原発再稼働と司法(上)「愚直な明断」と「賢しき黙認」を分けたもの

原発の再稼働をめぐって、福井、鹿児島の2つの地方裁判所から、わずか1週間ほどの間隔で、全く正反対の司法判断が示された。
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原発の再稼働をめぐって、福井、鹿児島の2つの地方裁判所から、わずか1週間ほどの間隔で、全く正反対の司法判断が示された。

関西電力高浜原発3、4号機の運転再開は、住民の生存権を含む人格権を危うくするとして、福井地裁は4月14日に、運転差し止めの仮処分を命じた。その8日後、鹿児島地裁は、新規制基準に適合した九州電力川内1、2号機の安全対策に重大な過誤、著しい不合理はないとして、運転差し止めの仮処分の申し立てを却下した。

決定文を読み比べてわかるのは、高浜と川内という2つの原発がそれぞれに抱える個別の事情を勘案した結果、地裁の判断が分かれたわけではないということである。

同じ命題で分かれた司法判断

審理の手順としては、耐震設計の基礎となる、原発立地点で想定すべき最大の地震動=基準地震動の設定、原発近辺の活断層の評価や最大地震動の算出方法などについて、両地裁とも関電、九電それぞれの取り組みを吟味し、若狭湾に面する高浜と、不知火海に臨む川内の、地質構造的な特徴にも言及している。

若狭湾周辺の活断層は、逆断層型の動きをすることが多く、地上の建造物などに被害を与える比較的大きな地震となるとされ、不知火海沿岸の断層は、正断層型が多く、動いた断層の長さの割に、逆断層型に比べれば地震の規模は小さくなる傾向があるとされる。しかし、こうした具体的な個別の条件の差異が地裁の判断を分けた要因ではない。

福井地裁の決定では、運転差し止めの主な理由として、原子力規制委員会が示した新規制基準には福島原発事故の教訓を十分にくみ取っていない不合理な点がいくつかあり、それに適合したからといって、東京電力福島第1原発のような過酷事故を回避できるわけではない、として、運転差し止めの仮処分を命じている。

一方、鹿児島地裁の決定では、専門家が最新の知見を踏まえて議論した結果の新規制基準と、それに基づく規制委の安全審査は、そのプロセスに著しい過誤や欠損はなく、基準と審査に適合した川内原発の運転再開に不合理な点は認められない、として、住民の差し止め申し立てを却下した。

フクシマ以後の日本の原子力安全行政の骨格である、新規制基準と規制委の安全審査を、原発の安全性を確保する根拠として認めるかどうかで、両地裁の判断が真っ二つに割れたのである。福井地裁は「非」とし、鹿児島地裁は「是」とした。

審理における運転差し止めを求める住民側の主張も、再稼働を目指す電力会社の反論も、取り上げる具体例は違っても、論点・争点はともに、新しい規制の合理性に収束していった。

福井地裁の決定から鹿児島地裁の決定までの8日間に、原子力安全規制にかかわる核心的な新事実が判明したわけでもなく、福島第1原発の事故解析から新たに重大な教訓が導かれたわけでもない。

規制基準と安全審査の信用性という全く同じ命題に関して、同時期の司法判断が、これほど割れるのは、由々しき事態と言うべきではないか。その理由を突き詰めて行けば、事態の本質が見えてくるかもしれない。裁判長の個人的資質、法廷戦術の巧拙などに、その原因を求める論調に、筆者は少なからず胡乱(うろん)なものを感じている。

欠落している「厳密かつ包括的理解」

日本の行政訴訟には、他の先進国とは決定的に異なる特徴がある。住民側の主張を一部でも認めた司法判断が「確定」するケースは極めて稀で、1%以下でしかない。行政側に不利な下級審の決定など上級審で簡単に覆る、というのが日本の行政訴訟の「常識」とされる。それをいいことに、地裁決定の内容をきちんと読み解いて比較しながら真摯に受け止めようとしない安直な「思考停止」が、担当裁判官に対する個人攻撃などの背後に、見え隠れする。

両地裁の決定文を読み比べていくと、判断が180度違った原因は、再建されたという原子力安全行政の体系と、その真価を評価する司法の側の思考回路の双方に、重大な欠落があったことが浮上してくる。その欠落=空隙が、精緻に収れんすべき司法判断の振れ幅を極限にまで拡大する「余地」となってしまったという構図が見えてくる。

欠落しているのは、発生から4年を経ても、収束の気配もなく継続している東京電力福島第1原発事故への厳密で包括的な理解である。

放射性物質を大量に広範囲に放出した福島原発事故により、十数万人が穏やかで安定した日常を理不尽に奪われ、コミュニティーの回復やふるさと再生の見込みが全く立っていない現実を、どう受け止めるのか。

同程度かそれ以上の地震と津波に襲われた女川原発も福島第2原発も、原子炉はみな無事に冷温停止しているのに、福島第1だけが何故に、世界に類例のない隣接4基の連続過酷事故を引き起こしたのか。その構造的要因はどこまで解析され、導かれた教訓とはいかなるものなのか。

「フクシマ」以後の原発運転の安全性を論じるのに、この点が曖昧模糊、もやっとした空隙のままであっては、判断が割れるのはある意味当然である。

「福島の教訓」の中身とは?

鹿児島地裁の決定文には、「福島事故の教訓」という言葉が頻繁に登場する。特に、新規制基準の評価にかかわる部分では、一種の形容詞、あるいは枕詞のごとく、「福島の教訓から導かれた新規制基準は......」という具合に多用されている。

しかし、「福島の教訓」の中身、具体的な内容については、ほとんど言及はない。原子力規制委員会が福島事故をどう解析し、どんな教訓をいかなる形で新規制基準に反映させたかについて、鹿児島地裁は具体的な検討はしてはいない。

権威ある専門家が集まって議論した規制委の結論には、相当程度の合理性があり、福島の教訓を踏まえたと規制委が述べているのだから、教訓は反映されていると考えていい――。

これが、鹿児島地裁の決定文を貫く基本姿勢である。

自律的な司法の判断を放棄し、行政の裁量に全てを預けた「丸投げ」決定などと非難するつもりはない。しかし、基準地震動の策定や断層評価、原発施設の応答スペクトル解析など、不確かさを含む基礎科学的な知見と、数値の確定を必要とする工学的な指標が複雑に入り組んだ規制基準については、専門家の判断を相当程度に尊重するしかない、というのが担当判事の立場である。

原発の安全性については行政の裁量を広く認定した、1992年の伊方原発訴訟最高裁判決に、ほぼ沿った形で鹿児島地裁の決定文は書かれている。基準が合理的で、専門家による審査に重大な過誤がなければ原発の運転は合法というもので、原発訴訟における司法の「常識」となっている。問題はこの常識が、福島原発事故後も通用するかどうかである。

規制委は本当に福島の教訓を精査し、専門的な検討を加えて、新規制基準に過不足なく盛り込み、反映させたのだろうか。そのプロセスに過誤や欠落はないのだろうか。

「規制の虜」現象

規制委が新規制基準を定め、施行したのは2013年7月8日である。前年の9月19日に規制委が発足してから10カ月足らずで、新基準はつくられた。施行時に規制委は福島事故から3つの教訓を得て、新基準に反映させたと述べている。

第1は、これまでの規制ではぜい弱だった自然災害への備えを強化すること、第2は、希薄だった炉心溶融など重大事故(シビアアクシデント)対策を整備すること、第3は、最新の知見に基づいた新しい規制基準を既設の原発にも適用するバックフィットを採用することである。

これら3点はいずれも、福島で過酷事故が起きる前から、日本の原子力安全規制の構造的欠陥として、ずっと問題視されてきたものだ。再稼働を急ぐ電力業界らの求めもあって、新規制基準を早く示すために、旧システムが抱えていた構造的欠陥の是正をフクシマ教訓としてとりえず列挙したに過ぎない。

それらは福島事故を機に世間に知れ渡った構造欠陥であり、福島の事故原因の一端であったことも確かである。

例えばバックフィット。旧規制は、緩い耐震設計基準で建設された既設原子炉には、耐震基準がより厳しく改定された後でも新基準は適用されず、老朽原発ほど甘い規制のままで運転できるという、およそ信じがたい、電力会社にとってはまことにありがたい仕組みであった。国会の事故調査・検証委員会が指摘した、規制組織が規制対象の事業者に取り込まれる「規制の虜」現象の最も端的な例である。

既得権益をなかなか手放さない原子力ムラに対して、「福島の教訓」を錦の御旗に、積年の悪弊を一気に取り除いた規制委の判断に異存はない。しかし、福島の教訓がこの3点だけかというと、大いなる疑問が残る。

規制委が福島原発事故の原因について、津波の浸水による非常用電源の喪失=全電源の喪失だとする「中間報告」を発表したのは、2014年10月8日、新規制基準を示してから1年と3カ月も後のことである。福島事故の原因究明がまだ半ばにも達していない段階でとりあえず掲げた3項目だけで、福島事故の教訓の新規制基準への反映は十分といえるのだろうか。

教訓が反映されていない「新規制基準」

鹿児島地裁の決定が新規制基準策定までの手続きなど外形的な合理性を重要視しているのに対し、福井地裁の決定は、新規制基準の中身、内容に問題が多いと思い切り踏み込んでいる。

福島第1の原発事故直後から、東京電力と経済産業省がまるで呪文のように唱えているのが、「みんな津波が悪いのよ」という津波単独犯説である。原発の安全上重要な機器は、地震では1つも壊れていない、とする言説も繰り返し流されている。規制委もそれを追認しているのだが、明確な根拠は示していない。

福島第1原発の1~4号機は、2011年3月11日、東北地方太平洋沖地震の一撃で、4系統あった外部電源を全て失った。運転中の原子炉3基、1~3号機には制御棒が入り、緊急停止している。発電が止まったので、停止後も高温の崩壊熱を長期間にわたって出し続ける核燃料を、外部の電源を使って安定的に冷却し続けないと、炉心燃料は溶け落ちる(メルトダウン)か暴走することになる。

前述した通り、東北地方太平洋沖地震では、福島第1とほぼ同等かそれ以上の地震動と津波に襲われた2つの原発、東北電力女川原発と東電福島第2原発は、ともに無事に冷温停止している。福島第1との最も顕著な違いは、あの強い揺れにも耐えて、外部電源が確保されていたことで、過酷事故を回避できた。

その教訓は、新規制基準にはほとんど反映されていない。新規制基準でも、外部電源に求められる耐震強度は、旧基準と同じCクラスのままだ。「S」「B」「C」とランク分けされた原発の設備や機器の耐震強度としては最低ランクである。その理由を田中俊一規制委員長は「一般の商用電源だから」と説明している。だからどうした、と突っ込みを入れたくもなる。

多重防護で最初の防護壁となるべき外部電源システム(受変電施設や配電盤など)だが、東電や経産省や規制委によると、安全上重要な機器ではないらしい。はても面妖な......。

地震で外部電源の送電塔が倒壊し、受変電施設の碍子が砕けたとされる福島第1の過酷事故の実態から、規制委や電力会社は恣意的に眼をそむけているようにも映る。

福井地裁の決定は暴論か?

福井地裁の決定文は、耐震基準が甘いという点だけでなく、安全思想の根幹に踏み込んで、新基準の欠落と電力会社の怠慢を指摘している。

「多重防護とは堅固な第1陣が突破されたとしてもなお第2陣、第3陣が控えているという備えのあり方を指すと解される。第1陣の備えが貧弱なため、いきなり背水の陣となるような備えの在り方は多重防護の意義からはずれている」

専門用語を並べ立てて、何やら厳かに語る「識者」たちの論理を、当たり前の市民的常識でバッサリ切り捨てている。まさに溜飲が下がる思いだが、法曹用語のオブラートに包んでいない言葉は、「識者」にはカチンとくるに違いない。用語の使い方をめぐって、「事実誤認だ」と言う批判があるのも確かだ。鹿児島地裁の決定のように、あえて事実認定を回避すれば、事実誤認の批判はかわせたのかもしれない。

気になっているのは、福井地裁の差し止め決定が、ゼロリスク、絶対安全という立場からの暴論だとする、全く的はずれな批判が流布されていることである。その議論は(下)で。(つづく)

塩谷喜雄

科学ジャーナリスト。1946年生れ。東北大学理学部卒業後、71年日本経済新聞社入社。科学技術部次長などを経て、97年より論説委員。コラム「春秋」「中外時評」などを担当した。2010年9月退社。

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(2015年5月15日フォーサイトより転載)

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