米国に次ぐ経済規模となった中国だが、エネルギーや資源の消費にかかわって言えば、世界経済に与える影響は米国を上回っているともいえる。また鉄鋼、セメント、非鉄、石化製品などの基礎資材の需要という面においては、世界全体の4分の1から2分の1に達するまでになった。中国の経済建設方式がこうした需要面での片寄りを生んでいるからだ。
6月12日にピークをつけた上海株式市場では、その後1カ月間に相場の基本の動揺が激しく、中国経済の先行きの見通しを一気に暗転させた。市場経済と計画経済とを都合良く使い分けてきた中国共産党の指導者たちも、今回は「市場における狙撃」の恐ろしさを知ったことだろう。周章狼狽の株価対策が急遽行われているが、今回の「狙撃」により中国経済の大屈折は、もはや世界経済の予想にあたっての大前提とせねばならなくなった。
「狙撃」に至る前の段階で、「計画」を行う当局の立場から、「市場」に対して3つの恣意的介入が行われてきた。(1)金利(2)株価(3)賃金がそれで、それぞれにはもっともらしく役人的解説がなされている。しかしはっきりしていることは、「総設計士」に相当する人物は誰もいないことだ。1978年に復活した鄧小平がその後の改革と開放の「総設計士」と呼ばれたこととの対比で、ことの深刻性が理解されるべきではないのか。
シャドーバンキングと金利
かつての統制下に較べれば、中国の銀行経営者にとっては預金金利と貸出金利の自由度は高まった。従来は預金者にとっての金利が低位に押しとどめられてきたため、不満の預金者のカネは相対的に高い金利を提示するハイイールド債(投機的格付け債など高利回りの債券)に流れた。
こうした債券の発行者は「融資平台」と呼ばれる資金口座であり、地方政府の肝入りで作られたものであった。銀行の融資という形態を避けたこの資金の流れは「影の銀行」と呼ばれる。結果として「影の銀行」は制御不可能となった。しかも銀行が「影の業務」としてこうした資金の流れに関わっていたことも明らかになっている。金利の自由化以外に「影の銀行」を消す手段はないとみた金融の責任者たちは、銀行の金利設定の自由度を公認する方向に舵を切った。これで銀行間の競争を通じて諸金利は決まるはずだった。
ところが市場主義を通じて中国を改革の方向に導こうとした中国人民銀行の首脳陣が、企業部門の負債過多という現実のなかで、リスクに見合った貸出金利の設定など夢のまた夢であることを知るのに多くの時間を要しなかった。国有企業の多くは金利の引き下げを党に働きかけた。既に成長率屈折という国有企業運営にとって危険度の高い状況が生じていたため、党の指導者も金融緩和策としての金利の引き下げ政策を指示することになった。
その煽りで金利を低く抑えられた預金者の不満は、更に高ずることになる。ならば株式市場に彼らのカネを誘導したらどうかという「悪魔のささやき」があった。そこで株価誘導が行われることになる。これが2015年に入ると明確な特徴となった。
「賭場」となった株式市場
今年に入ると、人民日報、新華社などが、株価について楽観的な先行き見通しを継続的に掲載することになる。株価上昇が目立ち始め、3月以降はあたかも賭場のような様相を呈することになった。実体経済では設備過剰が明らかで、政府の発表する工業生産者出荷価格においても3年以上にわたって前年割れが続いている。稼働率も低迷し、「利益出ず、繁忙感はまるでなし」という状況下にあっての株高は、一体何をもたらしたか。
国有企業の財務リストラはそれなりに進んだ。2015年上半期の上海市場でのIPO(新規株式公開)による資金調達額は、世界で香港に次いで第2位の実績となった。ちなみに2014年は第11位であった。
株式市場で調達した資金で負債を減額させるという国有企業の財務リストラに手を貸したのが上海株式市場だった。株価が崩壊したときの危機シナリオを誰が想定していたのか、という問題を残したまま、企業部門のデレバレッジ(債務減額)を実現させたのが2015年上半期の最大の特徴である。他方、個人部門はレバレッジ(借金増額)を利かせて、賭場に臨んだのである。そして悲惨な結末が株価に踊った個人に襲い掛かり、国有企業の社債発行にも影響を及ぼすことになった。その社会的な帳尻は2015年下期において、はやくも明らかになるだろう。
「市場」では決まらなかった賃金
勤労世帯の所得の改善には、中国共産党による支配の正統性がかかっている。これまでは市場での需給ではなく、ガイドラインの提示という形で賃上げ率の引き上げが試みられてきた。しかし、これは中国の製造業の稼働率の低下に直結した。
広東省は改革と開放が最初に花開いた地であり、中国の輸出増の先兵を担ってきた。ところがこの珠江デルタ地帯の生産活動は上昇への力を失いつつある。それはこの地の産業用電力の伸びがピタリと止まってしまったことからも明らかだ。「計画」は「市場」によって間違いなく裏切られつつある。
「守護神」と「専門家」の不在
株主の立場が大幅に損なわれた2015年上半期の顛末は、中国の「市場」に欠けている要素の2つの実態を明らかにした。
第1は、株主の利益の擁護を掲げる米国のSEC(証券取引委員会)に相当する株式市場の守護神に相当するものが皆無であることだ。株主が知るべき情報を全て開示させる権限をもつ部局の不在である。
第2は、自らの職業の専門性を通じて顧客に奉仕する職分に関わる、自立した責任感覚の不存在である。エコノミストは金利に、アナリストは個々の銘柄の株価水準に関して、自らの職分を賭けて予想価を提示する。もちろん常に当たるわけではない。しかし、はずしたときでも自らの判断根拠の不十分であったところを明らかにする責任感覚を、本来は有しているものだ。今日の一連の株価の不自然な動きにあって、投資家が頼るべき基準を提示した専門家の影は、まっこと薄いといわねばならない。
基準なき経済運営と言えば、かつてソ連邦結成の当初、市場なき計画経済運営が落ち込んだ深みからの脱出においてNEP(新経済政策)が採用されたという歴史を思い起こさせる。しかし、どうやら習近平体制のもとではNEPという救済策も採用されないようだ。資源配分の歪みを正す措置も想定できないなかで、中国経済の大屈折はもはや避けようもなくなってきた。日本においては、中国からの混乱をいかにすれば遮断できるのか、という視点からの政策総点検が、もはや欠かせなくなったといえよう。
田中直毅
国際公共政策研究センター理事長。1945年生れ。国民経済研究協会主任研究員を経て、84年より本格的に評論活動を始める。専門は国際政治・経済。2007年4月から現職。政府審議会委員を多数歴任。著書に『最後の十年 日本経済の構想』(日本経済新聞社)、『マネーが止まった』(講談社)などがある。
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(2015年7月15日フォーサイトより転載)