45歳にしてライフ誌に特集されるほどの有名作家であった三島由紀夫。ある意味で彼に引導を渡したのは私かもしれない。

この島国に生きる人は、みな、同じだろう。炎熱の夏が去って久しぶりに清涼の庭に出て、皓々たる月を仰ぐ。ごく自然に古い詩が口をついて出る。

「三五夜中、新月ノ色 二千里外、故人ノ心」

漢詩文は不思議な言葉である。どこの国の言葉でもないのに、それは人を鼓舞し、四季を謡い、人を誘って永遠の淵を覗かせる。世界に類似の言葉があるかと問われれば、挙げられるのはラテン語のみだろう。

白楽天は月を詠んで文集(もんじゅう)に納め、清少納言は感じて草子に書き、現代人に伝えている。

私は香港で大陸から溢れ出た文化大革命の取材中にバンコク特派員の辞令を受け、いったん帰国し旅仕度してから赴任した。1967年8月のこと。

出発前に我が書棚の前に立ち、何を持っていこうかと考えた。そして英人記者の中にも、アフリカ取材に行くのにジョン・ミルトンのラテン詩集を持っていくヤツがいるはずだと思い、岩波・大系本の中から『和漢朗詠集 梁塵秘抄』を取って函から抜き、裸の本をスーツケースに放り込んだ。

平安時代の詞華集anthologyである。行き届いた補遺が付いていて、本文に引かれた原典を示している。例えば白楽天の「長恨歌」は、補遺に全文が載っている。何か役立つことがあるかもしれない。

バンコクに着いて支局へ行くと、若いタイ女性が座っていた。プイ・カモンラートという名で、少し日本語を喋る。日本から来た客の案内には適役だが、内気で政府要人との通訳ができない。私はベトナム戦争に関連して在タイ米軍やタイ軍に取材のできる、英語の巧い子が欲しかった。

しかし当時のバンコクは、どこへ行くにもまずタクシーを停め、運転手に行先を告げ料金を交渉してから乗る町だった。プイさんには、しばらく勤めてもらうことにした。

同じ1967年の10月だと思う。東京の本社から電報(今日ならメールだろう)が来た。

「ノーベル文学賞受賞者が近く発表される。三島由紀夫氏に授賞の可能性があるが、三島氏はインド旅行の帰途バンコクに滞在中である。居場所を確認のうえ受賞者発表時には談話取材できるよう準備せよ」

私は格の高いエラワン・ホテルだろうと見当をつけ、行って三島さんに会った。その前後のことは拙著『五衰の人』に詳述してある。

その年の春だと思うが、私は西馬込の三島邸に行って、自衛隊への初の体験入隊から帰宅した三島さんをインタビューしている。裸になって、演習中に受けた擦り傷を見せたりもした。当時バンコクにいた記者の中で、三島さんの既知の者は私だけだったのだろう。

私は三島さんの身になって考えた。ノーベル賞の発表を一刻も早く知りたいだろう。読む物が欲しいだろう。最後に、話し相手が欲しいだろう。

支局には東京の昨日の朝刊が空便で届く。私はプイさんにタクシー代を渡し、毎朝三島さんに届けさせた。

プイさんは初歩的な日本語を、独特のアクセントで話す。

毎朝ドアを遠慮がちにノックし「ミシマーさん、起きてますか」と声をかけられ、三島さんは最初驚き、次の日からは待ちかねるようになっただろう。

後に知ったが、このプイさんの物腰が、『豊饒の海』に出てくるジン・ジャン姫を髣髴させるのである。三島さんは「いい子だ」を連発し、バルコニーに並んで立っているところを私に撮影させ、「写真が出来たら送ってください。ぼくの住所は......」と書きかけるので、私は「ぼくは新聞記者です。三島由紀夫の住所くらい知ってますよ」と遮って笑った。

ホテルの三島さんの部屋には、見たところ1冊の本もない。読む物も語り合う人もなく、独りノーベル賞の発表を待っている。堪らないだろう。孤独で死にそうだろうと私は考えた。

ふと支局の棚を見ると、『和漢朗詠集』がポツンと置いてある。私はそれをプイさんに持たせず、午後に私自身が携えていって三島さんに貸した。

途中ラオスに行ったが都合ほぼ1週間のバンコク滞在。三島さんは「有難う。楽しませてもらいました」と言いながら『和漢朗詠集』を返した。ノーベル文学賞は、他の国の詩人に行った。

その後のことは、三島に興味を持つ人、彼の文学を好む人なら誰でも知っている。あくまでも晴れた秋の日に、彼は最も苦痛を伴う死に方を択び、世には生命の安全より尊いものがあることを身をもって示した。

私は自衛隊東部方面総監部バルコニーの下に立って見聞した一部始終を書き、その後も研究者の訪問を受けて当日のことを語った。2年か3年で、私は普段の生活に戻っていた。

何かを書いているときに、何かについての名句が浮かび、確認するため『和漢朗詠集』を取り出した。三島さんから返却され、日本に持ち帰って我が家の書棚の元の位置に戻した、その本である。返してもらい、日本に持ち帰って、以後1度も開かなかった。

後ろの方に薄っすらとだが、開いたページの癖が残っている。

何気なく読むと、

「生ある者は必ず滅す 釈尊いまだ栴檀(せんだん)の煙を免かれたまはず 楽しみ尽きて哀しみ来る 天人もなほ五衰の日に逢へり」

人は必ず死ぬ。お釈迦様でさえ死んで、薫り高い栴檀の木で造った棺に入り、焼かれねばならなかった。世の楽しみは、やがて尽きる。永遠の命を授かっている天人も、老いれば髪が白く、腋が臭くなるなど5つの老衰の兆が表れるものである云々。

それは東大を優等で出て、その前から創作を始め、『仮面の告白』『金閣寺』『宴のあと』『鏡子の家』など数々の傑作を世に出し、『サド侯爵夫人』はフランスで繰り返し上演され、現に『豊饒の海』を発表中で、「ライフ」誌に特集されるほど世界的な有名作家になっている三島さんにも、間もなく老いと死が来るよと囁く「平安の声」ではなかっただろうか。

私は三島文学の研究者ではないから、詳しいことは知らない。だが彼の新聞寄稿によれば、『豊饒の海』の第4部、最終巻のタイトルは、彼のバンコク旅行時には未定だった。

結婚し一男一女を得て世人の羨む家を建て、無限の将来を約束されている。まだ45歳。

天人五衰。それの書いてあるページには「世の中をなにゝたとへむ朝ぼらけ こぎゆく舟のあとの白浪」や「年々歳々花相似 歳々年々人不同」など、人生のはかなさ、消えやすさを詠んだ詩歌が列挙してある。

私は、それに気付かなかった。人生最後の「生存のしるし」に題をつけかねていた人に、ハイと言って本を貸した。三島さんも身構えずにページを繰ったのだろう。だが、そこに「天人五衰」があり、それを見た瞬間に彼がこの世に残す訣別の書の題は「天人五衰」でなければならなくなった。ある意味で、私は三島さんに引導を渡した。

三島さんの死後ほぼ1年目に、また三十数年後に、私は奈良・帯解の円照寺を参観した。『天人五衰』の幕切れに置かれた尼寺・月修寺のモデルである。

そこには、あの日の市ヶ谷にあったバルコニーからの絶叫も、それを野次る自衛隊員の怒号もなかった。ただ布置のやさしいお庭に落ちる午後の日差しと静寂だけがあった。45で去ったあの人は、死んで45年になる。

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徳岡孝夫

1930年大阪府生れ。京都大学文学部卒。毎日新聞社に入り、大阪本社社会部、サンデー毎日、英文毎日記者を務める。ベトナム戦争中には東南アジア特派員。1985年、学芸部編集委員を最後に退社、フリーに。主著に『五衰の人―三島由紀夫私記―』(第10回新潮学芸賞受賞)、『妻の肖像』『「民主主義」を疑え!』。訳書に、A・トフラー『第三の波』、D・キーン『日本文学史』など。86年に菊池寛賞受賞。

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(2015年11月4日フォーサイトより転載)

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