"封殺"は独裁、民主主義なら"論破"せよ!

百田尚樹氏の「沖縄の2紙をつぶせ」という発言も波紋を広げたが、これも問題が感じられながらも、百田氏自身は民間人である。
時事通信社

日本は言論の自由が保証されている。もちろん、公共の福祉に反しなければとの条件付きながら、思想、信条に関わることで罪に問われることはない。ただ、立場上、発言したことに対して道義的に問題視されることはある。6月25日に開かれた自民党の勉強会「文化芸術懇話会」における、安倍首相に近い若手議員の「経団連に依頼して広告主を通じメディアに圧力をかけよう」と述べたとされる発言はその典型例と言えるだろう。

百田尚樹氏の「沖縄の2紙をつぶせ」という発言も波紋を広げたが、これも問題が感じられながらも、百田氏自身は民間人である。氏が語った"冗談"などではなく"本気"だとしても、それは民間人による一つの意見、考え方に過ぎない。2紙をつぶそうとしても、実際につぶせるものではないだろう。これに対する意見、反論、批判はあろう(私もメディア出身者としてどうかと思った)とも、そう述べる自由が百田氏にはある。

ところが、自民党若手議員の発言については、政権与党の一員であることから、発言の重みが百田氏とは違うだろう。現実には、発言した議員が党内で処分を受けたことから、その内容が党の施策に結び付くことはないと思われるが、実行される可能性がゼロとは言い切れない。

筆者自身は、左右どちらかと言えば、右寄りの人間なので、左寄りの立場からの発言、それに近い一部マスコミの論調に腹が立つことが正直ある。現職の県会議員の時には、保守の立場から諸問題について議会内で共産党など左の勢力と戦ってきた。しかし、激論となっても、また、意見は相容れることは絶対になかろうとも、相手の立場は尊重する。意見の封殺などとんでもない。

軍国主義の復活、人民政府の樹立といった左右それぞれの極端も含め、いろいろな意見があるのが自然だ。これらを仮に住民投票で問うことになっても「そいつは、日本にとってまずいぞ」「それじゃ、我が国はおかしくなる」と、極論は投票で排除されるだろう。そこまで日本人はバランスが崩れているとは思えないのだ。

圧力かけて云々というのは、言論の"封殺"とみてもいい。このように、自分にとって気に入らない発言の存在を許さないことは、それこそ独裁と言えよう。ご自身は言論の自由で述べたかもしれないが、その自由をはく奪することに気が付いているだろうか。

気に入らない意見があるなら、それを"封殺"するのではなく、フェアな議論の場で意見を戦わせ"論破"すればいい。意見を戦わせてこその議論であり、それが民主主義の根幹なのである。議論は異なる意見がぶつかり合い、結論を出すために擦り合わせていくもの。封殺してしまえば議論にならない。ゆえに、独裁の始まりなのだ。

もちろん、メディアも言論の自由に甘えてはならず、厳正に中立・公平性を守る必要があると考える。「反権力」を掲げるのは、何となく聞こえがいい。しかし、それも行き過ぎれば、結果として"報道機関"として自分の首を絞めることになってしまう。

今回の自民党若手議員の発言は、しかるべき立場にある者の発言として許されるべきものではないと思うが、なぜ、そのような発言が出るに至ったのか──それも合わせて考えてみたいと感じた。

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