米・キューバが成功させた「精子外交」:ロシアの情報基地化に先手か

今回の米・キューバ合意は「モスクワに対するメッセージだった」とジャック・ディバイン元CIA中南米部長はウエブ政治誌ポリティコへの寄稿で指摘している。
A Cuban gives the thumbs up from his balcony decorated with the US and Cuban flags in Havana, on January 16, 2015. The United States will ease travel and trade restrictions with Cuba on Friday, marking the first concrete steps towards restoring normal ties with the Cold War-era foe since announcing a historic rapprochement. AFP PHOTO/YAMIL Lage (Photo credit should read YAMIL LAGE/AFP/Getty Images)
A Cuban gives the thumbs up from his balcony decorated with the US and Cuban flags in Havana, on January 16, 2015. The United States will ease travel and trade restrictions with Cuba on Friday, marking the first concrete steps towards restoring normal ties with the Cold War-era foe since announcing a historic rapprochement. AFP PHOTO/YAMIL Lage (Photo credit should read YAMIL LAGE/AFP/Getty Images)
YAMIL LAGE via Getty Images

米国とキューバの国交正常化交渉。米国際開発局(USAID)の請負会社の仕事をしていた米国人男性、アラン・グロス氏(65)がキューバで釈放され、帰国したのを受けて、両国首脳が同時に、正式に発表した。グロス氏は2009年にキューバに衛星通信機器を持ち込んでスパイ罪で逮捕され、懲役15年の禁錮刑を受け、服役していた。

この外交劇。米国で捕まった3人のキューバスパイとキューバで拘束されていた1人の米側スパイの交換で成立したもので、グロスさんはその中に含まれず、「人道的釈放」だった、と米側は説明している。日本のメディアは発表通りに報じたが、そもそも米政府機関が下請け会社を使ってそんな仕事をキューバで行うこと自体、極めて不自然だ。

カストロ兄弟らによるキューバ革命以来、米国は「葉巻に毒薬をしみこませる」「貝殻に爆薬を仕込む」といった方法でフィデル・カストロ前国家評議会議長を暗殺する工作のほか、各種の政権打倒工作まで、多くの秘密工作を展開してきた。マイアミに設置した米中央情報局(CIA)の前線本部には一時「800人を超える工作員を配置していた」と元CIA高官は教えてくれた。実は、冷戦終結後も、米国はひそかに「民主化工作」などを続けていたのだ。

米国際開発局は情報機関の別働隊

グロス氏が参加していた秘密工作は、USAIDと国際開発関係の民間企業「クリエイティブ・アソシエーツ・インターナショナル」が設置した複数の偽装会社が実行していた。彼自身はそのうちの1社とみられる「開発オルターナティブズ社(DAI)」という企業の仕事に従事していた。2009年に観光ビザで約4回にわたってキューバ入りし、コンピューターや人工衛星通信機器を持ち込んでいた。キューバ国内の約2000人といわれるユダヤ人コミュニティ用にツイッターのようなネットワークを開設する計画だったが、キューバ当局に見つかり、逮捕された。

USAIDは情報機関ではないが、事実上「別働隊」のような形で、反米諸国で民主化工作を展開していると伝えられる。これに対し、ロシア政府はUSAID事務所の動向を警戒、同事務所は既に撤退した。

投獄されたグロス氏は関節炎などで健康が悪化、治療を拒否し、支援者らに「自殺」をほのめかすような発言をするようになった。

スパイの妻の子作り

そこで動き出したのが、パトリック・レーヒー上院議員(民主党)とそのスタッフ、ティム・リーサー氏らだった。

リーサー氏らがキューバ政府当局にグロス氏の釈放を求めると、キューバ側は米国内で服役中のスパイ、ヘラルド・ヘルナンデス氏(49)とその妻アドリアナ・ペレスさん(44)の間で「子作り」ができないか、と訴えた。アドリアナさんは、ヘルナンデス氏を深く愛しており、子供を望んだが、彼は1998年にカリフォルニア州の裁判所で終身刑の判決を受けており、出所しない限り子供はできない状態。

レーヒー上院議員らは2013年2月キューバを訪問、ホテルでアドリアナさんと面会して、「感動した」。帰国後、同上院議員は司法省とかけ合ったが、刑務所内での「夫婦の営み」は認められなかった。ただ過去に一度だけ、受刑者の精子を採取して刑務所外に搬出した例があることが分かり、その特例を適用することが決まった。

1回目の人工授精は失敗したが、2014年4月ごろに行った2回目で妻は妊娠した、とニューヨーク・タイムズ紙は伝えている。

リーサー氏らはその間もグロス氏支援を続け、キューバ当局にグロス氏の独房へのコンピューターとプリンターの持ち込みを認めさせ、リーサー氏とグロス氏の間での電話会話も許可させ、グロス氏を励ました。

その間、2013年6月頃からカナダのトロントとオタワで7回、バチカンで2回と計9回の米・キューバ交渉を重ねて今回の合意にこぎ着けた。前代未聞の精子外交はこうして成功した。

ヘルナンデス氏は、今回のスパイ交換取引で米国から釈放された3人のスパイの1人として、キューバに帰国した。出迎えた妻が身重だったため、他のキューバ関係者の間で妊娠の理由をめぐって話題が広がったという。

「謎のスパイ」の正体

ヘルナンデス氏らの米国内でのスパイ工作が露見した背景に、冷戦後も続いた米・キューバ間の激しいスパイ戦争の実態があった。

今回、グロス氏のケースは別にして、米側が釈放したキューバ側スパイ3人に対して、米側は1人のスパイの釈放を要求し、両国間の取引が成立した。

「自己犠牲で米側に情報を提供してくれ、キューバのスパイネットワークを摘発できた」とオバマ大統領が称賛したこのスパイ。当初は「謎のスパイ」とも報じられたが、米メディアはすぐに彼の名前を割り出した。

ロランド・サラフ中尉(51)。キューバ情報総局の暗号専門官で、米国内に潜入したキューバ人スパイとの交信に使う暗号情報をCIAに伝えたという。そのおかげで米側はキューバが短波ラジオで伝える暗号通信を解読。連邦捜査局(FBI)は、今回釈放した3人のほか、国防情報局(DIA)や国務省内に潜伏したスパイを逮捕、「レッドアビスパ」「ワスプネットワーク」と呼ばれるグループを摘発した。

しかし、サラフ中尉は1995年11月逮捕され、翌年の裁判で禁錮25年の判決を受けて服役中だった。今回釈放され、米国入りした。

米側が交渉でサラフ中尉の名前を出した際、キューバ側は予想外の様子で、サラフ中尉がそれほど重要な情報を米側に提供していたことを把握していなかった可能性がある。

キューバ舞台に米ロ情報戦争

レーヒー議員もオバマ大統領も元々対キューバ関係改善が持論で、キューバとの交渉に積極的だった。

それに加えて、今回の米・キューバ合意は「モスクワに対するメッセージだった」とジャック・ディバイン元CIA中南米部長はウエブ政治誌ポリティコへの寄稿で指摘している。

米国に対する敵対姿勢を強めるプーチン・ロシア大統領は2014年7月、キューバを訪問し、ラウル・カストロ議長らと会談した。ロシアは、旧ソ連がキューバに供与した350億ドル(約4兆円)の累積借款のうち320億ドルを帳消しにした。ロシアメディアによると、それと引き替えにロシアは、2001年に閉鎖したハバナ郊外のルルデス電子情報基地の再開をキューバ側に求め、基本合意したと言われる。プーチン大統領はこの報道を否定したと伝えられるが、ディバイン氏は今回の米・キューバ合意で同基地再開の可能性はなくなったとみている。

この基地は1967年に設置。かつて米軍の信号情報(SIGINT)を傍受し、最盛時には米航空宇宙局(NASA)宇宙活動の監視を含め、旧ソ連が傍受した米戦略情報の75%以上をここで入手していた、とニューズウィーク誌は伝えている。

このほか、ロシアはキューバ、ニカラグア、ベネズエラなど8カ国と軍事基地あるいは海軍艦船・戦略爆撃機用補給拠点の設置をめぐって交渉中との情報もあり、ウクライナ危機以後ロシアが対米軍事態勢の立て直しを図ろうとしているのは明らかだ。

オバマ政権の対キューバ国交正常化への動きは、こうしたロシアの対米軍事力強化に先手を打ったものとみていいだろう。ロシアは米・キューバ間の交渉をどれほど探知していたか不明だが、キューバを舞台にした米ロ間の情報戦争がさらに激化するのは必定だ。

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春名幹男

1946年京都市生れ。大阪外国語大学(現大阪大学)ドイツ語学科卒業。共同通信社に入社し、大阪社会部、本社外信部、ニューヨーク支局、ワシントン支局を経て93年ワシントン支局長。2004年特別編集委員。07年退社。名古屋大学大学院教授を経て、現在、早稲田大学客員教授。95年ボーン・上田記念国際記者賞、04年日本記者クラブ賞受賞。著書に『核地政学入門』(日刊工業新聞社)、『ヒバクシャ・イン・USA』(岩波新書)、『スクリュー音が消えた』(新潮社)、『秘密のファイル』(新潮文庫)、『スパイはなんでも知っている』(新潮社)などがある。

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(2014年1月20日フォーサイトより転載)

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