テロの温床「モレンベーク」を歩く(上)複雑に絡まる人間関係

テロなき世界に近づくには、加害者側の実像や環境を探り、その精神構造を分析する作業も欠かせないだろう。

テロなき世界に近づくには、どうすればいいか。パリ同時多発テロの被害者に思いをはせつつ、テロと対決する意志を新たにする営みは、もちろん重要だ。同時に、加害者側の実像や環境を探り、その精神構造を分析する作業も欠かせないだろう。

今回のテロ容疑者の多くは、遠い中東の砂漠に生まれ育った人々でなく、地元フランスやベルギー出身の若者たちである。過激派組織「イスラム国」の支援があったかもしれないが、基本的に彼らは、欧州文明社会でテロリストに成長し、テロを準備したと考えられる。つまり、文明社会に暮らす私たちとテロリストとは、多くの要素を共有しているのである。

テロリストたちの多くが幼少時を過ごし、あるいはその後出入りしていた地域が、ベルギーの首都ブリュッセル西郊の街モレンベークである。そこに漂う空気を吸うことで、過激派やテロリストを生み出す要因を感じ取ることができないか。テロから5日を経た11月18日、ブリュッセルを偶然訪れる機会があり、合間を見て訪ねてみた。

自爆容疑者のカフェ

郊外とはいえ、モレンベークはブリュッセルとほとんどつながった街で、中心部から徒歩でも行ける距離にある。工業地帯に位置して労働者が多く、10万弱の人口のうちイスラム教徒が5割程度、地区によっては8割を占めるといわれる。その多くがモロッコ系である。

まず、地下鉄オスゲム駅から西に歩き始める。ここはモレンベークの北部にあたり、ディープな移民街といった様相だ。イスラム教徒向けの食材「ハラール」の看板を出した店が目立ち、行き交う女性のほとんどはスカーフやヴェールを被っている。スカーフ姿をほとんど見ないパリから来ると、異様に映る。なお、パリのテロの要因として「フランスが公共の場でのスカーフ着用を禁止したことに、イスラム教徒が反発した」との説明が日本にあるという。それが正しいならなぜ、スカーフ自由のベルギーからテロリストが出るのか。少なくとも当のフランスやベルギーで、テロとスカーフ問題とを結びつける発想はほとんどない。

アパルトマンが並ぶ住宅街の角っこに「レ・ベギーヌ」があった。欧州のどこの街角にもありそうなカフェで、名称は店が面する通りの名前である。

この店は、パリでレストランを襲撃したとみられるアブデスラム兄弟が経営していた。当初のうちは、パリ南東部のカフェ「コントワール・ヴォルテール」で自爆したブライム・アブデスラムが店主だった。途中から、その弟で事件後逃亡したサラ・アブデスラムが書類上の店主を引き継いだ。酒だけでなく、こっそり麻薬も売っていたという。

フランスの地方紙『ウエスト・フランス』紙が兄弟の知人(27)の話として伝えたところでは、ブライムは人当たりが良く、怒る姿を1度も見せたことがなかった。一方、弟のサラは精力的でいつも走り回り、酒とセックスに明け暮れる遊び人だった。付き合う女性も連日のように取り換えていたという。仏週刊紙『ロプス』によると、事件後に知人の前に姿を現したサラは、車の中で自爆ベルトを着けたまま意気消沈しており、最後の段階で死ぬのが怖くなったのかもしれないという。

店の窓枠には、ろうそくの燃えがらが3個残されていた。テロリストとはいえ、亡くなったブライムを悼むために市民が持ち寄ったようだ。

店は閉まったままで、すでに売却されているという。警察官も、やじ馬もいない。ロシアから来た2人組のテレビクルーが建物を撮影しているだけである。

カフェの向かいのアパルトマン2階に暮らす白髪の老婦人が、窓から顔を出して話しかけてきた。兄弟も知っているという。「ごく普通の人たちに見えたのに、どうしたのかねえ」

老婦人はここに暮らして29年になるという。「昔はいい街だったのだけど、近年は治安が悪くなってねえ。警察官がいればいいのだけど、数が少ないのよ」。老婦人は、イスラム教徒の移民が街で増える前の時代を懐かしがっているようだった。

もっとも、子ども2人を連れてカフェの前を通りかかったスカーフ姿の女性サナ・エルアグチ(39)は「治安なんて全然悪くないよ」と反論した。ここに住んで11年。「テロのお陰でモレンベークもすっかり有名になったね」と笑い飛ばす。

「変なのが何人かいるだけなのに、みんなすっかり偏見にとらわれている。多くのイスラム教徒は、私のように欧州社会に溶け込もうとしているのに」

彼女も兄弟を知っていた。

「すごく感じがいい人たちだった。もう何がどうなったのか。これを機に、警察がおかしな連中を一掃してくれたらいいのだけど」

「モレンベキスタン」の拠点

一般的な治安のよしあしに議論はあるにしても、この街がイスラム過激派の一大拠点となってきたのは間違いない。今回のテロに限らず、昨年ブリュッセルのユダヤ博物館で4人を射殺したフランス人過激派メディ・ナムシュも、今年8月にアムステルダムからパリに向かう特急「タリス」車内で発砲しようとして乗客に取り押さえられたモロッコ人アユーブ・エルハザニも、この街と関係があった。これらのテロやパリの同時テロの首謀者と見なされ銃撃戦で射殺されたアブデルアミド・アバウドも、この街の出身である。

過激派モスクが野放し状態だったロンドンがかつて「ロンドニスタン」と呼ばれたように、この街を「モレンベキスタン」と呼ぶ人もいる。

その歴史は、近年始まったわけではない。20年以上前から過激派の巣窟と見なされてきた礼拝所がある。

オスゲム駅から地下鉄で2駅南に下り、徒歩でマンチェスター街を目指す。この通りのアパルトマンの1室にイスラム教礼拝所「サントル・イスラミック・ベルジュ」(CIB)が位置している。ここが一躍有名になったのは、2001年にアフガニスタン北部同盟の指導者マスード将軍が暗殺された時だった。その首謀者のチュニジア人アブデサタール・ダーマンが出入りしていたのである。

欧米各国と強いつながりを持っていたマスード将軍は、タリバーンやアルカイダに対抗できるアフガニスタンの指導者として期待されていた。その彼が9.11米同時多発テロのわずか2日前、テレビのクルーを装ったアルカイダの刺客2人に殺された。カメラマン役の助手が自爆し、記者役だったダーマンは逃亡を図ったものの射殺された。

ダーマンはチュニジアから留学生としてベルギーに渡った。当初は世俗的な青年だったが、学業に行き詰まり、CIBに出入りするようになって過激化した。アフガニスタンに渡り、アルカイダのキャンプに集まった欧州系のメンバーの間で頭角を現し、マスード暗殺の任務を与えられたという。ちなみにこの時、アルカイダの同じグループ内で覇権を争っていたのが、後に風刺週刊紙『シャルリー・エブド』襲撃事件の容疑者クアシ兄弟やアメディ・クリバリの師匠となったアルジェリア系フランス人ジャメル・ベガルである(2015年3月17日「テロリストの誕生(2)塀の中の仲間たち」参照)。

イスラム過激派の主流が「アルカイダ」から「イスラム国」に移る中で、かつての人間関係は複雑に絡みながら引き継がれている。(つづく)

2014-08-22-ab0be3d6aeeda1995b3cb46c27f3c748.jpg

国末憲人

1963年生れ。85年大阪大学卒。87年パリ第2大学新聞研究所を中退し朝日新聞社に入社。富山、徳島、大阪、広島勤務を経て2001-04年パリ支局員。外報部次長の後、07-10年パリ支局長を務め、GLOBE副編集長の後、現在は論説委員。著書に『自爆テロリストの正体』(新潮新書)、『サルコジ―マーケティングで政治を変えた大統領―』(新潮選書)、『ポピュリズムに蝕まれるフランス』『イラク戦争の深淵』(いずれも草思社)、共著書に『テロリストの軌跡―モハメド・アタを追う―』(草思社)などがある。

【関連記事】

(2015年11月25日フォーサイトより転載)

注目記事