メッシに神は降りなかった

ワールドカップ・ブラジル大会は、下馬評どおり、圧倒的な完成度を誇るドイツが、文句なしの優勝を遂げて終わった。ベスト4に残った4カ国のうち、オランダ、ブラジル、アルゼンチンが引き分けのPK戦を最低1試合は強いられたのに対し、ドイツはすべてPK戦なしで勝ちきっており、その強さが他チームより1次元上にあったことは疑いえない。その点から見ても、結果はきわめて合理的なものと言える。それでも、と、アルゼンチンの優勝を強く祈っていた私は言いたい。この南米でのワールドカップは、非合理なものが主役を張った大会だったのだと。

ワールドカップ・ブラジル大会は、下馬評どおり、圧倒的な完成度を誇るドイツが、文句なしの優勝を遂げて終わった。ベスト4に残った4カ国のうち、オランダ、ブラジル、アルゼンチンが引き分けのPK戦を最低1試合は強いられたのに対し、ドイツはすべてPK戦なしで勝ちきっており、その強さが他チームより1次元上にあったことは疑いえない。その点から見ても、結果はきわめて合理的なものと言える。

それでも、と、アルゼンチンの優勝を強く祈っていた私は言いたい。この南米でのワールドカップは、非合理なものが主役を張った大会だったのだと。

欧州リーグのサッカーに慣れた私たちは、日本代表のみならず、ドイツの完璧さ、アルゼンチンの欠点などを、合理的に分析するだろう。それはそれで必要なことだが、ワールドカップはその合理性からはみ出した部分にこそ、神髄がある。

研ぎ澄まされた闘争心、ガーラ

大会のMVPはメッシが受賞したが、個人的には、アルゼンチンの事実上のキャプテン、マスチェラーノだと思っている。ロッベンを完璧に仕留めたオランダ戦、決勝点以外のあらゆる局面をつぶしたドイツ戦で見せた戦慄の守備は、狂気さえ帯びていた。

ドイツが、スペインのサッカーを進化させた、美しく理にかなってダイナミックなプレースタイルを築き上げたのに対し、アルゼンチンは、エースの10番は守備もそこそこに好きにしていてよい、という、前近代的にも見えるサッカーに固執していた。それはマラドーナ以来定着した、アルゼンチンサッカー固有の文化である。以後、オルテガ、リケルメ、メッシと、10番は攻撃にだけ天才を示せばよい高等遊民として、ピッチをぶらぶらしてきた。

それを支えるのが、一対一では絶対に負けないという、炎のディフェンスである。原始的で泥臭いほどに激しい闘志で球を奪い、相手の虚を衝くカウンターで点を取る、というのが、じつはアルゼンチンのスタイルなのだ。

それを表すのが、「ガーラ」という言葉である。闘志とか不撓不屈の精神といった意味だが、日本語にすると、精神主義的なニュアンスが混ざって、微妙に違うものになってしまう。ザッケローニ前監督が「インテンシティ」という言葉を多用したが、私はそれを俗っぽく言い表したのが「ガーラ」だと思っている。集中し静かに研ぎ澄まされた闘争心とでも言おうか。なでしこ代表のフォワード、大儀見優季は決勝戦を見て、「passionをプレーに込めて表現する。それは決して冷静さを失っている状態ではなく、いい意味での冷静な興奮状態」とツイートしていたが、まさにそんなイメージだ。

ガーラを象徴するのが、マスチェラーノのプレーだった。相手よりも1秒先を読み続け、ファウルを犯さない的確なタックルで攻撃を阻止する。ボールを奪えば、相手が準備する前に、すぐさまメッシにパスをつなげる。私は、男の澤穂希だ、と思った。常に激しい気迫をみなぎらせてはいたが、私にはむしろ、明鏡止水の精神状態でプレーしているように見えた。それほど、マスチェラーノは全能感にあふれていたのだ。そう、全能感に至るような知力と精神力の充実、それがガーラだろう。

サッカーという信仰

全能という言葉、スペイン語で言えばomnipotenteは、本来、神に使われる言葉である。これほど、アルゼンチンのサッカーを表すのにふさわしい言葉はあるまい。マラドーナが、1986年のイングランド戦で決めたハンドでのゴールを、自ら「神の手」と呼んで以来、アルゼンチンサッカーはマラドーナを神、あるいは神の子とする宗教となった。

今回は、メッシに神が降りるかどうかが問われた大会だった。グループリーグでのメッシのまさしく神懸かったゴールの連発は、神が降誕したことを告げていた。特に、マラドーナが観戦し、終了間際にスタジアムを去ったとたん、メッシが決勝ゴールを放った対イラン戦は、象徴的な神の交代だった。

私はこれをレトリックとして語っているわけではない。実際にアルゼンチンでは、そのように見なされたのだ。新聞テレビ等のメディアはもちろん、ツイッターやフェイスブックといったSNS上にも、宗教とサッカーが合体したような画像や文言があふれた。現ローマ法王フランシスコがアルゼンチン人であることも相まって、メッシのスーパープレーの陰には、常に神がいるかのように表現された。アンヘル・ディ・マリアがスイス戦で決勝ゴールを決めたときは、天使として、ローマ法王、メッシ、マラドーナと並べて肖像が描かれた(「アンヘル」はスペイン語で天使を意味する)。ドイツとの決勝は、新旧ローマ法王対決と捉えられた(前ローマ法王ベネディクト16世はドイツ人)。

アルゼンチン人にとって代表のサッカーとは、信仰に近いものなのである。だから神の降りたメッシが奇跡のゴールを奪って優勝することを、信じていた。しかし、メッシに神は降りなかった......。

だが、大会全体を通してみると、何と神懸かった試合の多かったことか。チリやメキシコ、アメリカやアルジェリアの見せた試合は、まさしくガーラ全開だったといえよう。宗教的な情熱と紙一重のような、非合理的にも感じられるパワーを何度も目の当たりにしたのは、舞台が南米大陸のブラジルというサッカー信仰が最も篤い土地だったからだ。

巨大化したW杯がラテンアメリカで開かれることは、しばらく難しいだろう。その意味でも、特別な大会だった。

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星野 智幸

作家。1965年ロサンゼルス生れ。早稲田大学第一文学部を卒業後、新聞記者をへて、メキシコに留学。1997年『最後の吐息』(文藝賞)でデビュー。2000年『目覚めよと人魚は歌う』で三島由紀夫賞、2003年『ファンタジスタ』で野間文芸新人賞、2011年『俺俺』で大江健三郎賞を受賞。著書に『ロンリー・ハーツ・キラー』『アルカロイド・ラヴァーズ』『水族』『無間道』などがある。

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(2014年7月16日フォーサイトより転載)

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