開となろう。存在感、発信力で優るプーチン大統領に主役の座を奪われることになるからだ。

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名越健郎

1953年岡山県生れ。東京外国語大学ロシア語科卒業。時事通信社に入社、外信部、バンコク支局、モスクワ支局、ワシントン支局、外信部長を歴任。2011年、同社退社。現在、拓殖大学海外事情研究所教授。国際教養大学東アジア調査研究センター特任教授。著書に『クレムリン秘密文書は語る―闇の日ソ関係史』(中公新書)、『独裁者たちへ!!―ひと口レジスタンス459』(講談社)、『ジョークで読む国際政治』(新潮新書)、『独裁者プーチン』(文春新書)など。

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(2016年3月18日フォーサイトより転載)

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