台湾「2.28事件」で「沖縄人遺族」への賠償判決を考える

1947年台湾で起きた「2.28事件」。巻き込まれて殺された日本人=沖縄出身者たちが多数いた可能性は、戦後ほとんど日本でも台湾でも議論されてこなかった。

「歴史の狭間」に落ち込んでしまった人々や問題にどう向き合うか。時として、解決不可能にも思える難題であり、苦しい判断を突きつけられることになる。しかし、そのことにあえて向き合うことで初めて社会や国家が取り戻せる他者からの「尊敬」のような何かがあるのではないかと常々考えている。

「台湾で2.28事件に巻き込まれて犠牲になった沖縄人」のケースは、まさにそうした問題の1つではないだろうか。

父親を事件で殺害されたとして、台湾の政府に賠償を求めていた沖縄県浦添市の青山恵昭さん(72)の訴訟に対する判決が、2月17日、台湾の高等行政法院であり、台湾の政府に対し、600万台湾ドル(約2000万円)の支払いを命じる判決が出た。

筆者は今年1月末、浦添市で青山さんと会った。判決を前に、その心情を尋ねるためだ。青山さんは「まず負けるでしょう。でも最高裁まで争いますから、戦いはこれからです」と今回の判決には悲観的だった。

なぜなら、台湾で賠償を担当する「2.28事件紀念基金会」が調査の結果、1度は青山さんへの賠償を内定したのだが、台湾の内政部が「日本政府は、台湾人軍人・軍属への戦後補償や慰安婦への補償を行っていないので、『平等の原則』から賠償は認められない」と介入したため、賠償が拒否されるという経緯をたどっていたからだ。

判決言い渡しから30分ほど後、台湾にいた青山さんと携帯電話で話した。

「敗訴でしたか」という私の思い込みの問いに「それが完全勝訴です。信じられませんが、勝ちました。父の無念を晴らせました。台湾の裁判所の英断を評価したい。負の連鎖を乗り越える画期的な判決です」と青山さんは興奮気味に判決への感謝の気持ちを語ってくれた。

訳も分からぬまま虐殺

1947年2月28日に台湾で起きた「2.28事件」は、戦後の台湾の運命を変え、今日の台湾アイデンティティの隆盛や、民進党・独立勢力の台頭にもつながる歴史的な事件だ。

一方、ここで事件に巻き込まれて殺された日本人=沖縄出身者たちが多数いた可能性があったことは、戦後ほとんど日本でも台湾でも議論されてこなかった。

第2次世界大戦終戦までの50年間、沖縄と台湾は、同じ「日本」だった。日本統治のもとで経済発展を遂げた台湾には、沖縄から漁業や農業、家事手伝いなど様々な形で出稼ぎや移住した人々が暮らしており、与那国や石垣など先島諸島との間では海上の交流も密接だった。

台湾に暮らしていた日本人のなかでも、沖縄人はいささか突出して台湾に半ば内在化された存在だったと言えるだろう。

2.28事件は、闇タバコの密売人への暴力に端を発した台湾民衆の暴動事件で、背景には、当時、台湾を日本から接収した国民党の腐敗や無能さへの広範な不満があった。

台湾全土で激しい抗議行動が起きたが、その後、中国から上陸した国民党軍によって、2万人とも3万人とも言われる民衆が正当な裁判や取り調べもなく虐殺されたと言われる。

そのなかで、台湾に残っていた沖縄人たちは、国民党側の使う北京語が通じなかったこともあって訳が分からないまま巻き込まれ、殺害されたと言われている。

特に、沖縄人集落があった基隆の和平島(当時は社寮島と呼ばれた)は台湾人に対する激しい粛清があったとされる場所で、集落ごと巻き込まれた可能性がある。

犠牲者の数は30人に達するという研究者による推計もあるが、その実態はよく分かっていない。

和平島には、沖縄人犠牲者の魂を鎮魂するための慰霊碑と銅像が関係者の努力によって最近建立されている。

筆者はここにも1月に訪れているが、観光地である和平島の慰霊碑を見かけた台湾人たちが、「そんなことがあったんだ」「知らなかった」と口々に語っていたのが印象的だった。

さらに3件の提訴も

青山恵昭さんは、鹿児島県出身の父親の恵先さんと、沖縄県出身の母親との間に生まれた。

一家は基隆・和平島に暮らしていたが、恵先さんはベトナムに出征して終戦を迎えた。

国民党政権の日本人の引き揚げ方針によって母親と幼い青山さんは日本に戻っていたが、そのことを知らなかった恵先さんは入れ違いで家族を迎えるために基隆に立ち戻ったとき、折悪しく、2.28事件が勃発し、以来、行方が分からないままになっている。

台湾では、2.28事件に巻き込まれた犠牲者や被害者に対する賠償金の補償制度が設けられている。

青山さんは2013年に賠償を申請。基金会によって被害者であることは認定されながら、台湾の政府側の「対等の原則」の主張によって賠償を拒否され、青山さんは基金会を相手取って裁判所に提訴した。

今回の判決は、台湾の政府が主張するような「対等の原則」は適用されないと指摘し、「外国人の排除も規定になく、支払いに応じるべきだ」としている。青山さん同様、家族に犠牲者がいるとして賠償を求める準備をしている日本人はほかに3人いる。

今回の判決でさらに増える可能性もある。

「歴史の狭間」に落ち込んだ問題

ここで考えるべきは、台湾の判決が、外国人に対しても公平かつ客観的な対応を政府に求めるという高い視点に立った判断を下したことを、日本人として、評価するだけでなく自らの身に置き換えてみることだ。

台湾の政府側が主張するように、日本は戦後、20万人いたとされる台湾人軍人・軍属(うち3万人の戦死者)に対する補償は1990年代に200万円の弔慰金が死傷者の家族に支払われたのみで、未払いの給与や恩給の支給は行われていない。

1952年の日華平和条約締結のとき、この問題は先送りされ、その後も解決されないまま日中国交正常化となり、台湾と断交したため、二重、三重の意味で解決が難しくなった経緯があった。

台湾の人々への補償も沖縄人の犠牲者と同じく「歴史の狭間」に落ち込んでしまったような問題だと言える。

もちろん、日中関係や台湾への外交承認など複雑な面がある台湾人への戦後補償問題と、今回のような2.28事件に関する個人を対象とした補償の問題では、いささか検討すべき法的な対応のレベルが異なってくることは分かる。

しかし、それでも、戦後も70年を経たいまなお、現実に目の前に存在する「償わなければならない人々」に対し、すでに遅きに失しつつあるとはいえ、日本人も日本政府も、国家という枠組みを超えてもう少し真摯に向き合う必要があることを、今回の台湾の判決を通して考えるべきではないだろうか。

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野嶋剛

1968年生まれ。上智大学新聞学科卒。大学在学中に香港中文大学に留学。92年朝日新聞社入社後、佐賀支局、中国・アモイ大学留学、西部社会部を経て、2001年シンガポール支局長。その後、イラク戦争の従軍取材を経験し、07年台北支局長、国際編集部次長。現在はアエラ編集部。著書に「イラク戦争従軍記」(朝日新聞社)、「ふたつの故宮博物院」(新潮選書)、「謎の名画・清明上河図」(勉誠出版)、「銀輪の巨人ジャイアント」(東洋経済新報社)、「ラスト・バタリオン 蒋介石と日本軍人たち」(講談社)、「認識・TAIWAN・電影 映画で知る台湾」(明石書店)、訳書に「チャイニーズ・ライフ」(明石書店)。

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(2015年2月19日フォーサイトより転載)

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